10.夏の終わり
「最近、よく来られますよね。楼の守衛士よりもよく会う気がします」
「こんなにたくさん来ていては、いや?」
「いいえ、会いに来てくれてうれしいですよ」
ふと零した一言に、朱璃姫が食いついてきた。
これはすでに何度か繰り返しているお決まりの遣り取りだ。
彼女はこうして私の許可を取りたがる。その度に、私はおんなじ意味の言葉でもちがう風に返していた。
「いやだ。こんなにお会いしているのなら朱璃は翠雨様の夫君みたいではない?
ここに住まわれる兄上には負けるのだけれどもね」
机と陶器のぶつかる音がはっきりとするくらいに、朱璃姫は肩を揺すって面白そうに笑った。
くすくすと堪えるように笑う声は、やがて呼吸を失敗したような咳も混ざり出す。
どこが面白いのだろう。愉快そうなところに、困惑に満ちた視線で不躾に眺めるのは憚られ、私は視線を宙へと放つ。
「朱璃は講義も課題もきちんと取り組んでいるの。だから誰にも、何も言われるはずがないのよ」
はじめこそは数日に一度訪れていたものの、いつの間にか一日置きに顔を見せるようになっていた。
たとえば朝餉の後の一息を入れた頃。あるいは午睡の前の時間だとか。
いずれも茶を二杯空ける程度の短い滞在でしかなかったが、今のところ足が遠のく気配はない。むしろ、短いからこそ息抜きなのだとやってくる。
私ならばきっと、わざわざこうして通い詰めたりはしないだろうと思う。
講義がなくなった今は、楽器に触れたり、札遊びに興じたりしている。そこに休憩を挟めば一日は簡単に終わってしまうのだから。
ただ朱璃姫はそれらが苦手だというから、人と会うことでその代替としているのかもしれない。
こうして繰り返してしまうくらい、彼女の世界は退屈なものなのだろうか。
こんな些細なことに価値を見出すくらいには。
それとも、まだ姉君のいなくなったさみしさに耐えられないのだろうか。
朱璃姫はしばらく笑い続け、落ち着いた今はゆっくりとお茶で喉を潤している。
こくりと上下する喉も、小さな手には少し大きな器も、話すたびに揺れる頭も。
見ているだけでなぜだか心が穏やかな気持ちになる。
もしも娘ができたら、こんな気持ちになるのだろう。ふと、そんな空想が頭を巡って溶けた。
私たちの歳の差だけで考えるならば、娘というより妹の方がしっくりくるのかもしれない。けれど、私にとって現実味があるのは娘の方なのだ。親しみを感じるのも。
「咎められることがないのなら、いいのです」
そう言うと、彼女はなぜか嬉しそうに微笑んだ。
肯定されたのがうれしかったのだろうか。それとも特に意味はない愛想笑いなのだろうか。
でも、どちらでもいい。そんな結果に意味のない理由を捏ねまわすよりも、少し彼女の頭を撫でてみたいという気持ちになる。思っただけで、指先は少しも動くことはなかったが。
見送るのは扉の前まで。それはいつもと変わりのない風景でもう慣れ始めたものだった。
けれど、朱璃姫が口を開く。
「そういえば、あと十日もすれば新しい方がいらっしゃるのよね。
だから朱璃はしばらく翠雨様のお部屋に来ることができないの。そういう、決まり」
もうすぐ夏も終わる。新しい妃がやってくるのも、もうまもなくのことであった。
具体的な日時もどの部屋が宛がわれるのかも、私は誰にも問うていないせいか知らなかった。
日が近付けば、いやでも知ることになるだろうから、はしたなくもわざわざ自ら聞いて回る意味はない。
あと十日。まだ先のように聞える。非現実的な気持ちのまま、私は指先だけを順に、押すようにして数を数えた。
そうしたって、数の上では変わらないだろうに。数えたところで、何かが見出せるわけでもないのに。
帰り際に、朱璃姫はつまらないとか忘れないでねと繰り返しては私を見上げる。
反射的に何とか頷くことはできたけれど、言葉を返すには間が空いてしまったかもしれない。何とか搾り出しては別れの挨拶を交わした。
「…………っ、えぇそうですね。
しばらくお会いできないのはさみしいですが、次のお越しをお待ちしておりますね」
いつものように彼女は帰って行って、私は閉じた扉に背を向けた。
心の底の方に砂を撒かれたような心地がする。この瞬間にもざらりとしたいやな感触だけが伝わってくるようで。
そんなしばらくは後を引きそうな錯覚に、溜息を溢した。
***
単純な作業というのは上手く没頭できるときもあるけれど、何か気に掛かることでもあるならば無心とはいかないもの。
今日は楽器に触れる気はなかった。
打ち込めるとは思えなかったし、湿気のある中ではいい音が出せそうにもなかいからだ。それに汗が垂れるのも避けたい。
だから裁縫などという、滅多にしないことをしている。
縫い目が荒くなってしまうのも、きっと馴れないことをしているからだろう。
集中は途切れがちである。
「数日とはいえ、姫殿下がお見えにならないというのも、さみしゅうございますね。
すっかりあのお方がいらっしゃることが日常となっておりましたから」
「……そうですね」
降ってきた声に、私はそっと眉を潜めた。
上の空のような、そっけない返事はわざとだ。俯いたままではこの表情も見えはしないだろう。でもいっそのこと披露してやっていいかもしれない。
今日の涼香は何かあるわけでもないというのに、やけに声を掛けてくる。そのことをうっとうしいと感じていた。
話したいことがあるのはあからさまで、それを隠す気すらないようだった。
新しく召し抱えられる妃のこと――朱璃姫が口にしたのだから、話題として解禁されたとでも思っているのだろう。
どうせ不確かな噂話程度のものが大半なのだろうから、放っておけばいいものを。
女官からはじめて他の妃が来ると告げられた時につっぱねたせいだろう。
こうして遠回しに話を引き出してこようとしているようだった。
そんなものをわざわざ話題にしたいとも思えない。だから 私は知らぬ顔で針を繰った。
「でも二日毎にこうして入り浸るのは問題があるかもしれないでしょう。
こうして訪ねてくださることはうれしく思いますけれど、たまにはしっかりお休みされた方がいいのです。いい機会かもしれないですね」
私の言葉に肩透かしだとでも書きつけたような顔で、涼香は頷いた。その表情ももう見飽いてしまいそうだ。
王族の務め、妃の務め。分かり切っていることで、今何を口にしたって、結果は変わらないのだ。おとなしくしていればいいのに。
むやみに口にして、無駄に心を騒がせる必要などない。
だから、おとなしくしていて。お願いだから。
「ここの刺繍は取り掛かると途中でやめられそうにないので明日にします。
涼香、片付けておいて」
布地の上に転がした針は、跳ねることも音を立てることもなかった。
今、無性に鴇耶様に触れたい。早く月たちが顔を見せてくれたらいいのに。
それなのに木枠に囲われた空は、まだ明るく青々しかった。




