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私、リリアナ・イノシーが、自分に好きな人が居る事を"思い出した"のは、三歳の誕生日にメイドのシャーリーからその私の好きな人の名前を聞いた時ーーつい昨日の話だ。
その時、私は頭の中が掻き乱されて酷い目眩を起こしその場に倒れ、一瞬後全てを思い出してから目を覚ました。正確には、リリアナ・イノシーの意識とは別に前世の私、火野梨々子の意識と共に目を覚ました。
昨日は、いきなり倒れた私を心配する娘溺愛の父親や私が零歳の頃から私付きのメイドであるシャーリーをなんとか宥めすかして、膨大な情報量に支配される頭を休める為にすぐに寝た。
そして現在、早朝、しっかりと頭の中を整理出来た状態で目を覚ました私は満面の笑みで起床する。
「あぁあ、最っ高! 私、今あのセス様と同じ世界に居るんだ! すーっ…はぁーあ! 私今、セス様と同じ世界の空気吸ってる! 空気美味し過ぎ!!」
ベッドでごろんごろんとのたうち回りながら、私はこの狂喜の感情を少しでも発散するべく布団を頭まで被り枕に顔を押し当て音を最小限に抑えながら叫んだ。
こんな三歳児の奇行を誰かに見られてはお医者さんコースは免れないので、人に会う前に少しは落ち着こうという、そうこれはそんないっそ冷静ともいえる行為だ。私は今、至って冷静である。
私がこれからどう生きるべきかのプランも完璧に立て終わっているし、自分の置かれている状況や立場も明確にわかっている。うん、なんて私冷静なんだろう。
「これから先、ただ生きているだけでもセス様のお口に入る野菜の隣で育った野菜を食べられたり、同じ農場で育った動物を食べられたりするかもしれないって事でしょう? うわ、幸せ過ぎ! 逆に辛い!!」
いかに私が冷静であるかを証明する為に、もう一度念には念を入れて頭の中で整理しよう。
まず、私リリアナ・イノシーには別世界で生きていた前世の記憶がある。つい昨日まではかなり薄ぼけてしか記憶に無く、自分に前世の記憶があるというよりは色んなものに既視感を覚えるという程度だったんだけど、今は明確に思い出せる。
前世の私の名前は火野梨々子。享年は十七歳だ。特に目立った特技がある訳でもなく壮大な人間ドラマを繰り広げた訳でもなく、実に平凡に善良に恵まれた人間関係の下で幸せに暮らしていた梨々子がどうして記憶を持って生まれ変わるなんて奇想天外な現状に至ったのかというと、それは梨々子が生前から好きだった人に由縁する。
梨々子は『救国のレディローズ』というゲームの中のとあるキャラクターを心から愛していた。それはもう狂疾的な程に偏愛していた。そのお方こそさっきから非常に冷静な私が口にしている、セス様だ。
「私セス様とお会いした時、まともに話せるのかな? いや話せなきゃいけないんだけど、正直目合った瞬間に血液沸騰して病院送りになりそう。いっそ大事な血管切れてその場で死んでもおかしくない」
当時中学生成り立てだった梨々子はとあるゲーム屋で『救国のレディローズ』のゲームパッケージのど真ん中に描かれた乙女ゲームのメインヒーロー、セス様に心臓を撃ち抜かれ命からがらゲームを買ってお店を出て、それからゲームにど嵌りした。正確にはセス様にど嵌りした。
セス様だけを心の底から愛していた梨々子は、周りからどん引かれようが諭そうとされようがお構い無しにセス様への愛を貫き、その気持ちは十七歳の死ぬ時まで変わらなかった。
事故により横転した車が自分の前へと突っ込んで来るのを見た梨々子は、直感的に今から自分が死ぬとわかった。近くに居た子どもを咄嗟に庇ったあたり実に善良に生きていた梨々子、そんな彼女で私の最期の願いを神様は叶えてくれた。
『次は、一パーセントでも叶う確率のある恋がしたい』
成就確率零パーセントだった恋情の相手の世界に転生させてくれるだなんて、神様は気前が良い。私は今日から死ぬまで神様を信仰します。
「いや……死因がセス様って、それはそれで幸せなのでは? 私の人生をセス様が終わらせてくれる…それはもしかして結婚よりよっぽど深い契りと成り得るのでは…?」
ちなみに今の私リリアナ・イノシーは、ゲームの主人公のレディローズ様ではない。だけどゲームにもばっちり登場していた。リリアナはセス様ルートを進めようとする主人公の前に立ちはだかるライバルキャラだ。
でも私、主人公よりリリアナの方が自分に近いと常々思っていたから、主人公じゃなくリリアナに生まれ変わった事については全然オッケー。主人公だったらセス様と何もしなくても家の力で婚約出来るからその点は生まれ変わる分にはいいと思うんだけど、セス様という素晴らしい婚約者が居るのに他の男に目移りする気持ちがまったくわからなくて、セス様ルート以外のルートではゲーム中主人公に感情移入出来なかったんだよね。リリアナの気持ちの方がわかる。
ゲームのリリアナは主人公が誰のルートを選ぼうが一途にセス様だけを好きなキャラクターだし、セス様ルートで主人公をいじめる悪女になるのはやり過ぎだけど主人公が他ルートを選んだ時はすかさずセス様と結ばれる。それでこそ私が生まれ変わったキャラクターだ。そのセス様への執着、素晴らしい。
「でも生きてセス様と結婚し愛し愛された上でどちらかが死んだその時、それは殺したり殺されたりするよりよっぽど二人の心を繋ぐ楔になるか…。うん、初対面で死ぬなんてそんなのやっぱり勿体ないな」
単純に考えて、主人公のレディローズがセス様を選ばなかった時以外、ゲームの攻略キャラはセス様や隠しキャラを含めて六人だから、六分の五の確率で私は運命上セス様と結ばれる事になる。
だけどそんな他力本願に甘んじる私ではない。六分の一で私がセス様と結ばれない確率があるというのに、その時指を咥えてただ見ているような、私はそんな大人しい女では…ない!
レディローズがセス様を相手に選ぼうがそんな事ぁ関係ねぇのだ。私がゲームが始まる学園入学の十五歳までにセス様に私を好きにならせて婚約者の座も奪い、二人の間に入り込む余地の無い愛を築いちまえばもうゲームとかシナリオとか関係なく私は勝ち!
そしてそれが出来るだけの知識が私にはある。容姿も前世は平凡だったけど、今は美少女だ。そして何より、セス様の隣に立って相応しい女になれるよう、私は三歳の今時点から努力を積み重ねて行く気満々だ。
何が完璧令嬢レディローズだ。主人公だ。私が転生した時点でこの世界の主人公は私だと相場が決まっている! 勝てる気しかしないね!
「……起床! お勉強する!」
有り余る愛の情熱発散儀式を終わらせ、脳内整理もあらかた終わりキリが良くなったので、私は被っていた布団を跳ね除けベッドから起き上がった。
部屋に備え付けられている洗面所で台を使って足りない身長を補いながら顔を洗い、髪を梳かす。普段はメイドのシャーリーにしてもらっているお着替えを自分の力で済まし、貴族らしくもシンプルめな動きやすいワンピースに着替えた。それから全身鏡で身だしなみを軽くチェックした後、背伸びしてドアを開け部屋を飛び出す。
時刻はまだ朝の六時。廊下を歩いていても人には会わない。自室にお勉強道具があればそのまま大人しくお部屋から出ずにお勉強したんだけど、三歳児の部屋にそんなものはない。ぬいぐるみはたくさんあるけど、本棚さえない。
こんな事になるなら今年の誕生日はお勉強セットを頼んでおけば良かった。自分の今の身長より大きいクマさんのぬいぐるみなんて、愛の修行経験値の足しにはならない。
私は確か本がいっぱいあるのはこの部屋だったはず、という曖昧な記憶を頼りに見事書庫へと辿り着いた。
背伸びしてドアを開け、部屋の隅に行き備え付けられている小さな棚の引き出しを開ける。
「ビンゴ。筆記用具ゲット」
私はパチンと指を鳴らそうとして、上手く音を鳴らせず自分の手を不満を込めて見た。ぷくぷくで柔らかく小さい手と指は、指パッチンには向いていないらしい。前世では良い音鳴らせたのに…。
気持ちを切り替えてインクと羽ペンと羊皮紙を持ち、机と椅子がある窓際へと移動する。椅子を見上げる。結構高い椅子だ。私の身体じゃ這い登るだけで体力を使いそう。しかも机とも身体のサイズが合っていないので、椅子に座ったところでまともに机を使う事は出来ないだろう。
私は少し悩んだ末、貴族のご令嬢らしさを気にせず床でお勉強する事にした。
そうと決まれば、身長的に届く位置にある中で目ぼしい本を探そう。この世界で学ぶべき事は私にはたくさんある。つまり、それだけ読むべき本も多いという事だ。探すのはそう難しくないだろう。
私はその場に筆記用具を置いて本棚に近づく。日本語で書かれている文字に、文字を覚え直さなくていいの有難いよなと思いながら『貴族社会のマナー』と書かれたものを手に取った。
少し厚めというだけなのに、実際に持ってみるとかなり重く感じる。うーん、小さな身体って思った以上に面倒臭そうだ。
「一冊ずつでいいかな」
私はうん、と自分の言葉に自分で頷き本を持って筆記用具を置いた床まで歩いた。
家の中でも靴を履いて歩く文化なのでちょっと汚いけど、やむを得ないので床に膝をつき上半身を倒して本を読み始める。こんな事もあろうかと今日私が選んだワンピースの色は濃いグレーで汚れが目立たないし、三歳児のやる事だし、まあ許されるだろう。
本を読み進めながら、重要と思った事はよく覚える為にインクを浸けた羽ペンで羊皮紙にメモを取っていく。羽ペンなんて前世では使った事無かったから書き辛いけど、代わりの物なんて無いんだから文句は言えない。使っていればそのうち慣れるだろう。
「敬語は未だしも女性の貴族はですわ口調…そういえばリリアナってゲームでそんな口調だったか…。主人公も、正式な場ではそうだったな。えー、ですわ…ですわ、か…照れないように話せるようにしなくてはいけませんわね……」
私のお勉強は、私を起こしに部屋に行ったシャーリーが私が居ない事に気づいて誘拐かと勘違いしてちょっとした騒ぎになり、その騒ぎを私が聞きつけるまで続いた。