22
私はフェリシア・スワローズという少女を今まで、誰より畏怖して来たと思っていた。
でも最近思う。畏怖には限りがなく、彼女はどこまでも人らしくなかった。
学園入学から半年間、あまりにも機械的に、まるで感情なんて存在しないように…だけどレディローズはセス様の攻略イベントを逃さず着々と熟して行った。
その間、私は彼女をいじめ続けた。
レディローズは、私が物を隠しても表情一つ変わらず教師にも堂々と忘れたと言う。証拠を残さないように簡単なからくりを作ってトイレで頭から水をぶっかけても平然としている。鞄の中に生ごみを詰めても臭いはずなのにそのまま普通に鞄を持って帰って行く。
極めつけは、私が自分で自分の制服を割いてハサミをその場に投げ捨てた状態でレディローズを呼び出し悲鳴を上げて被害者のような事を言い、彼女が周りから責められている時。
レディローズは、穏やかな優しい目で私を見ていた。何一つ、彼女の心を私は揺るがせられていないのがわかった。
孤立してもどれだけいじめても、レディローズはその高貴さも気高さも美しさも一切損なわない。
人形のようで、彼女の中には本当に感情が存在しているのかと不安になる。
何で全く揺るがないのか。いっそ自分がゲームの画面越しに見ていた主人公の方がよっぽど人間味があった。
私がどれだけ睨んでも、どれだけ罵倒しても、どれだけ実害を与えても、レディローズは私にふわりと微笑んだ。これだけ憎悪を向けて尚、正面でこんなに叫んでいるのに、私は彼女にとって眼中にもないんだろう。
ぶつけたはずの感情が全部すり抜けてしまってレディローズに届いていない。八つ当たりさえ出来ていない。
彼女だけは、ゲームに組み込まれたデータなのかもしれない。
それでも、私の自己嫌悪だけは募った。
人を喜ばせようとした事ならいくらでもある。失敗して悲しませてしまった事や怒らせてしまった事もある。だけどわざと人を貶めようとした事も、そうしたいと考えた事さえ、私には無かった。
実際やってみて思う。どうして人を簡単にいじめられる人間が居るんだろう。自分の事、嫌いにならないのかな。最低な人間って思わないのかな。気持ち悪くならないのかな。
私は、きっと二度と自分を善人で清廉潔白な人間だとは言えない。自分の事を好きだと思えなくなった。
セス様を幸せにする為で、後に自分は必ず裁かれるという免罪符がある私でさえこう思う。やった事は二度と消えない。自分の記憶の中に小さくても永遠に根付く。
私はもう早く全てを終わらせたい。終わって欲しい。こんな最低な自分で生きて行きたいとは思えない。一刻も早く運命の日になって欲しい。
大好きな人に死ぬ程嫌われて自分が断罪される日が、はやく来て欲しい。
「お前最近疲れていないか?」
ふと、大好きな人の声で意識が覚醒する。裏庭のベンチに私。と、セス様。
あれ……さっきまで私は何をしていてここに座っていたんだっけ? あまり思い出せない。
でも、最初はセス様が隣に座ってはいなかったはずだと思う。後から来て座って、それでも私が気付かないから声を掛けてくださったんだろう。
「勉強疲れ、かもしれませんわ」
「ああ、ずっと試験の成績一位だしな。単純に頭が良いだけではなくリリアナは見落としや些細な考え違いをしないと職員室で絶賛されていたぞ」
「まあ、恐縮ですわ」
勉強。まあ、毎日してはいるけど別にいつもの事だし、これからずっと私の最期までミス一つしないでセス様を幸せにする気だし、その程度は当然だ。
セス様はそれから少し黙り込んで言葉を探すように口を二度程開閉してから、私の目を真っ直ぐに見られた。
「俺はそういう繊細な感情に疎いから、何かして欲しい事があれば言葉で言ってくれ」
綺麗な空色の目を私は見つめ返す。セス様は続ける。
「一番の友人の頼みだ。大抵は叶えてやる」
優しい。私の好きな人は本当に優しい。
でも、私の人生たった一つの望みは言っても叶えてはくれないだろうし困らせるだけだ。セス様だってしようと思って出来る事じゃない。
私とセス様、同じ意味でお互いを好きだったらよかったのに。
「ありがとうございます。私は幸せですし、何も要りませんわ。あら、もうこんな時間。帰りませんと」
私は笑顔で言って立ち上がる。そのまま返事も聞かずに歩いて行こうとした。学園内だからクラスメートとしてこの程度の不敬は許される。
「リリアナ」
背中に掛かった声には足を止めるまいと思ったけど、やっぱり足を止めた。言いたい事を思いついたから。
「一つ、ありましたわ。セス様へのお願い事。――絶対に幸せになってください」
最高の笑顔でそう言って、きょとんとしているセス様を残してまた一人、歩き出した。
少し歩いて馬車の前まで来ると、シャーリーがいつものようにそこで私を待っていた。
「お帰りなさいませ、リリアナ様」
「ええ」
流すように言って馬車に乗り込もうとしたけど、シャーリーがドアを開けようとしない。貴族の淑女が自らドアを開ける訳にはいかず、訝しげにシャーリーの方を見た。
「お話があります」
真剣な顔で言って来たシャーリーに私は黙って睨むような視線を送り、いいからドアを開けるよう促した。
シャーリーはそんな私を無視する形で話し出す。
「もう、やめましょう。嫌いな方がいらっしゃるのは悪い事ではありません。ですが、やり方がリリアナ様らしくありません」
生ごみの調達やらからくりの製作やら盗んだ物の廃棄やらは、学園では人目を気にしなければならなないので家に帰ってから全て行っている。
自ら明かしはしていないけど、私とよく一緒に居るシャーリーならそりゃ気付いてただろう。彼女は鈍感ではない。
ただ僅かに計算外だったのは、メイドという身分にも拘らず主人である私にシャーリーが歯向かった事。そしてこんな人目のある場で話を始めた事。
この国において、貴族に与えられている権利はあまりに大きい。私の采配一つで彼女の首は文字通りに飛ぶのに。
「私は、あなたのそんな姿をもう見たくありません!」
シャーリーが私の心に訴えるように泣きそうな顔で叫ぶ。
……シャーリーは、真っ直ぐで綺麗な女性だ。それに、本当に随分と感情豊かになったな。
私は微笑む。うん、シャーリー、貴女は今まで本当によくやってくれたよ。
「私は最初からこういう人間よ。あなたの理想の聖女様でなくてごめんさいね? 私の言う事が聞けないならクビよ。何処かへ行って」
シャーリーは悔しそうにまだ何かを言おうとして、だけどすぐには何も言わず、一つ頷いてから深呼吸した。
「誰にも、リリアナ様がしていらっしゃる事を言いはしません。ですが、それは報復を恐れてではありません。リリアナ様の事が好きだからです」
ゆっくりと、私に言い聞かせるようにシャーリーは言う。私は無表情に無言でそれをほぼ流すように聞いた。
「こうなる前に私が止められていればよかったのに、力不足です。申し訳ありません」
シャーリーは何故か最後に謝って、去って行った。私はシャーリーには結局何も言わず、ただその背中を見送った。
代わりに、シャーリーが校門から出て行き見えなくなったのを確認した後、答えるように一人呟いた。
「止まらないよ。私にはこれ以外の道は無いから」
「そうか? 俺には、唯一の望み捨てて自暴自棄になっているようにしか見えねぇけど」
何故か言葉が返って来て驚いたけど、相手が誰かはすぐわかった。振り返ると案の定メルヴィン君が居る。
いつから聞かれていたんだろう。まずい事になったかもしれない。いじめを察されたか?
いやそもそも、人の感情が絡まない単純な情報に関して、メルヴィン・クラビットが知ろうとした時点で隠す事は難しい。人脈やら頭脳やらに加えてお金も惜しまないから情報収集能力がとんでもない奴だ。だから、元々私が何をやっているかぐらいは知られていただろう。
うん、ならいいや。
私はメルヴィン君の言葉を無視して去るべく、メイドが居なくなったので代わりに馬車の御者にドアを開けてと視線で指示した。本当なら私がさっさと開けて乗り込みたいけど、そういう訳にはいかない。
御者が状況に戸惑いながらドアを開けに来る間に、メルヴィン君が私の無視を意に介さず言葉を続ける。
「友達ってのはな、一方が簡単にやめたいって言えばやめられるもんじゃねぇし、俺はお前に本当の友達だって言わせんの諦めてねぇからな!」
何言ってんのこいつ。馬車乗り場で。人目もあるのに。恥ずかしい。
ちょっとだけ泣きたくなった。気持ちは変わらないけど。
「馬車を出して」
馬車に乗り込み御者に命じる。
何も見たくなくて目を閉じて、反動と音だけでちゃんと馬車が動き出した事を感じる。
煩いのよ、皆々……友達は要らない。家族も要らない。先輩も後輩も先生も、誰も、要らない。思い出したくない。セス様以外。
「この世界の誰も、だってわからないじゃない」
思わず、御者にさえ聞かれないように口の中でそっと呟いていた。
一度も死んだ事ない人には、私が何でこんなにもセス様だけなのかなんてわからない。わかってくれなくていい。
私はセス様の為に生きてセス様の為に死ぬから、そんな私を邪魔せずに私に近寄らないでくれれば、それでいい。
「教会に寄って」
抑揚ない口調で御者に命じた。
セス様のルートの場合、ゲームが終わるのは入学からだいたい一年後。でも明確に何月なのかまではわからない。入学から一年巡った春な事だけわかる。
だから念の為早めに、私は、神様に最後のお別れの挨拶を言いに行く。
シャーリーがメイドを辞めた以上、私と行動する新たな使用人が就けられるだろう。教会に通っている事ついて変に勘繰られたくない。
そうして教会に着き馬車を降りると、ふと笑い声が聞こえた。見れば一人の少女が少し離れた所で人に囲まれている。
少女には見覚えがあった。修道服にもその顔にも揺れる三つ編みにも。いつも私を何故かキラキラした目で見て聖女様と呼んでいるあの子。
なんとなく足を止め、彼女たちの会話を聞いた。
「ナナちゃんの笑顔は天使みたいで癒されるね」
「へへ、そうですか? ありがとうございます! おばあちゃんの笑顔もかわいいですよ!」
「ナナちゃんは誰にでも分け隔てなく優しいし、こんないい子見た事ないよ」
確かに、清らかな子だ。笑顔が幸せそうで眩しい。
むしろ、何故そんな本当にきれいな心を持った少女に私はいつもきれいなものを見るような目で見られているのだろう。
「何か欲しいものは無いかい?」
「いえ! 私は天国に行きたいだけなので、そういうのは大丈夫です!」
願いまできれいだ。あの子はきっと天国に行ける。私はいじめなんて悪い事をしたからきっと地獄に落ちるし、天国では再会出来ないだろう。
私とこのまま一生会話を交わすことも無く、道を交えることも無く、ただ幸せに生きてくれたらいいと思う。
私は彼女達から視線を外し、止めていた足を動かし教会の中へと入った。
真っ直ぐに十字架の前へと向かう。祈るようにその前に跪く。最後のお別れの言葉のつもりだけど、でも、私の言葉はいつもと同じだ。
「ありがとうございます、神様。今日も私は幸せです」
言ってから、私のこの言葉ってこんなに薄っぺらい響きだっただろうかと疑問に思った。
おかしいな、心から思っているのにな。私、本当に幸せなのに。




