忘却
それからひと月、彰の治療はまだ続いていたが、それでもほとんど元気だった。
治療の途中であっちこっちへ行くし点滴を途中で抜くしで思うように治療が進んでいなかったのも問題だったが、それでもクリスの辛抱強い治療のお陰でここまでこぎつけた。
今までの完成した薬さえ使っていたら、ここまで引きずらなかったのだから、彰がどんな無茶な実験を自分の体でしたのか、要にも分かった。
それでも、彰自身は自分の研究が進んだと喜んでいたのだから、他の一般人を治験に使うのなど何とも思っていないのはよくわかった。
そんな最中、同じように治療を続けていたカミラの治療が、終わったと連絡があった。ずっと監禁されたまま、自由な動きすら制限されての治療だったが、傷はすっかり治っていた。
普通の世界では重度の精神病患者に使われることが多い拘束衣を着せられた状態で、その治療室にカミラとマルクスは運ばれて来ていた。
いつか映画で見たような形でゆっくりと乗せられていた台を起こされ、二人は立ったような状態でそこに居た。
『…カミラさん。マルクス。』
立ち合いを許可された要が、他の者達より少し早くそこへと入って行くと、二人の視線は要を向いた。
二人共ひと月の間、排せつですら管を通され動くことを許されなかったので、すっかりやせ細って筋肉が落ちてしまっていた。
二人と共にここへと襲撃に来た者達は、組織からの命令だと言われてついて来ただけの戦闘員だったので、博正と真司に食い殺された者達も含めて治療され、先に送り返されていた。
ただ、クリスに尋問を受けた戦闘員だけは、二度と戻れない狂気の世界へと入り込んでいて、一生廃人だろう。
後はこの二人だが、基本こちらの組織は、人命を奪ったりはしない。
そんなことをしなくても、人の考えの自由を奪ってしまう力を、この組織は持っている。
ただ、どこまでやるかは、手を下す者の裁量次第だった。
そして、それをするのは、襲撃されたこの場所の責任者である、彰なのだった。
『今から、ジョンが来ます。お二人の、最終処分を言い渡すためです。襲撃に同行していた戦闘員達は先にあなた方の組織の方へ送り返しています。本当なら、あなた方のことも含めて全員のことは、こちらで処分してくれという申し出だったんですが、内訳を知った結果、ジョンがそう命じたんです。もう、あなた方お二人だけです。』
マルクスが、重い口を開いた。
『…どういうつもりでそちらの状況を話してくれたのか知らんが、想定していた通りだった。オレ達は、もう何の力もない。今のオレは、歩けるかも分からないほど筋力も衰えている。ひと月もほったらかしにされてたんだからな。殺してくれた方が、まだマシだった。』
要は、寂し気に目を細めた。
『そんなことは言わないでください。ジョンの考えはオレにも分かりませんけど…でも、あれで驚くほど人っぽい所もあるんです。』
すると、背後の電子ロックがピーッと音を立てた。振り返ると、まだ白いワンピースにも見える患者用の服を着て、腕に点滴を刺されたままの彰が、どう見ても病人っぽくない動きでそこへ入って来た。それを見たカミラの瞳が、スッと細められたのが見える。要は彰を振り返った。
「最後の点滴ですか。」
要が言うと、彰は鬱陶しそうに頷いた。
「クリスがこれだけは中断させずに最後までさせろとうるさいからこのまま来た。これを引きずって歩くのは面倒なのに。」
彰は、本当に嫌そうに点滴を支えている支柱を見た。後ろからは、クリスがまるで見張るようにしてついて来ている。これほど言うことを聞かない患者も珍しいだろう。
そんな状態だったが、カミラとマルクスに向き直ると、いつもの冷たい視線になった。要は、ここまで素直に感情が目に出る人も珍しいな、と思っていた。
「あえて言語は君達に合わせない。聞き取れると聞いている。私は会話をするつもりは無いからな。決定事項を知らせるのと、それが実行されるのを見届けるためにここへ来た。前回、カミラに施されるはずだった記憶処理を、本人のたっての希望で見送ったが、今回はもう猶予しない。私の記憶処理担当スタッフに綺麗に書き換えさせる。私の事もこちらのことも、今後一切思い出すこともないだろう。そのままの状態で君たちの組織へと送り返す。あっちで適当に処理してくれるとの事だし、私は君達の命の責任まで取るつもりはないからな。ではな。」
後ろに控えていた、術衣集団がわらわらと二人へと寄って行く。カミラが、そこへ来て彰を見て叫んだ。
『嫌よ!あなたを忘れるぐらいなら殺して!殺しなさいよ!どうして生かしておくのよ…命の責任ぐらい、取りなさいよ!』
どこにそんな力が残っていたのかというほど、激しい様子で叫んでいる。彰は、ニッと笑った…口の端をわずかに持ち上げ、確かに嘲っているように見える。
『どうして私が君の命に責任を持たねばならないのだ。私は責任を持つなら生涯一人の女性だと思っている。それも選ぶかどうかわからん。そう何人も背負うなどしたくはないのだ。いつまでも付きまとわれるのは面倒だ。私の前から消えてくれ。』
冷たい言葉だが、要には正直な気持ちを語っているだけで、嘲るつもりなどないことは分かった。それでも、カミラの瞳には涙が浮かぶ。殺す事すら、拒絶されてしまうのだと。
『あああなたなんて…!別れのキスも、してくれないのに…!』
術衣を来たスタッフの一人が、何のためらいもなく事務的にカミラの首筋をアルコール綿で拭く。そして、必死に頭を振るカミラの動きをものともせずに、小さな注射器をぶっすりとその首筋に突き刺した。
彰と要が見守る中で、注射器はあっけなく空になった。一瞬にして、カミラの瞳は意識が混濁したように焦点が定まらなくなった。彰は、それを見てから、くるりとカミラに背を向けて歩き出した。クリスが慌ててあっちこっちを見ている。クリスは、記憶の操作の管理をしているので、ここを離れられないのだ。
急いで要が彰の点滴の支柱を掴むと、ホッとしたように頷きかけて、カミラの方へと歩いて行った。
要は、点滴の支柱を押して、彰を追いかけた。
「彰さん…せめて、一回だけでもキスしてあげたら良かったのに。」
彰は、鬱陶しそうに要をちらと見た。
「すぐ忘れるのにか?それに、私はあんなことはしない。虫唾が走る。」
要は、驚いた顔をした。
「え、だってあっちこっちの女の人と関係したでしょう?」
彰は、立ち止まって要を見た。
「あのな、あんなもの欲求を満たすだけだろうが。それでも私は、絶対に直接粘膜などに接触せぬようにしていたわ。まして口づけるなど何の防御もないのに、お前、細菌学をやってるのに、ヒトが持っている細菌のことを知らないのか。」
要は、困惑したように彰を見上げた。
「え…それは知ってますけど…でもオレ、彼女とそんなこと考えたことなく接触してるし…。オレ自身だて細菌は持ってるんだし、お互い様だし…。」
彰は、まるで汚いものを見たような顔をして体を退いた。
「私は自分の口の中の細菌のDNAは全て把握している。今回だって、戻ってすぐに調べ直したわ。あの女が意識のない間に何をしていたか分かったもんじゃないからな。変化がないのを知ってホッとした。細胞に影響を与える細菌を把握しておくのは、自分を検体にするためには必要なことなのだ。思いもよらぬことが起こることがあるからな。死活問題だぞ。」
要は、衝撃的な事実に、開いた口が塞がらなかった。確かにそんな考えなら口づけるなんてもっての外だろう。でも、そっちの経験は豊富なのにキスしたことは無いなんて。
「…彰さん。」
彰は、面倒そうに要を見た。
「ああ?」
「そんなんじゃ結婚なんて出来ませんよ…生涯に一人なんて言うから、まともなこと言うなあと思ったのに。」
彰は、ふんと横を向いてスタスタと歩き出した。要も、慌てて点滴を押して後に従う。
「私は別に結婚したいと言っていないだろうが。勘違いするな。子供は欲しいかもと言っただけだ。私は私として生きるのに障害になるようなものは要らないのだ。」
要は、ため息をついた。確かに彰はそんな考え方で生きて来たのだ。成果も出しているし、生き方まで指図するなと言いたいのだろう。
要自身は、彰が仕組んだ人狼クルーズで一緒に共有者をした真紀と、遠距離恋愛を経て今も付き合っていた。職も得たし、年上の真紀のことを考えて、もう少ししたら結婚も考えようかなあと思って来たところだった。だが、ここのことを相手のご両親に詳しく話すことが出来ず、国の研究機関としか言えないなあと悩んでいた。真紀にすら詳しい所在も明かせないので、いったいどこで研究してるのと、結構詰め寄られることが多かったのだ。
そうなって来ると、結婚してしまって大丈夫かと思う。何とか誤魔化したとしても、結婚後は何かとうるさく詮索されることになるだろう。そんな時、理解してもらえず衝突するようなことは、避けたかった。
要自身、この仕事を失うつもりはなかったし、そう考えると、彰の言うことも批判出来なかった。要が要として生きるために障害になるようなら、真紀とは結婚出来ないだろうからだ。
「…いちいち正しいんだよなあ、彰さんは…。」
要が点滴を押しながら呟くと、不機嫌に歩いていた彰が、ふと振り返った。そして、フッと笑った。
「…だろう?私は正しいんだ。」
得意げだ。
そんなことですぐに機嫌を直す彰に、要は苦笑した。やっぱり子供なのだ…最近やっと人付き合いを覚えて来たばかりの。




