今そこでの常識
要は、急いで車で研究所へと引き返した。
夜になってしまったが、部屋にも帰らず真っ直ぐに研究室へと駆け込むと、アレックスが振り返った。
「カナメ。早かったな…だが、一歩遅かった。」
彰も、要を振り返った。
「突然だった。このDNA組み換えでは駄目だったようだな。」と、データの書いてある紙を渡した。「急激に成長して一気に死滅する。面白いのでサンプルを持って行って私のチームにも調べさせるが、君が目指している人狼からヒトへの変化に影響するような効果は無さそうだ。これはこっちで利用方法を探そうと思っているから、君は別の方向から進めて行くといい。もう片方のルートのヤツがあっただろう。あっちで行け。ちょっと時間が掛かるかもしれないが、ゆっくり焦らずやったら絶対結果が出て来るはずだ。まあ、今回は面白いものが出来た。」
要は、茫然とそのデータを見下ろした。本当にいきなり爆発的に活発になって、消滅している。自殺細胞…?
彰は、要の反応を見て、ふふんと笑った。
「なんでも偶然に見つかるものだ。もしかしてこれを使って、私が進めている細胞に自殺を命じるシステムが完全に構築されるかもしれんぞ?まあわからんが、それでも胸が湧くな。」
彰は、ポンと要の肩を叩くと、出て行った。アレックス…チャンヨンが、寄って来て言った。
「災い転じてだよ。あっちの方がメインなんだから、それに役立つなら良かったじゃないか。気持ちを切り替えて行こう。それで、君の方の面倒は始末して来たのか?」
要は、チャンヨンを見て頷いた。
「ああ…オレはここで慣れ過ぎてしまってたんだな。ジョンが言う「下界」っていう意味もやっと分かった。オレはもう、あっちじゃ生活できないよ。意識が違い過ぎるし、何を言っても冷たいだの言われるし、向こうからは意味のない言葉しか返って来なくてイライラするし、昔はそれで良かったんだろうけど、なんだろう、何で分からないんだってどこかで馬鹿にしてしまうんだ。あっちの世界での人間性は尽く壊れているよ。もうあっちで生きて行くのは、無理だね。」
要が寂し気に笑うと、チャンヨンはわかっている、という風にその肩に手を置いた。
「カナメ、オレだって同じだよ。国へ帰ってもここの国の街へ出て見ても、ここで居るほど楽じゃない。全てがスローでイライラとさせる。オレ達はもう、ここで生きて行くよりないよ。常識が、もう違ってしまってるんだ。全てにね。」
要は、頷いた。最初に出会った頃、彰に感じた違和感を、今はみんなが自分に感じるようになってしまったのだ。彰を目指した結果が、こうなったのだから後悔は無かった。
「オレは、ここで生きることが楽しいんだ。だから、後悔はしてないよ。さ、じゃあ気持ちを切り替えて次の準備をするか。手伝ってくれるか?」
チャンヨンは、首を振った。
「カナメ、もう夜だ。睡眠はとれる時にとっておけとジョンも言ってるじゃないか。今夜は寝るんだ。明日一緒に準備しよう。あ、その前に食事をしないか。オレはまだなんだ。君もだろ?」
要は頷いて、食堂へと向かった。ここの食堂なら、自分のIDを入れたらきちんと自分がそうして欲しいと言った通りの食品を使って、調理されて出て来るのだ。
二人は、仲良く肩を組んで歩いて行った。
それからは、もう全く実家の方からの連絡はなかった。
両親からは一度、洋子のことについて電話がかかって来たが、要は自分が洋子のためにして来たことを列挙して、それを知らなかった両親はぐうの音も出ず、退かざるを得なかったらしい。
確かに言い過ぎたかもしれないが、それでも一度言っておかないとと思っていたことだった。
何しろ、洋子は事あるごとに留学先にまでメールでファイルを添付して自分の仕事の手伝いを懇願して来たし、最近では返事もしないでいたら、どうして返事もして来ないと恨み節で面倒だったからだ。
自分がそこで働いているのだから、そこでは自分で仕事を進めて欲しかった。
何しろ、今の研究は要でさえいっぱいいっぱいで頑張っていたからだった。
あれから数カ月、要は研究を続けていた。博正と真司、慎一郎から採血して、今回は無理を言って美沙にもサンプルをもらった。
最近思うのだが、検体がこの四人だけなので、この四人に掛かる負担が大きい。それに、やはり何度も実験体にするので、反応も変わって来てしまう。要としては、完成した薬を使うその時まで、あまり細胞に負担を掛けたくなかった。
他にも検体があれば楽になるはずだが…。
要は考え込みながら、実験室で画面に移るデータを見るでなく見ていた。
すると、背後から声を掛けられた。
「カナメ?どうした、行き詰ってるのか?」
要が振り返ると、チャンヨンが「KANAME.T」と書いたシールが貼ってある紙コップと、「ALEX」と書いたシールが貼ってある紙コップを持って寄って来ていた。
「ああチャンヨン。最近博正と真司に負担がかかって来てデータが乱れるんだよ…オレとしては、これ以上二人の細胞に負担を掛けたくないんだ。これからの実験とサンプル採取は、出来たら他の検体にしたいな。」
チャンヨンから、自分の名前が書いてあるカップを受け取る。これは、食堂へ行くとIDカードを翳すか番号を入れることによって、その名前の相手が自分用にきちんと計算して指示している通りに調合して出て来るのだ。ここでは、食事の管理をきっちりしている研究員が多かったので、そういうシステムになっていた。
「だったら新しく作るしかないな。ジョンに相談してみたらどうだ?ジョンも検体も長くなると検体として役に立たなくなって来ると言っているし、手配してくれると思うが。」
要は、あっさり頷いた。
「そうだな。一度話に行ってみるよ。」
そうして、カップの中身を飲み干すと、立ち上がって彰の部屋へと向かった。
彰は、相変わらず部屋でじっとモニターを見ているのかと思ったら、そうではなくルームランナーで走っていた。ここにはジムも備え付けてあるのでそちらへ行けばいくらでも体を動かせるのだが、彰はここへ持って来てしまったらしい。
要は、走っている彰に言った。
「あの彰さん、取り込み中すみませんが検体のことでご相談があるんですけど。」
彰は、走ったまま言った。
「どの検体だ?」
息は上がっていないようだ。要は言った。
「人狼です。博正と真司ばかりなので負担がかかっていて、最近の反応が良くない。これ以上負担がかかると、戻るどころか壊れてしまう可能性もあるので、もう二人は使いたくないんです。」
彰は、まだ走ったまま考えるような顔をした。
「準備はしているんだが。何人ぐらい補充したい?」
要は、彰を見上げた。
「出来たら10人ぐらい居たらそれぞれ回せるので負担も軽減されて劣化もないかと。」
彰は、頷いた。
「一度に10人は厳しいかもしれないから、5人ずつとなると一度のゲームに25人も集めなければならないぞ。」
要は頷いた。
「はい。そこの工作は考えようと思うのですけど、問題は適合のことです。あの薬に適合する者を連れて来るのが難しいのでは。」
彰は、ふふんと笑った。
「それは心配ない。ある二つの会社の食堂で箸から検出した細胞で予め検査はしてある。適合者はそれで分かっているんだ。あの会社を使おう。イベントの多い会社だったから、目をつけていたんだ。」と、ようやくルームランナーから降りた。だが、まだ息を切らせていなかった。「ふーん一時間。持続するな、この薬は。」
要は、顔をしかめた。
「また自分の体を検体にしてるんですか?やめたほうがいいですよ、もうそろそろ40代に近いんですし。」
彰は、要を見てブスッと頬を膨らませた。
「歳のことは言うな。そろそろ限界なのは私だってわかっている。」と、ニッと笑った。「そろそろ少し稼いでもいいと思っていたし、ゲームの準備をさせるか。クライアントも人数が少ないのは面白くないだの文句を言っていたし、今回はそれもないだろう。私は今回は出ないが、君はどうする?」
要は、首を振った。
「オレもやめておきます。人狼に変化するのを観察したいし、それに体は適合しても心の問題があるでしょう。でも真司さんと博正さんは参加させたくないなあ。もう結構な回数ゲームに出てるんでしょう?でも、誰か導く人が居る。」
彰は、息をついた。
「そうなのだ。導く者が入るようになって、ようやく人狼も精神的に追い詰められなくなった。だから、誰か一人紛れ込ませておく必要があるんだ。慎一郎を行かせる。あいつはあれで、肝が据わっているんでうまくやるだろう。」と、モニターへと向かった。「じゃあ早速手配しよう。ひと月は掛かる…下界へのアプローチには返って来る反応に時間が掛かるからだ。その間、君も暇だろうし私のチームの研究を見て置くといい。人狼に変化するプロセスが詳細に見られて面白いぞ。」
要は、微笑んで頷いた。
「ええ。楽しみです。」
要は、彰に笑いかけると、そこを出た。
その口元には、彰と同じ笑みが浮かんでいたが、本人はそれを知っては居ても、恐らく直そうとは思わなかっただろう。
そうして、新しいゲームは、何のためらいもなく仕組まれて行ったのだった。




