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しばらく、混乱する事さえままならずただ固まっていた。レディローズも動かなかった。
やっと振り返った私は、感情のままに言葉を吐き出すしかなかった。
「……そ、んなはずがない。貴女が、貴女だけは、だって、だって貴女は、」
情けなく震えた声に唇を噛みしめる。貴族としてやっちゃいけない事。
だけど有り得ない。それだけは有り得ない。だって、転生した人間があんなにも主人公になれるか? 人をその存在だけで屈服させるようなオーラを出せるか?
才能って、そういうものじゃないでしょう? 私とレディローズのスタートラインが同じなんて、そんな、そんなの、それなら、私の努力がまだ足りなかったって言うの?
認められない。
「私はフェリシア・スワローズに生まれ変わる前、『救国のレディローズ』というこの世界を舞台にしたゲームを前世でしていたの。ねぇ、リリちゃんもそう…なのかな?」
だけど、レディローズの言葉は私に認めない事を許さなかった。
有り得ない有り得ないと叫ぶ事しか出来ない私に、レディローズは私のすぐ近くまでゆっくりと歩いて来る。
「どうしてそう思うの? だって私、思い切りシナリオから逸れる行動を取ったよね? リリちゃんも同じなら、むしろ疑って然るべきだったと思うんだけど」
言葉のみなら正論だ。違和感やおかしな点を鑑みたなら、確かに疑うべきだった。
……一度落ち着こう。レディローズがもし本人の言う通りに転生者だったら、そう仮定したなら今までの出来事はどうなる?
「レディローズ…それはつまり、わざと何か理由があって、あの時の私が吐いた”レディローズが私に嫌がらせを行った“という嘘を否定しなかったという事ですか…?」
私は縋るように聞いた。
今までずっと一生、むしろ死んでも背負っていこうと思っていた。だけど私の行き過ぎたいじめに心が折れたからではなく、何か意図があったとしたら、私は――
「うん、私平民になりたかったから」
そのあっさりと告げられた返答は、私にとってあまりに信じられないものだった。
平民。平民、って。
それは何でも出来て望めば何でも手に入りそうな、気高く美しく薔薇のような彼女には全く似合わなかった。
平民の服も、あまり似合っていないと思う。彼女にはドレスが似合う。
だけど、人から評される自分に似合う姿をしていれば幸せになれるわけではないから、似合わなくてもそれが幸せなんだと言うなら…それでいいとも思う。
誰が何を言ったところで、生きている時も死ぬ時も自分が幸せか決めるのは自分だ。
私はその理由を受け入れた。まだ信じ切れているわけではないけど。
「ほんと、に、望んで、たの…? 私の、せいじゃなく…? あの、あのレディローズが本当に、私と同じ転生者なの…?」
「うん、そうだよ。何の事か知らないけど、それはたぶんリリちゃんのせいじゃないよ。私いつだって好き勝手して生きて来たんだから」
いっそ気まずそうに言ったレディローズの言葉は本当だろう。
私のせいじゃない? 全部が全部、私が悪かったわけじゃないって思っていいの?
私は糸が切れたマリオネットのように、その場にくずおれるようにしゃがんだ。あと一瞬反応が遅れていたら、しゃがむことも出来ずに倒れていたと思う。
今までどう足掻いても運命を自分でも変えられなかったのに、婚約破棄のあの時だけあまりにもあっさりと変わったのは、レディローズの力だったんだ。そう、私にはやっぱり良くも悪くもそんな力なんてなかった。
だから、どれだけ納得が行かなくても、彼女は私と同じ転生者なんだろう。運命を変える力のある、才能がある、転生者だ。
「わたし、いま、都合の良い夢を、見ているのかしら……」
夢見心地で呟いた。堰を切ったように涙が溢れ出す。いきなり倒れて迷惑を掛け全てが怖くなって前世の死の瞬間を思い出し、いつの間にか泣いていた数日前とは違う。
もう我慢しなくてもいいと頭で理解するより早く、心が理解したからだ。もう、泣く権利が無いんだからと自分を戒める必要が無いとわかった。
私のした事は変わらない。けど――
一目見たあの瞬間から、美しく気高くそこにただ立っているだけで主役となる薔薇に、レディローズに、私はずっとずっと憧れていた。
セス様の事での嫉妬はあった。だけど、それでも、世界一憧れていた。
レディローズは、私に変えられてなんていなかった。汚い私の嫉妬に傷つけられて運命を捻じ曲げられ、平民に堕とされた悲劇のヒロインじゃなかった。
彼女は、同じ転生者でも私と違って、自分の意志で運命を変えられる主人公だったんだ。
ぼろぼろと泣く私に、隣にしゃがみ込んだレディローズが自分のバッグから何かを取り出すと、私に差し出して来る。
「こんなものしか持っていませんが、どうぞ」
それは、フランスパンだった。
私は困惑した。
「それは魔法のパンです。食べると運命が変わります」
レディローズが大真面目な顔で言う。思わず少し笑ってしまった。
私はレディローズの手からフランスパンを受け取る。
食べ物はあまり好きじゃない。食べるのなんてただの生きる為の作業だからだ。
でもこの人からもらったものなら本当に運命を変えてもらえそうだからと、私はパンをちぎって口に入れた。
それは容易には噛みちぎれなくて、今私が生きている事を自然と実感させた。食べていると、思い込みでも魔法に掛けてもらえているような気分になって、胸が温かくなる。
「美味しいです」
やっぱり味はしなかったけど、確かにそう思ったから言った。
だけど、次の瞬間私は目を見開く。
――味がした。レディローズと会った頃、十年は前から徐々に感じられなくなった、味が。
別に、今までも美味しくないものを食べて来た訳じゃない。むしろ美味しいものはたくさん食べて来たはずだった。だからパンの味のせいじゃないだろう。
つまり心の問題だ。たぶん私は今まで、食事の味を感じているだけの心の余裕が無かったんだろう。
レディローズと出会ってから、私はそうなった。
そして今、レディローズのお陰で私はこうなれた。
久しぶりに味を感じた私はこれを作った人の事を何も知らないけど、きっと優しい人が作ったんだろうなと思った。そんな味がした。幸せになれそうな、錯覚がした。
私はその魔法の強さに耐え切れず、レディローズに行儀悪くもパンを返した。
「魔法は私には強過ぎて、一口で充分みたいですので。…それは貴女が持っていてこそ運命を変えられるのだと思います」
だって、私に魔法を掛けたのはパンじゃなくてレディローズ自身だ。レディローズが持っていてこそ、パンも魔法のパンに変わる。
私は一呼吸置いて、レディローズを見る。いや、もうレディローズとは呼ぶべきではないか。
「少し話しましょうか。さっきまで私いっぱいいっぱいで、ちっとも貴女からの質問に答えられていませんでしたし、それに……私、フェリシアさんの事、本当は全然嫌いじゃありませんから」
私達はその時、初めてお互い笑い合った。
それから私はフェリシアさんに、自分の今までの人生を話した。少しだけ優しい話に変えて。
転生して嬉しいと思い、前世からの願いを叶えようとずっと努力して来た事。フェリシアさんを見て打ちのめされた事。シナリオを壊そうとそれでも何度も何度も何度も挑み続け、挫折した事。シナリオに従い皆を幸せにしようと決めてティーア学園に入学した事。シナリオ通りの未来を辿ろうとした自分には罪を背負ったまま生きて行く覚悟がなかった事。それでも自分の願いを叶える為に足掻く事に決め、だけど先に私の心が折れた事。
そして、私が自殺という形で死ねたなら残して来た遺書から私の罪を全て世間に公表し、フェリシアさんに公爵令嬢の地位に戻ってもらいセス様とも婚約し直してもらおうと思っていた、今の気持ち。
「けど…平民になりたかったのなら、貴女はそれでは幸せになれませんね」
「うん。貴族とか王妃とか本当無理」
「あはは」
ばっさりと切るような返答に、乾いた笑いが漏れた。
この人は、誰よりそれが似合うのに、こんなに簡単に捨てちゃえるんだもんな。
「困った、なぁ…」
皆を、セス様を幸せにしたいのに。もし私がフェリシアさんの意思を無視して無理やりそうしたとして、セス様が幸せになれるのかももうわからない。
だって結局、セス様の片想いだ。フェリシアさんはセス様より平民になる事の方が大切だったんだ。それが事実。
「私に罪悪感を覚える必要が一ミリも無いってわかったんだから、もうそのまま王妃になっちゃえば?」
フェリシアさんは、簡単にそう言う。
それではセス様を幸せに出来ない。私も恋愛感情の無い形だけの結婚をしたい訳じゃない。
「それでも私の望みは叶わないので。それじゃあ、意味無いから」
セス様への私の気持ちは、フェリシアさんには話していない。だってさすがに、好きな人の好きな人には言えない。
「大丈夫。叶うよ」
フェリシアさんはそんな私に、軽く言う。ひどい言葉だと思った。それを貴女が言うの? って感じ。
「無責任ですよ」
だけど、私はそう困って笑いながらも、自分でも驚く程にあっさりと、その瞬間自分の終わりを諦めた。
私がセス様の為に今するべきことは、そうじゃないと思ったから。
私とセス様は、たぶん……足りなかった。




