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8.朱璃

ここに住んで早一月、夏も間近の頃。

夜毎訪れる鴇耶様との仲は、日に日に深まっていく。

寝台に入る前に会話の時間のおかげだろう。わずかではあっても、毎日続けるうちにそれは習慣以上のものとなっていた。

最初のぎこちなかった頃が遥か昔のように、そして話題に困っていたことなど信じられないほどに、私は鴇耶様との時間に馴染んでいたのだった。

気付けば随分と心を許している。両親とも側仕えたちともちがう、夫婦という関係は新鮮なものだったせいか最上のもののように思えた。


残念なことと言えば、例の蜂蜜についてのこと。

交易路の一部が災害の関係で通れなくなってしまったらしい。

脇の小さな通路は使えるそうだが、それも人や馬が通れるくらいの幅しかなく、荷台付きの大車や大荷物の家畜たちは通れないようだった。

だから、急ぎではない嗜好品は自粛するよう、王令が出ているのだという。

仕方のないことだとはわかっているが、残念に思う気持ちは押さえようがなかった。状況が状況だけに、不謹慎だが、外に出さなければいいだけのことだ。

ただ、いつとも知れぬとまでに不明瞭ならば、待ち遠しくて息苦しいほどだった気持ちは萎える。それについては、良かったような気がした。


そんなわけで、私の心は今までにないくらいに穏やかなものだった。

毎日の講義も今は終盤ともいえる状況で、あと数日ですべてが終わるとの言葉を貰えたからということもある。

特殊な儀礼などがあったときには臨時で行われることもあるそうだが、それは年に数度もないくらいだという。


そうなると、暇な時間が出てくるだろう。

ここに来てからは古筝にもほとんど触れていない。弦を弾くように三本の指で机を引っ掻くと、慣れ親しんだ音が耳の奥で聞こえた気がした。


「翠雨様、お客様がいらっしゃいました」


そこへ扉の向こうから声が掛けられた。

お客様?

ここに来てから、私を訪ねてきたのは鴇耶様だけ。さすがに楼主をお客様と言うことはないだろう。

私を訪ねてくる。考えられるのは宰相の父だろうか。

立ち入り禁止と言うわけでもないが、それならあらかじめ先触れの連絡があるのではないだろうか。


「はい、少し待って下さい。今そちらに行きますから」


指先をそろりと撫でながら立ち上がり、扉の方へと足を向ける。

何はともあれ、迎えなくては。

考えたところであと数歩も進めば、すぐにわかることなのだから。

それでも音を立てない程度に足早になってしまう。


「どうぞ、入ってください」


扉の近くまで寄って行って、私は姿勢を正した。

ゆっくりと開いた先にいたのは側仕えの女ただひとり。その他、人影はないようだった。

もしかしたら、他の階層で待たせているのだろうか。

そう自己完結を図ったところで、入口を塞いでいた女が横に身体をずらす。

そこから現れたのは、まだ幼い少女だった。


「星天ヶ位の方、はじめまして!」


彼女は堂々とした足取りで部屋の中まで進み、礼の形を取る。それはぎこちなくはなかったが、小さな身体には大仰なもの。

だからこそ分かることもあった。未だにこの格式ばった動きを取る者は限られている。

それは、王族に連なる人間くらいのものだったから。


「私は朱璃、と言いますのよ。あなたは翠雨様でしょう?」


どうやら間違いなく、王族の者のようだった。

朱璃、それは鴇耶様の妹姫の名なのだから。


「ようやっと、今日の日中はお時間があると聞いてきたのだけれど。

……ねぇ、あなたは、口がきけないひとなの?先程から何もお話にならないのね」


きらりと瞳を光らせて、朱璃様は私を見上げている。

気圧されていた私は慌てて口を開いた。


「失礼いたしました。私は話すのが遅いのです。

いらせられませ、朱璃様。お越しいただき、ありがとうございます」


この兄妹は揃って、初対面で勢い込んで話し出すところが似ている。

血縁者を前にして、ここにはいない鴇耶様の気配を探しているなんて失礼なことをしていることはわかっていた。

それでも私は夢中になって、仕草や顔立ちから鴇耶様の面影を探そうとしている。

分かっているのにやめられないなど、自制心がおかしくなってしまったのだろうか。


「今の立場は朱璃よりも翠雨様の方が上なのよ」


どうやら、別のところで不快にさせてしまったようだった。

だからと言って、他に相応しい敬称は思い付かない。

ちらりと朱里様の後ろに立ったままでいる側仕えを見遣ったが、彼女は頷くだけで何を伝えたいのかよく分からなかった。

そう、こういう場合は肩書きで呼ぶ方が無難であるし、距離感も相手に任せられるのではないだろうか。彼女の肩書きは――あぁ、特になかった。


「朱璃、姫」


伺うように恐る恐る呼んでみる。二呼吸置いてみたが、特に不満そうな反応はなかった。

それより何かあるなら早く口にするようにと言われそうな雰囲気になってきたものだから、何とか次の言葉を捻り出す。


「では朱璃姫、と。

こんなところでお待たせしてしまって申し訳ないです。お茶を用意いたしますので、奥までいらしてくださいな」


私は家の者や女官たち以外とは、あまり話したことがない。

はっきりしない身分とは厄介なものだ。元は私の方が下だというのに、今は上だという。横柄に振る舞えるものではないだろうし、何より夫の妹、そしてまだ子どもという微妙な立ち位置だ。

鴇耶様は例外だけれど、夫婦なのだからこの場合はあまり参考にならない気がする。

朱璃姫も自ら話してくれるのなら、聞き役でいさせてくれるのなら、気は楽なのだけれど。

でもそうはならないだろうと分かっていた。

わざわざ、私の空いた時間を確認した上で訪ねてきたのだ。きっと何かしら聞きたい事やら確かめたいことがあるに違いない。

私は、急激に重くなった心を引き摺るような気分で奥へと進んでいった。


これほど、講義がないことを恨んだ日はないかもしれない。

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