12.顛末
日昇ヶ位の妃は楼に入るなり、くずおれるようにして倒れたのだという。
緊張の糸が切れたようなそれは、まるで扉の閉まる音を合図にしたかのように見えたらしい。自室に辿りつくまで堪えられなかったあたり、彼女がぎりぎりの限界まで耐えた証のように思えた。
騒がしさが落ち着いた数刻後に、衛兵伝いで事の次第を聞いた――もちろん側仕えという中継ぎはあった――のだった。
その日は夜になっても女官が顔を出すことはなかった。
輿入れ直後の事故というものは、それくらいの大事だからだ。道中でなかったことが幸いしているとは言え、医者を呼んで寝かしつけておけば済むものでもないだろう。
倒れた原因は気温の高さ。私がかつて危惧したこと、それが最も悪い結果になって表れたのだから気分のいいものではない。
頭や腹を強く打ったということはなかったそうだが、五日経った今も気分は優れないままで床に臥せていると聞く。
もしもあのとき、もう少し踏み込んでいたら。
時を巻き戻したところで、実際にはできもしないことに責任を感じてみる。わかってはいたが、そんな現実には蓋をする。事実、過去をやり直すことなどできないのだから。
それだけで、慈悲深いお妃さまのような気分になれた。
輿入れから数日経ったものの、殿下は未だ楼には足を踏み入れていないようだった。
日昇ヶ位の方が臥せっている以上、婚儀を進めることはできない。あとは夜の訪いを残すばかりといったところだろう。
いくら日延べしてしまっていても、それらが済むまで殿下は私に会いに来ることはおろか文さえ交わすことも赦されない。
殿下と新しい妃が婚礼を済ませることと、殿下と会えない日々がつづくこと。
私はどちらを望めばいいのだろうか。
息苦しくなった胸を押さえたと同時に女官の心配そうな声が降ってきた。
「やはり、無理をなさっているのでは?」
「いいえ、日昇ヶ位の方のことを考えておりました」
これは別に嘘というわけではない。
「今も臥せっておられるなんて、心配です」
「……翠雨様が以前に仰られておりましたこと、そのお心をふいにしてしまいました。われわれの不甲斐なさが招いたことで――」
「い、え。先日も言いましたけれど、批判をしているわけではないのです。
あなたたちは決まりごとの中で精一杯努めてくれたのでしょうから」
今度は少し、嘘だった。
こうなったのは彼女たちのせいだと、詰る気持ちが全くないというわけでない。
どちらに行けばいいのかわからない、中途半端な気持ちで鴇耶様のことを考えているのはいやだからだ。
「ありがたく存じます。ほんとうに、翠雨様は周りによく気を配られている方でございますね。
周囲ばかりでなく、ご自身のお身体にも気を配ってくださいませ」
妃がひとり倒れたせいか、こうして私の体調もやけに気にしているようだった。だが、特段今までがないがしろにされていたわけではない、むしろ過剰とも言える領域に足を踏み入れかけている。
問題がないと応えるまでは静かに様子を伺うその視線は、あまり気持ちのいいものではない。気付いてからは、すぐに大丈夫だと返すようにしていた。
「えぇ、至って良好ですよ。こうして楼内にいますから夏の日差しは気になりませんもの。
ほら、それに――ここは高いですから、風もよく入るのです」
「それはようございました。
ですが少しでも気分が優れないということになりましたら、すぐに横になって連絡を――」
昨日も、その前の日も聞いた言葉は、さながら口上のように響く。
神妙な顔付きで何度か頷いて、彼女に了承の意を伝えた。
こうして口を開けば体調についての話ばかりで、あの日側仕えの者に様子を見に行かせたことを咎める気配はない。あの慌ただしさでは、こっそり覗きに行ったことは知られていないのかもしれない。
数日経っている今でも発覚していない以上、今後露呈する要因などないだろう。
私はひっそりと抱き続けてきた後ろめたさを手放したのだった。
「そういえば、日昇ヶ位の方を気にしておられますけれど。ならば翠雨様より見舞われてはいかがでしょうか。
本来ならば後より加わった妃が、先に入っている妃のところに挨拶に向かうことが正しいあり方でしょう」
見舞い。
涼香なら行くなと言うだろうか。それとも嬉々として自分も付いていこうとするのだろうか。
不甲斐ない主に向かわせず、自らを名代と気取って乗り込むのかもしれない。
どちらにせようっとうしいことには代わりないだろう。今、傍に付いているのが別の者でよかったと思う。
「ただ、もう、こういった事情ともなれば例外でございます。知らんふりをしている方が悪手とさえ言えるのです」
「でも……意識はおありとのことのことですけれど、まだ寝台で休まれているのでしょう?
そんなところにいきなりお伺いしたら、身体に障るのではないですか」
それも、鴇耶様に先んじてなんて。
至極まっとうな意見はするりと出てきた。そのせいか、本当のところ私がどうしたいのかは分からないままだった。
「もちろん、一通り落ち着かれてから伺いたいとは思っております」
「お身体はもう落ち着かれておりますよ。
非公式なものですので、殿下より先と言う部分は気にされなくとも問題ございません」
たったそれだけの言葉で私の反論を封じ込めたつもりにでもなったのか、女官はそれ以上の会話を切り上げて部屋を出ていった。
先触れと説明はこちらですべて済ませておくと言い置いて。
彼女の言いたいことが全くわからないというわけではないが、時機は今より後ではないだろうか。
もちろん自分の決断ではないところでの決定事項はいっそ楽なものだ。なのにどうにも取りやめを口にしたくなる。
それはきっと、私の気持ちにあるのだろう。考えないようにしている気持ちに。
どんな類のものかはわかっているから、うっかり引き出してしまわないうちに早く蓋をしなければ。
このまま、提示された方向へと流されてしまった方がいいのかもしれない。
それがきっと平穏でいられるはずだから。




