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憎悪のこもった視線にも、慣れてくるものらしい。
お義兄様が向けて来ていたそれよりずっと上。殺意とはこういうものなんだろうとわかるそれを感じる頻度は日に日に増している。最初はさすがに肩を跳ねらせたり、肝を冷やしたりしていたけど、今は特に気にならない。
学園に居る時によく感じるから、相手は学園関係者だろう。でも特に何か対策を取る事はない。暗殺されたならそれはそれで構わない。前世で死んでまた今世で目覚めた時から、死ぬのが怖いと恐怖が焼き付いていたはずなのに。
もしかしたら、感覚が麻痺して来ているのかもしれない。王宮勤めの役人から詳しく国内について聞く為に交流する時間も増やしたので、時間が足りなくなり睡眠時間もさらに削った。特別不調は無いつもりだけど、感情の振れ幅が狭まっているとかそういう事は起こっているのかも。だとしたら好都合でしかないからまあいいや。
「あの、気づいていらっしゃいますよね?」
学園に迎えに来た馬車に乗り馬車が走り出してすぐ、侍女のティファがそうおもむろに私に聞いて来た。
ティファが嫌味以外で、仕事外の事で話し掛けてくるなんて珍しい。
「何の話?」
「ですから、先程も視線……一瞬振り返ろうとしていましたし、気付いていますよね?」
ああ。あの殺気の事か。そういえば、馬車に乗り込む直前にもあった。
「ええ」
「では、何故対策を取られないのですか? 殿下にでも王宮の人間にでも、言えばどうにかしてくださるかと。命までは取られないとでも思っていらっしゃるんですか?」
「対策は取らないわ。自分の命を守る事に価値を感じないから。もし今急に私が消されれば永遠にセス様への恩返しが出来なくなる、というのは申し訳なく思うけど、この世から消えられるの自体は本望」
と淡々と答え、そんな事よりと国内関係の資料に目を通す。が、ふと顔を上げてティファに言う。
「でも私が消えたら、ティファの仕事先をまた奪ってしまうわね。私が嫌いなあなたは感情としては嬉しいかもしれないけど、迷惑掛けたらごめんなさい」
私の先回りの謝罪に、ティファは何も答えなかった。
いや、正確には、答えたか私にはわからなかった。
急に音が消えたと思えば、一瞬遅れて視界が黒に塗り潰される。自分の身体が糸が切れたように倒れて行くのだけわかった。
そこからの記憶は無い。
目覚めてすぐ、私はそこが馬車の中でなく王宮の自室である事を疑問に思った。
ベッドで寝ていた自分に、無意識にやる事をやって帰って来たのかと思う。しかし妙に焦燥感がある。
……馬車。そう、馬車の中で私の身体は確かに倒れた。もしかして、寝不足でうたた寝してしまったのかも。だとしたらまずい。
私は咄嗟に、部屋の隅で黙って私を見ていたティファに声を掛ける。
「ティファ、今何時?」
「……十八時です」
成る程、寝ていたのは三時間ぐらいか。ならまだ何とかなるか。今日は首脳陣との会談に私も出席する。今から急いで準備すれば間に合うだろう。よかった。
ベッドから出て立ち上がる。ティファが近くまで歩いて来た。
「ティファ、急いで支度の手伝いを、」
「寝ていてください」
二の句もなくたしなめるようにティファに言われ、片眉を上げる。
ティファは私の事が嫌いだけど、それでも仕事はいつも一切手を抜かず淡々と最良にこなす子だったはずだ。なのに、何を言っているんだ?
「少し寝ていただけよ。時間が無いから早く、」
「もう遅いです」
「え?」
「リリアナ様は丸一日、お眠りでした」
ティファに二人きりなのに聖女様ではなく名前を呼ばれた事より、その言われた事の意味に頭がフリーズした。
「医者の診断は過労です。精神的なものもあるでしょうと。少し頑張り過ぎているようなので休ませるべきだという判断で、リリアナ様はこれから一週間の療養です」
倒れた? 過労で?……頑張り過ぎ?
私は顔が青ざめて行くのを感じた。
……失敗した。失敗した失敗した失敗した。これまで、何とか少しでも王妃として恥ずかしくないような人物になれるよう、セス様の隣に立って遜色無いようにと頑張って来たのに。
取り返しが付かない事をしても、したからこそ、セス様を幸せにする為の聖女になろうと努力して来たのに。
私が倒れて、どんな損害が出た? あの後に予定されていた首脳陣との会談は? どれだけの人に迷惑を掛け、失望された? セス様はそれに、どんな顔をして何を思ったの…?
体調管理の一つも出来ない、本来此処に居るべき彼女の足下にも及ばない出来損ない。
「……リリアナ、様?」
ティファが狼狽えたような揺れる声音で私の名前を呼ぶ。
ちょっと待ってね、もうすぐ答えられるようになるから。
大丈夫。失敗なんて初めてじゃない。ちゃんとまた持ち直せる。私は大丈夫。大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫。ほら、また今日も笑って、いつも通り、これからまた頑張れ――
自分の頰を、上から下に向け液体が伝ったのがわかった。
「あ、れ…?」
頰に触れると、確かに濡れている。液体はとめどなく流れる。止まらない。
なんで泣いてるの私? 泣いてる場合じゃない。そんな時間無いから。早く感情も身体もコントロールしなければ。
涙を流しながらも、ティファに取り繕うように微笑みかける。
「ごめんなさい。すぐ、止めるから。……おかしい、な。ごめん、ごめんなさい」
どうしよう段々焦ってきた。
だって、止まらない。止めたいのに、どんなに頑張ってもさっきからずっと、壊れた蛇口みたいに涙が流れ続けて止まらない。
溢れて行く。止めていた我慢して来た全部が、涙と一緒に、弱い私が。止めなければいけないのに。あふれ、る。
セス様、貴方に会えた事が幸せでそれだけで良かったはずなのに、私今、貴方のすぐ近くに居られて幸せで仕方ないはずなのに。貴方の幸せを助ける為の存在になろうと決めて、私は幸せで。私は、私……。
何故か、画面越しに貴方を見ていた零パーセントのあの頃に戻りたい、なんて思っている。
「ごめんなさい、少し……一人にして」
ティファは私がそう言うと、私なんて大嫌いで今が私の心を傷つけられるチャンスだなんて見るからにわかるだろうに、黙って私の望み通りに部屋を出て行ってくれた。むしろ心配そうな顔さえしてくれていた。
元々、優しい子なんだろう。ただ私がどうしようもない程悪だから、彼女の中の大切なたった一人だったレディローズを奪ったから、正当に私を嫌っているだけ。
一人にしてとは言ったけど、本当はセス様に会いたい。ただ抱き締めてもらいたい。好きになってなんて、我が儘言わないから。
…でもセス様に会いたいなんて、それからして到底私には言えない。それはセス様の為になる事じゃないから。聖女はそんな事は言わない。甘えるな。甘えるな。
私が悪い。私が悪い。全部、全て、私が悪い。だから。
自業自得だから辛いなんて思っちゃいけない。望んだんだから苦しいなんて思っちゃいけない。好きなんだからもう嫌なんて思っちゃいけない。
いくら自分に言い聞かせても、涙が止まらない。止められない絶望、恐怖。私はこれと似たものを知っている。
思い出したくなくても、気付けば勝手に前世の最期がフラッシュバックした。
始まりは何の変哲も無い。
私は学校の帰りに友達と別れ、これまで友達に貸していた『救国のレディローズ』のゲームカセットをポケットに入れながら、一人あと家まで五分という所の道を歩いていた。
人通りは多かったけど、あまりにも綺麗な女の人が見えたから、思わず軽く目で追った。私だけじゃなくきっとその場に居た皆があの時そうしていたと思う。
大学生ぐらいだろうか、その女の人は今まで見たどんな人よりも綺麗で、そんな美貌の印象だけでは幸せで何の不自由もなく人生を送っていそうな人だったけど、そうでもないのはすぐわかった。
彼女は此方が見ていて可哀想に思う程に、何かに焦っているように眉間にしわを寄せ苦しそうに辛そうに全力疾走していた。様子からして、ただの遅刻や急ぎの用事とは思えなかった。
むしろそんな状態で走っているのにまず容姿に目が行ったあたり、彼女の美貌は凄まじい。レディローズよりも美人だったかもしれない。
恐らく信号も見えない程に焦りで視界も狭まっていた彼女は、信号無視をした。
その瞬間、曲がり角からトラックが顔を出す。
クラクションの音。周囲の人間の悲鳴。トラックは彼女を吹き飛ばす。
トラックの運転手は咄嗟に彼女を避けようとはしたんだろう。すぐ、トラックは急速に方向転換した。その善意の咄嗟の判断は責められるものではない。
でもそれにより、私の居る歩道に横転したトラックが迫った。
私は逃げようとした。もしかしたら逃げ切れたかもしれない。真っ直ぐに逃げられていたなら死ななかったかもしれない。
だけど、逃げようとする自分の足を私は理性的に自分の意思で止めた。私のすぐ隣に、まだ状況も理解出来ていなそうな立ち止まっている小さな子どもが居るのが見えたから。
私は、守ろうと動いてしまった。子どもを包み込むように抱き締めた。相手はトラックだったから、何の意味も無かったかもしれない。ただ私という犠牲者が増えただけの行動だったかもしれない。
でも前世の私のそんな善性は、嫌いじゃない。
……痛かった。全身が痛くて、感覚の無いところもあったけどそれもまた怖くて。息が苦しくて。鮮やかな赤色が、じわじわ地面に広がって行った。
なのにそれから目を逸らすように見上げた空は何の変哲もなくきれいなままだから、自分以外の人の人生はきっとこの先も普通に続いて行くんだろうなと思った。
だからこそ、その一瞬後に喪失感が心を抉った。
最後まで私は誰を責める事もしなかった。誰も悪くないと心から思っていた。
それでも、痛みで生理的に涙を零しながら、つい五分前までは幸せだったのにこんなに簡単に私は全てを失うんだなという心の辛さと絶望に支配された。そんな中で私は目を閉じた。
強がりに、次は一パーセントでも叶う確率のある恋がしたいなんて、自分のポケットの上からゲームカセットを握り締めながら。
狂おしいほどに死にたくなかった、幸せだった私の前世はそうして終わった。
……何度思い出しても苦しくてどうしたらいいかわからなくなる絶望の記憶が終わると、私は浅い息を繰り返し視線を虚ろにさ迷わせながらベッドの上でうずくまった。
そうね、神様は確かに私の願いを叶えてくれた。恋をしたいとは確かに思った。
でも、それは全てを失った後で始めるには、あまりにも心の後遺症が酷くて欠陥だらけのスタートだ。
欠陥を覆い見えなくするように全部を無理やり恋で覆い隠した人間が出来上がった。恋心が擦り切れる度に、元の欠陥が見え隠れする。
強がっていない何も隠していない本当の私は、今世でまた生を受けた瞬間からとっくにぼろぼろだった。
だって私、本当は、本当は……恋がしたいなんて死に際の戯言、叶えて欲しくなんてなかったの。
「こんな世界、望んで来てない」
ついに言ってしまった。
生まれ変わった瞬間からずっと思っていて、だけど見て見ぬふりをしていたのに。死ぬという絶望をもう一度体験したくないから、生きる為に目を逸らし続けてきたのに。
でも好きな人一人が居るというだけで突然異世界に放り出されて、釣り合いなんて取れているはずがなかった。前世の私、火野梨々子はあまりにも幸せだった。生きていたかった。
運命だから仕方ないなんて受け入れるには、私は普通過ぎる女子高生だった。
「もういやだ」
涙が止まらない。私はもうたぶん壊れかけている。
死んであんなに苦しかったから、無理矢理にでも生きている方がマシだと思った。でも、生きていてもこんなに苦しいなら、もう終わりたい。
「やだ、やだよ……」
口が勝手に弱音を吐き出す。
一週間の療養って、そんなのただの拷問だ。それならまだ、むしろ、……。
無理やりベッドから這い出て窓に向かった。窓枠を支えにするように掴んで立ち上がる。鍵を開ける。
風は無かった。下を見る。私の部屋は五階だから、高い。此処から飛び降りれば……。
私はそうしてずっとそこに立っていた。
そう、私はそれさえ出来なかった。自分では出来なかった。行こうとすると前世のその瞬間の痛みを思い出し留められてしまう。
「誰か、誰か、お願いだから私を、」
どうやらそこで、私はまた意識を失った。




