執念
要は、冷たいものを頬に感じて目を覚ました。
…眠っていた?
その途端に、ハッと状況を思い出して飛び起きる。
そこは、全く何も無いグレーのコンクリートの部屋で、要はそこに転がされていて、冷たいと感じたのは床だったのだと知った。そこには窓すらもなく、まるで箱に詰められているかのような気持ちになった。
手は、後ろ手に縛られていて身動きが取れない。天井の隅に、監視カメラらしいものが一つ、ついていた。
何かに拘束されたのか。
どう考えても、彰を拘束したのと同じ者達としか考えられなかった。
あの時、首元を掠めたのは恐らく何かの薬品を塗った針のようなものだろう。気を失いつつある時に感じた、背後の存在は待ち伏せでもしていたのか、博正の真後ろで自分を誘拐するという荒業をやってのけたのだ。
要は、腕の時計を確認したかった。いったい、どれぐらい意識を失っていたのだろう。彰のタイムリミットは、まだ来ていないのか…。
すると、ドアがいきなり開いて、ガッツリとした体形の男が入って来た。要が、何をされるのかと身を固くしていると、相手は要の腕を引っ張って無理に立たせた。
『来い。』
ドイツ語だ。
要は、必死に言った。
『あの、ここにジョンは居ますか。オレは、同じ組織に拘束されたんですか。』
相手は、ちらと要を見たが、表情を変えずに言った。
『オレは何も答えることはない。』
要は、時間だけでも知りたいと、何とか出来ないものかと拘束されている手で自分の手首を触った。だが、そにはあるはずの時計が無かった。
盗られたのか。
要は、ガックリとした。とにかく、時計が見たい。どこでもいい、とにかく時間が知りたい。
要は、狭い無機質な廊下を引っ張って行かれながら、時計を探して辺りを見回していた。
カミラは、狭い部屋の医療用の寝台の上に寝かされた、ジョンの顔を見下ろしていた。
どう見ても死んでいる状態のジョンは、血の気の無い無表情で、いつも浮かべている人を小馬鹿にしたような笑みも、その口元にはない。しかし、未だ死後硬直も起こらないその体に、これが真実死んでいるのではないのだと、カミラには分かっていた。
初めて会った時から、その常人離れした洞察力と知識と判断力に、惹かれて仕方がなかった。その上、ジョンは他の研究者のように研究室に引きこもっているタイプでは無かった。
運動神経まで並外れて良く、休憩時間などに見かけるバスケットボールの試合などを見ていると、そんな専門外な場所でさえ、彼は意のままに操るのだと憧れた。
ある時、研究室で声を掛けた。黒髪に鳶色の瞳の、アジア人特有の色合いであるにも関わらず、彼の容姿は誰よりも飛び抜けて見えた。だが、背が高いのも手伝って、その目は自分を蔑んでいるようにも見えた。
夕食でも、とお決まりの誘い文句しか言えなかった自分に、ジョンは言った。
『私はあまり外での食事には興味がない。自分で自分の食べるものは管理している。だが、君が言うのは私と時間を過ごしたいということか?』
カミラは、あまりにはっきりと言われて恥ずかしくて赤面した。そう、この時はまだそんな風に純粋にジョンが慕わしかったのだ。
カミラが頷くと、ジョンはクッと音を立てて笑った。そして、こう言った。
『ほう。欲というのは果てが無いな。私は平凡な遺伝子には興味が無くてね。もちろん、ヒトとして優秀な遺伝子を自分の筋に残したいという欲求は誰しも持っているだろう。だが、私と君では釣り合わない。君というヒトに興味はない。君と時間を過ごすなど、私にとっては無駄でしかない。すまないが、他をあたってくれ。』
カミラは、絶句した。まさか、これほど辛辣に拒絶されるとは思わなかったのだ。
『そ、そんな言い方は…!私は別に、そんな遺伝子がどうとかのことであなたに声を掛けたわけでは…!』
カミラが言うと、ジョンは意外だ、というように片方の眉を上げた。
『それ以外に何があるのだ?結局は私とベッドへ入りたいわけだろう。それが、欲だ。そしてより優秀な遺伝子を求める欲求だ。だが私は君に興味はない。それとも、君は単に私と遊びたいだけか?』と、カミラのことを値踏みすりように全身見回した。『…まあ、道具としてなら時々使ってやってもいいがな。君との子供は要らない。』
カミラは、持っていたファイルでジョンの横面を思いっきり叩こうとした。だが、ジョンはスッとそれを除けた。
『あなたなんて!』カミラは、ここでは優秀だと言われている自分の自尊心を、尽く痛めつけられて涙を流した。『私だって、あなたの子供なんて要らないわ!』
そうして、カミラはそこを出て行った。それから、カミラはジョンの姿は絶対に目で追わないと心に決めた。
しばらくした時、準備室での仕事をやり残していたカミラが自分の研究室へと入ろうとすると、そこのドアが薄く開かれていて、同僚のアンドレアが居るのがそこから見えた。ドアを開いて声を掛けようと思っていると、アンドレアの甘えたような声が聴こえて来た。
『それがこの間のレポートよ。』と、誰かに寄って行った。『ねえ、それで今夜はいいでしょう?こんなことが知れたら、私だってこの研究室に居られなくなるかもしれないのに、こうしてあなたに見せているんだから。』
相手の声は、鬱陶しそうに答えた。
『うるさいぞ。お前は道具だと言っただろう。それを望んだのなら、私が必要でない時まで付きまとうな。』
カミラは、耳を疑った。他に極秘でやっていた薬品の研究を、他の研究室の人に流してるの…?しかも、ジョンに?!
頭に血が昇ったカミラは、一気にそのドアを押し開けた。
二人が、驚いたようにこちらを見る。特にジョンにすり寄っていたアンドレアは、愕然とした顔でカミラを見ていた。
ジョンは、カミラを見てフッと笑った。
『…なんだ。盗み聞ぎとは趣味が悪いな。中で堂々と聞いていたらどうだ。』
カミラは、アンドレアに詰め寄った。
『どういうこと?!あれは、教授がやっとのことで探し出した組み合わせだったでしょう!これから進めて行こうとしているのに、それを部外者に流すなんて…!』
アンドレアは、おろおろと言った。
『これは…その、ジョンが今興味ある分野に通じるものがあるからって…。』
ジョンは、驚くほど落ち着いて、そのレポートを閉じた。
『この発想を教えたのは私だ。ハインツに聞いてみるといい。それがどこまで進んでいるのか見てやろうと言ったのに、ハインツは私にとられるとでも思ったのかいつまで経っても報告に来ない。だからこちらから出向いてやっただけだ。それから、私はこんな小さい研究には興味はない。もっと先にあるものを考えている。これが普通に発表されてくれていたら、私が先に上げる成果も世間で受け入れやすくなろうと思ってな。』と、レポートを机の上を滑らせてカミラへと放って寄越した。『ハインツはここで行き詰る。第三工程の部分を考え直せと言ってやれ。早くしてくれないと、こっちの方は終わりそうなんだよ。』
とドアに向けて歩き出した。カミラが茫然としていると、ドアの前でアンドレアを振り返った。
『ああ、お前はもう用済みだ。金輪際私に関わるな。今度寄って来たら検体にしてやるぞ。』
そして、出て行った。
私ばかりか、私の教授まで馬鹿にするの…!しかも、こんな女を相手にするなんて!
カミラのプライドは、もうズタズタだった。アンドレアはそれからすぐに大学を去り、顔を見る事も無かった。風の噂で、どこかのアパートメントで一人、死んでいたと聞いた。
ジョンに関われば、不幸になる…。
カミラは、そう思ってもう、ジョンのことは忘れようと心に誓った。