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一週間の療養が命じられた私は、仕事を禁じられた上学園も休む事となった。
それももちろん大問題だけど、一番の問題はそれにショックを受け過ぎてついに本音を口に出してしまった事だった。誰にも聞かれていないだろう。だけど、あれは言ってはいけない言葉だった。
再び立ち上がりたいなら、絶対に言っちゃダメだったのに。
セス様は何度もお見舞いに来てくれて優しかったけど、迷惑を掛けた私にとってはそれは辛いだけで。
ティファもティファで、一日情けをかけた後は散々に責めてくれるのかと思いきや、何故か優しく甲斐甲斐しく看病し労りの言葉を吐くだけだった。もしかしたらその方が私が狼狽えるのをわかって……いや、そんな子じゃないか。
メルヴィン君は、もし来たらと先にお見舞いを謝絶してもらった。その数時間後ティファに先程来られていましたと言われたので、先手を打っておいてよかったと思う。
そしてなんとお義兄様も私を訪ねて来られた。それ見たことかと私をついに責めてくれる人かもと思い、私は現在、二つ返事でお義兄様を部屋に招き入れている。
さすがのお義兄様も未婚の女性の部屋には入れないから貴様が出て来いとは言わずに入って来てくださった。もう夜だからもしかして入らずに話す気かとも思ったけど杞憂だったらしい。
私が何か言う前に、ティファが私の代わりに開けたドアから入って来るなり、私が上半身だけ起こしているベッドの前まで足早にお義兄様が来る。それに驚きながらも護衛が変わらず双璧の死神な事だけ確認していると、お義兄様が突拍子もなく言った。
「フェリシアと会わせてやる」
それは私にとって、あまりにも想定外な言葉だった。
レディローズと私が、会う?
「倒れてからまるで魂の抜けた後の抜け殻のようだというお前の状態は、使用人達から聞いた。フェリシアは運命を変えるそうだ。会えばお前の気も変えてもらえるだろう。ついでに運命も変えてもらえるかもな」
お義兄様のするお話は、夢のようで現実味がない。
私の気が変わる? 運命が変わる? そんな事は信じられないし、望むのはもうやめた。もう要らない。
「お義兄様は、レディローズに変えて頂いたようですわね」
私をレディローズに会わせるなんて、前までのお義兄様だったら私がどれだけ弱っていても例え死の淵での私の頼みだったとしても、冷たく突き放しただろう。
レディローズは凄い。確かに彼女なら人を変えられるだろう。
でも、私は無理。希望が無いから変われない。
「ええ、わかりましたわ。会います」
お義兄様はまだしも、レディローズが何を思って私と会うのかはわからない。
けど、私は多分どんな終わり方にしろもうすぐこの世から消えるだろう。だからその前に一度謝りたい。自己満足かもしれないけど、それでも、悪い事をしたから謝りたかった。
だから、お義兄様の望む結果にはならないだろうけど会うのは構わない。
「フィーに言っておく」
少しだけ微笑んで、お義兄様は出て行かれた。双璧の死神も続いて出て行く。今の笑顔もきっとレディローズに向けたものだろう。私に微笑む訳がない。
しかし、最後にお義兄様、フェリシアじゃなくてフィーって言ったけど……レディローズのあだ名かな? まあ仲良くしているようで何より。
「ティファ、私ももう寝るわ。下がって」
「かしこまりました、聖女様。おやすみなさいませ」
ティファが出て行く。私の事が嫌いなのに、いい子だし賢い子だから私を殺してはくれない侍女。
一人になった私は窓を開けた。秋の風が冷たい。下を見る。
……窓からは、今日も飛べなかった。
だから窓から暗殺者か誰かが入って来て殺してくれないかなと他力本願な事を願って、窓を開けたまま眠りについた。
翌日、私は教会へと向かった。静養とはいっても過労で倒れたのもほぼ精神的な問題だからと把握されているのか、外に出るのを止められる事はなかった。
とはいえ、それもおかしな話だ。それでも普通は止めるだろう。次期王妃になるかもしれない人間なんだから。
……やっぱり、もう私は要らないのかもね。
セス様なら止めてくれるかもしれないけど、わざわざ報告しに行く気は無い。止めてくださいとでも言いたげなそんな行動出来ない。
だから私を止めたのは一人だけだった。
「聖女様はただ黙って寝ていればいいんですよ」
ティファだった。私の事を嫌いでも、私を放っておいてくれるという訳ではないらしい。
「今行かなくては、セス様を幸せにするのも諦めて消えてしまいそうなの。行かせて。ティファは私に付き合わずに、此処で好きな事をしてくれていていいから」
笑って言って、返事も聞かずにティファを通り越して歩く。ややあって付いて来る足音が後ろから聞こえた。そうね、貴族にこう言われたらそうするしかないよね。
馬車の中では特に会話もなく、実際の経過時間と反してあっという間に城下町の外れの外れ。いつも通っている教会へと着いた。
いつも通りに中に入る。真っ直ぐに進んだ先、十字架の前で私はお義兄様の言葉を思い返していた。思わず溜め息を吐く。
「…昨日のお義兄様は、どうして今更あんな事を仰ったんでしょうね」
私としては謝れるならいい話だけれど、何かを変える気なのならもう遅いと思う。いつも、うまく行かない。
私は思い出すのをやめた。代わりにいつも通りに誓う。
「私は、本物の聖女になります」
だからそれまでは自分では消えない。消えてはいけない。まだ立たなければいけない。頑張れ。頑なに、気を張れ。
それからまたいつものように感謝の言葉も送る。
「ありがとうございます。今日も私は幸せです…神様」
自分でも何を思ってそう言っているのかは、もうよくわかっていなかった。神様なんて、私は本当に信じているのか。
そもそも自分では飛べないのに、こうして飛ばない理由を作る事にも何か意味はあるのだろうか。
……誓いも感謝も終わった。今日はもう帰ろうか。
振り返り教会の入り口の方を見れば、黙って私を待っているティファが居る。そこから視線を少しずらせば、修道女と牧師も居た。
ふと、思い出す。
いつか見聞きした光景。修道女を囲んだ町の人々が、彼女を天使のようだと言っていた事を。
天使……ああ、そういえばノランもそんなメルヘンな事言っていたな。天使に会った事があるみたいな。
天使と呼ばれるような、国とも自分の運命やゲームとも何の関係もない優しい人間。そんな人と話せば私ももう少しは生きようと思えるかもしれない。どうだろう、むしろ逆効果かもしれないけど。
でもどっちにしろ、今のままだと私は壊れるしかないから。
私は初めて修道女に声を掛けた。
「よろしければ、少しお話し致しませんか?」
「ぅ、へ!? ぁ、あぁあの、わたひ!?」
「はい、貴女ですよ?」
修道女は真っ赤になって、手をまるで飛ぼうとしている羽のように細かくばたつかせている。さすがに驚き過ぎじゃないかと少し心配になった。
「な、な、なん…っ!?」
「何故、ですか?」
確かに、十年以上見る見られるだけの関係で面と向かって話した事なんてなかったから、彼女にしてみても青天の霹靂かもしれない。
「…私、私達が生きているこの世界には、どうしようもなく逆らえない運命みたいなものがある気がしているんです。私みたいなただの子爵令嬢にはどうにも出来ない、頭の良い誰かさん達が動かしている何か。そんな毎日に巻き込まれているだけなのに疲れて、だから…動かしていなそうな…関係なさそうな誰かと、話したかったのかもしれません」
疲れている以上の事まで言って余計な重荷を背負わせる気は無い。だけど、何も事情を話さないのも何だかずるい気がしたからある程度本当の話をした。
修道女はわかっているのかわかっていないのか、顔を顰めた。
「……何を言っているのか、よくわかりません。私、馬鹿なので」
わかっていなかったらしい。難しい話が嫌いなのか、イヤそうだ。思わず少し笑う。
「ふふ、すみません変な話をして。私が言いたいのはつまり、貴女と話したいのはなんとなくってただそれだけという事です。いかがですか?」
「喜んで…っ!」
パッと明るくなった修道女の表情に、さて話をするならその前にと私は姿勢を改めた。
「何度も会っているのに私達、自己紹介もまだでしたね。申し遅れました。私の名前はリリアナ・イノシーと申します」
「わ、私はナンシーです! ナナでいいですよ!」
元気の良い挨拶に、何だか子どもと話しているような気持ちになる。失礼か。
今世で会った周りの同い年ぐらいの子は皆、紳士淑女として貴族らしく振舞う教育をされていたから、相対的な話だろう。
「えっと、えっと、何をお話しすればいいんですか?」
「ナナちゃんの話を聞きたいわ。この教会にはいつから?」
私の話をするわけにはいかないしナナちゃんに話を振ると、素直にうんうん唸りながら考え始めた。
「うーん、と十五年? 六年かな? それぐらい前です。先生に育ててもらいました」
「……ナナちゃんはおいくつ?」
「十五、六歳です! あ、生まれてすぐに捨てられたので! はい! そういう事です!」
自分の年も曖昧らしい。でもやっぱり同い年ぐらいか。しかし、生まれてすぐに捨てられたという割にはよくこんなに真っ直ぐに育ったものだ。
……あれ、でも最初に会った時はもっとボロボロの格好だったような。そう、だからてっきりあのぐらい、三歳の頃合いで教会に引き取られたのかと思っていた。違うんだ。
「こっちで聖女様に会う前はちょっと色々辛かったんですけど、聖女様見たら私ももっと頑張らなきゃなって思えて! だからそれからは、天国に行く為に周りの皆を幸せにするべく日々頑張ってるんです!」
ナナちゃんはキラキラと、素敵な思い出のように話す。
ああ、そういえばぼろぼろだったあの頃のナナちゃんとすれ違った時、謎の感謝をされたな。成る程、知らずに支えになっていたのか。今は逆を私が求めているんだからおかしな話だ。
「あ、そうだ聖女様! この機会にせっかくなので、私も聞いてもいいですか?」
「あら、何?」
「聖女様は幸せですか?」
それ、聞いちゃうんだ。
私はどちらにとも明言はせず、曖昧に微笑み返すしかなかった。
「……お姫様って、幸せなものじゃないんですか?」
不思議そうな問い掛けは、その意味はつまり。ナナちゃんも私がセス様の婚約者だと知っていたらしい。
別におかしな話ではない。婚約式典もしたし顔を隠しているわけでもない。王宮からは遠い此処なら知らない人の方が多いだろうと思っていたけど。
「そうでもないのよ。お姫様になれるからって、一番欲しいものが手に入るわけじゃないの」
「……そっか」
しゅんと落ち込んだように言ったナナちゃんは、次の瞬間にはまたきらきらした目に戻ると、顔を上げて私の両手を掴んだ。
「私に任せてください。絶対、絶対、聖女様を幸せにしてあげます」
何だろう。それは確かに優しい言葉なのに、なんとなく違和感を覚えた。
「全部私がどうにかします」
ナナちゃんはそう言って無邪気な笑顔を浮かべた。
私は――それを怖いと思った。
ナナちゃんと私の立場の違いは、いくら子どもっぽいナナちゃんでもさすがにわかっているだろう。だから、本来その言葉は口だけの励ましになるはずだ。ナナちゃんにどうにか出来る話ではないとわかるはずだ。
なのに、ナナちゃんは私を本気で幸せにする気だ。その目には一切の迷いがない。全ての前提を度外視した、盲目的な程の献身。
「どうして、私にそこまで……?」
正体不明の違和感と不審感から、私は聞いた。ナナちゃんの笑顔は乱れない。
「助けてもらったから。幸せをもらったら幸せを返すの。天国に行きたいから」
いい事、だろう。いい思想だ。でも、怖い。ナナちゃんの目はどこか虚ろだ。
その為なら、普通の人なら思い留まる常識を超えたラインを何の戸惑いもなく笑顔のままにこの子は越えてしまいそうで……危険だ。
幼い頃、初対面の時に感じた関わらない方が良さそうだという直感を優先させれば良かった。
命の危機とは全く別種の恐怖に、私は思わず別れの挨拶も無しに逃げるように教会から出て行こうとした。ティファを伴いドアから出ようとした私の背中に、ナナちゃんの声が掛かる。
「ナナが助けてあげる。だから、絶対に、勝手に死なないでね」
それは呪いのようだった。




