熱に浮かされた夜(Heat Of The Night)
心が熱くなることがある。
だがそれは夜だけのことだ。
夜の特別な時間が終わると、熱は冷めていく。
恋なんて、愛なんてそんなもんだと思って生きてきた。
僕は、幼いころに家庭崩壊を経験した。
父親の長期出張が原因で、心離れた母が浮気をし、それが父親に知れたのだ。
当然喧嘩になる。
当時幼稚園児だった僕には訳が分からなかったが、とにかく毎日が怒鳴りあいだった。
やがて離婚がやってきた。
僕は母に引き取られた。
母はことあるごとに父の悪口を僕に言い聞かせた。
だが、小学校の高学年になるころにはもうそんな言葉は耳に入らなかった。
浮気したのはお前じゃないか。
僕は冷ややかな目で母を見つめた。
そうすると、母は、僕に過剰なまでの愛を求めるようになった。
僕に認められたいと感じているようだった。
気味が悪かった。
まるで男にすがるメスの顔だ。
心底反吐が出る。
そんなわけで、僕の女性に対する愛情は総じて希薄になった。
ゲイというわけではないので、女性に興味がないわけではない。
むしろ性欲だって強い方だろう。
だが、どんなに美しい好みの女性を見ても、「どうせこの女だって一皮むけば」と考えてしまう。
急激に愛が覚めていく。
まるで心の中心部に沼があり、そこに愛情を沈められていくようだ。
※※※
皮肉なことに、青年期に差し掛かると、女性にモテるようになった。
よく女性から、可愛い顔立ちだと言われることがあった。
声も少し細くて高く、男としてのいやらしさが感じられないと。
それはそうだろう。
僕は自分で自分が男なのかよくわからない。
母とずっと二人暮らしをして育ってきた。
男らしい振る舞いというものをよく知らないのだ。
一方で先ほども述べたように、僕は性欲が強い方だ。
大学では適当に、こちらに気のありそうな女を誘っては抱いた。
一人につき数度きりだ。
向こうもこちらの淡白さを理解しているのだろう。
さほど拗れることはなかった。
ただし、夜だけ凄い男という噂がサークル内で流れだした。
僕は別段恥じることではないと思ったので、堂々としておいた。
ある時、サークルの同期の梶山が僕に言った。
「裏畠ちゃんさ、面白いキャラだからさ。俺のバンドでボーカルやってよ。ね。ね」
僕が属していたのは軽音部だった。
梶山はベーシストで、時々小さなライブバーで演奏していた。
僕は何となく同意した。
梶山の悪びれなさは良いと思ったからだ。
「入ってくれんの? やりぃ! 裏畠ちゃんがいたら人気出るよ」
バンド名はHeat Of The Nightになった。
僕の、夜がお盛んなイメージを名前にしたらしい。
勝手にすればいい。
初ライブの時、意外なほどに緊張している自分に気がついた。
ステージに立って歌うだけだが、それをどうすればいいのかがよくわからなかった。
その日のステージは4つのバンドが対バンを張っていた。
偶然だと思うが、そのうちの3バンドは洋楽のカヴァーバンドだった。
一方僕たちは梶山のオリジナルをやっていた。
僕たち以外の、どのバンドもギターボーカルだった。
ボーカルだけ担当というのは僕一人だった。
そのことが気恥ずかしかった。
僕たちの出番の前に出た社会人バンドは、リトル・リバー・バンドの「ロンサム・ルーザー」を見事にこなしていた。
かなり難しいはずの緻密なコーラスワークを乱れずに再現し、しかもギターまで弾いているボーカル。
それに比べて、僕はボーカルだけだというのにその域に達しているとはとても思えなかった。
ステージに立つと、ひどく手持無沙汰に感じられた。
目の前にマイクしかない。
かき鳴らすべきギターもない。
歌だけでいいのか?
気がつくと、おかしなしぐさで腕を振り上げたり回したりしていた。
笑われそうだと思ったがそうすることで緊張がほぐれ、手持無沙汰感もなくなった。
歌はうまく歌えたかどうかわからない。
ただひたすらに歌った。
梶山の書いた歌詞は抽象的でよくわからなかったが、とにかく何かに怒っているような言葉ばかりだった。
※※※
ライブが終わったあとステージを降りてジントニックを飲んでいると、見知らぬ女性に急に声をかけられた。
「なによ、あの滑稽なダンス。ふざけてるの?」
20代の後半ぐらいだろうか。
黒いロングの髪を後ろで纏めた落ち着いた雰囲気の女性だった。
僕は彼女をじっと見つめた。
僕がじっと見つめたので、女性はひるんだようだった。
だが僕の行動には特に意味はなかった。
ただ単に酔っていたのだ。
僕は、女性の批判はもっともだと思ったのでこう答えた。
「そうですね。ふざけたわけじゃないけど、滑稽に見えたのは仕方ないと思う」
女性は驚いた顔をした。
素直に滑稽であることを認めたのが意外だったらしい。
彼女は大崎さんと言った。
対バンの社会人バンドに同じ会社の同期がいるらしく、付き合いで見に来たとのことだった。
「馬鹿みたい。いい歳して、せっかくの休日をこんなことに費やして。あの人」
大崎さんが彼女の同僚を顎で指す。
短く髪を刈った体育会系風の男がいた。
彼は確かドラムをたたいていた。
「会社じゃ何もできないのよ。上司にあれやれこれやれって言われてもいつもあやふやで。なのにこういうときだけ一生懸命。アンバランスだわ」
その物言いがおかしくて僕はふきだした。
「違うよ。アンバランスなのが当たり前なんだよ。きっとあの人は仕事が好きじゃないんだろ。それだけだよ」
「理解できないわ」
「こういう場所は嫌い?」
「嫌いよ。煙草臭いし、ガラが悪いし」
「このクラブはまだましな方だよ。もっとガラの悪いクラブは山ほどあるよ」
大崎さんが目を伏せた。
そんな世界のことなど想像もしたくないというようだった。
「それじゃさ、ここ、出ちゃう?」
僕は彼女に問いかけた。
「え?」
「だからさ。僕のことは嫌い?」
「嫌いも何も」
「ここが嫌なんでしょ? ここと僕と、どっちがいい?」
何を感じたのかわからないが、大崎さんはおずおずと僕の後ろをついてきた。
こうして僕は大崎さんを抱いた。
5歳以上、歳上の女性を抱いたのは初めてだった。
もしかしたら処女じゃないかと思ったけど、そんなことはなかった。
大崎さんとの関係は、意外に長く続いた。
相変わらず女性に対する強い愛情を抱くことはなかったが、時々会って濃厚な交わりを交わす。
そういう関係がずっと続いた。
でも恋人同士というわけではなかった。
※※※
大学の3年生になった時に、初めて恋人ができた。
ゼミにティーチングアシスタントとしてやってきた、院生の清水さんという女性だった。
眼鏡をかけた上品な雰囲気の女性だった。
服装のトーンが落ち着いていて、地味といえば地味だった。
別に美しいわけでもなかった。
だが、僕は、その人に初めて強烈に「女性」を感じた。
恐らくは清水さんが僕のあまり見かけたことのない「優しい女性」だったからだ。
母親を筆頭として、僕の周辺には、厳しい強い女性しかいなかった。
彼女たちはみんな、いつも気を張っていて、かな切り声で怒鳴っていた。
一方で、清水さんは、ふんわりとしていて、いつも優しく微笑んでいた。
僕が探し求めていた母親像に近かったのかもしれない。
男性になれていない清水さんをものにするのは容易だった。
幾度となく甘え、頃合を見計らって、はっきりと好きだと伝えた。
僕はようやく、持つべきものを手に入れたような気がした。
その頃、バンドを辞めた。
もう別段何かする必要があると思えなかったからだ。
辞めると言った時、梶山がすごく嫌がった。
「いい感じになってきたのに。もったいないぜ」
それは確かにそうだった。
僕たちのバンドは、クラブサーキットを続けて、そこそこのライブ動員人数をはじき出せるようになっていた。
つい先日は、関西方面に遠征もしたところだったし、デモ録音をしようかという話もしていた。
「悪いけどさ。もう、あまりその気じゃなくなっちゃったんだ」
「なんだよ、それ」
梶山が呆れたような声を上げる。
「わがままが過ぎるぜ」
「申し訳ない」
僕は頭を下げた。
そこに、一枚のCD-Rが差し出された。
「これ聴いて、考え直してくれよ」
「なんだよ、これ」
「新しい曲。とりあえず俺がキーボードで主旋律を弾いてる」
「新しい曲……」
「ああ。タイトルはバンド名と同じ。Heat Of The Nightにしようと思ってる。俺たちのテーマソングだ。お前の性癖からつけたバンド名だからな。作詞はお前にしてもらおうと思ってたんだ。なのによぉ」
僕は、もう一度深々と頭を下げた。
すっかりと心が冷めていた。
いまさらそんなことを言われても何も響かなかった。
よく見なかったから、梶山が僕の態度にどんな表情をしたのかわからない。
が、CD-Rだけを受け取って、その場で踵を返した。
その日の夜、家に帰って、梶山の作った曲を聴いた。
悪くなかった。
キーボードでメロディをひいているが、バンドサウンドにすると映えそうだった。
ギター、ベースが重なる。
いい感じのグルーヴ。
でもそれだけだ。
※※※
大学院には進まずに、就職をした。
小さな印刷所だった。
デジタル入稿のやり方がよくわからない古い町工場だとか中小企業だとか、要するに老齢化した企業向けの会社だった。
フォトショップでデザインから何からやってあげる代わりに、とんだ高い料金をぼったくるというわけだ。
清水さんは、そのまま大学院に残っていた。
彼女は、研究者を目指していた。
だが、准教授にすらなれるかどうかわからない。
そのことに危機感を抱いているようだった。
僕は彼女と二人で、休日は駅前のカフェで会話をするのが主だった。
そのあと、本屋に行ったりする。
今まではほんわかとした日常の出来事の報告が主だったが、時々清水さんは、自分の行く先の不安を愚痴るようになった。
「私も、ほら。もうそろそろいい歳でしょ? このままで大丈夫なのかなって」
「大丈夫も何も、君が選んだ道じゃないか」
「それはそうなんだけど。でもさ、なんか不安で。ほら、あの教授。全然次のポストを空けてくれるかどうかわからないし。空いたとしても、誰が滑り込むのかもわからないし。まるでギャンブルをしてるみたいだよ。怖いよ……」
「それはわからなくもないけど」
けれど。
僕からしたら、僕の方がずっと大変だった。
小さな会社は、いつ潰れるかわからない。
それに体育会系的なところもある。
学生時代のように他人と距離を置いて適当に接することが許されない。
夜遅くまで無意味な飲み会につきあわされ、愛想笑いをさせられる。
大学院生なんて気楽なもんじゃないかと、と思うようになっていた。
「まぁ、そんなに深く悩んだって仕方ないって。僕みたいに働いてるわけじゃないんだからさ」
その一言が清水さんの癪に障ったらしかった。
彼女は僕を睨みつける。
いつにない、強い口調で言った。
「なにが言いたいのよ」
「いや、なにって、別に」
「別にじゃないでしょ。最近、あなた、私を見下してない?」
「見下してなんか」
それでも清水さんは僕を睨みつけつづけた。
そこにはもう、あの優しい清水さんはいなかった。
それとも、もともと僕が彼女のうわべだけを見ていたのか。
母親と結局同じだ、と思った。
この女も。
ある程度人生経験を積んだら、みんなあなるんだ。
「もういいよ、帰るよ」
僕は立ち上がり、清水さんを置いて帰宅した。
夜になり、ふと大崎さんのことを思い出した。
彼女とは清水さんと付き合いだすまで連絡を取っていた。
ダメもとで電話をかけると、つながった。
夜の22時だった。
彼女はどこかで酒を飲んでいるようだった。
少しだらしない、酔った声が聞こえた。
「なによ。久しぶりじゃない」
後ろが随分と騒がしい。
「賑やかなところにいるんだね」
「会社の付き合いよ。今ちょうどバカ騒ぎ」
「抜け出せよ、そんなところ」
しばらくの無言の後。
「いいわよ」
という声が聞こえた。
僕たちは、駅の裏手のバーで落ち合った。
雑居ビルの3階にある、うらぶれた小さなバーだった。
スコッチよりもバーボンが多い。
少し珍しい酒もある。
僕はイエロー・ローズ・オブ・テキサスの8年をロックで頼んだ。
頭の中に、同じ名前の古いヒットソングが流れだした。
「どうしたの?」
「同じ名前のカントリーソングがあるんだ。それを思い出した」
「私も知ってるわよ」
「そう?」
「だってほら。あのバンド、カバーバンドだったでしょ」
「アメリカーナな曲もやったんだ」
「そういうこと」
「あいつはどうしてるの?」
「あいつ?」
「ほら、あの男。会社のバンドの」
「あぁ。転勤で岐阜よ」
「遠いな」
「ソー・ファーラウェイ」
「キャロル・キングだ」
「正解」
僕たちは笑いあった。
ひどく心地良かった。
それから、僕たちは互いの会社の話で盛り上がった。
僕はさんざん自分の会社の悪口を言った。
それは清水さんとは共有できない価値観だった。
大崎さんが言った。
「大人になったんだね」
「え?」
「やっと、そういう話ができるようになったんだ」
「まぁね」
少し癪に障ったが、腹が立つほどではなかった。
僕はかつて、この女性を、歳上のくせに御しやすい女だと思っていた。
だが、彼女は彼女で僕のことを子供だと思っていたのか。
そのことは悔しいが、今夜のこの気持ちよさはそれを忘れさせる。
僕が彼女を見つめると、大崎さんはふっと目をそらせた。
それが彼女なりの恥じらいに見えた。
僕は久しぶりに、胸のたぎりを覚えた。
Heat Of The Night。
夜だけに感じる、このどうしようもない欲望。
「ね、大崎さん。これからも、こういう風に話そうよ。それで、これからさ」
彼女が首を振った。
「ううん。それはいいわ。止めとく」
彼女が伏せていた瞳をあげ、僕を見据える。
「だって君、もうちっとも魅力的じゃないんだもの」
「どういうこと?」
「さっき電話をかけてきた時。いまさら何って思ったけど。『そんなところ抜け出せよ』って言ってくれたよね」
「ああ」
「それがすごくうれしかった。あなたはやっぱり、少し現実とは違う。私を現実から引っ張り出してくれる人だと思った。でも、こうしてあってみると、すっかり現実の普通のサラリーマンになっちゃってた。今のあなた、ちっとも魅力的じゃないよ」
私にとってはね、と、付け加えて。
彼女はグラスを置いた。
そのあと、彼女と別れて、帰宅して。
気がつくと、昔、梶山に渡されたCD-Rを取り出して聴いていた。
僕は紙に、メロディに合わせた歌詞を殴り書きした。
驚くほどすっと、言葉が出てきた。
そこには、僕の想いが、乗せられていた。
Heat Of The Night。
夜にぼんやりと湧き上がる、このどうしようもない熱。
僕は歌いたかった。
それを大声で歌いたかった。
だけど、伴奏をしてくれる人は、ここには誰もいなかった。
≪完≫