静6
巨大な、狼。人間など、足で踏み潰されてしまうような大きな狼。
それが、目の前にいる。
「サネスドだ」
狼が喋る。
意外にも、涼やかな声で。
イズルと喋っている時にはどこまでも無限に広がるように思えた白い空間が、その狼、サネスドを前にするととたんに窮屈にすら感じる。
「武の神様、だっけ」
マサヨシの言葉に、大きな狼は頷く。
「武、戦いを司る。それらは原始からの人の本能よ」
「暗黒大陸に信徒が多い」
「戦いに満ち溢れているからな」
「廃れ神と違って、正真正銘の偉大なる神様だ。そのサネスドが、一体どうして俺に? それとも、これはシュガーの幻覚かな?」
「神と信徒の関係は、賭け事に似る」
質問には答えず、淡々とサネスドは続ける。
「多くの信徒を抱えれば、彼らが人の世に影響を与える可能性は高いが、見返りも薄い。広く小額ずつ賭けているようなものだ。だがイズルは一点に賭けて、そして大当たりを引き当てた。今の奴ならそれなりの加護を人に与えることができる。それをうまく使えば、さらなる信徒を獲得できる。廃れ神を脱却できるやもしれん」
「へえ」
もう、大して興味はない。
「あのヒーチは傑物だ。それは知っている。だが、お前もなかなかのものだ。いや、だった」
「はっ、過去形とはいえ、嬉しいよ」
「感じるか?」
「え?」
「戦だ。戦の臭いだ」
獣臭い息を吐いて、狼は震える。
「ヒーチめが、ずっと続いていた我が名を冠する大陸の戦を終えてしまった。だが、また戦争が起ころうとしている」
「そりゃ、戦争は起こるよ。ちょっと前にも起こった」
「あれよりも長く、長く続く、地獄のような戦争だ。多くの供物が我に捧げられる」
「そりゃあ、大変だ。大戦争が起こるわけか」
特に思うこともなく、呟くだけのマサヨシは、
「それで、俺に何をしろと?」
「逆だ」
意味が分からず、マサヨシは眉をひそめる。
「逆?」
「そうだ。何もするな。いいか、この戦争はもはや、通常の手段ではとめられない。始まる。この大陸全てを焦土と化すほどの戦争が。だが、止められるとしたら、お前だ。お前だけが、止められる可能性を持つ」
「どうして、俺が」
「いいな、何もするな」
ずっと興味のない顔をしていたマサヨシは、そこで初めて表情を正すと、真正面から巨大な狼の顔を見返す。
「ねえ、サネスド」
「何だ?」
「それだけのために、神様がわざわざ会いに来るの? 俺の元いた世界じゃあ、神様に会えるのは精神に問題を抱えた奴か聖人か、薬でトリップした奴くらいだ。ああ、じゃあ、俺が会ってもおかしくないか」
自分で言って自分で納得したマサヨシは、
「まあ、とにかく、これが俺の幻覚じゃないと仮定してさ、一体どうしてわざわざ俺に会いに来たのか、理由があるのかなと思って」
「単純だ」
狼の巨大な目が細まる。おそらく、笑ったのだ。
「あの男の息子だからな」
目を覚ます。
地下室。マサヨシは涎をたらして、椅子に座っている。
「ん、ああ」
目の前には、クーン『だった』もの。
「やっぱり夢か」
「どんな夢だった?」
声がする。
蝿の羽音も。
「神様に会ったよ」
「どうやらシュガーの影響が元に戻れないレベルに出ているらしい」
「いやいや、神様に会ってたのは元からだ」
「記憶障害まであるようだな」
「ふっふっふ」
ねっとりとした闇の中で、会話を楽しんでマサヨシは笑う。
全てを見透かされているような気がする。
ジャックは、戦場でも感じたことのない不安感に体が震えそうになり、それを必死で抑える。
「君とじっくり話すのは初めてだな」
黒尽くめの服装で足を組み、ヒーチはジャックの姿を上から下まで眺める。
「噂は聞いていたが、なるほど、こんな男か」
アインラードとロンボウの国境沿いにある、見捨てられたあばら家。
穴だらけの穴から差す日光でまだらに照らされている室内で、ジャックとヒーチは会っている。
腐りかけた木製の椅子に座ったヒーチと、その前に立つジャック。
二人きりだ。
「話を通したら、こんなあっさりと会ってくれるとは思ってもみませんでしたよ。しかも、こんな風に二人きりで」
「俺は客だ。おまけに、例のフリンジワークの発言で俺をどうするかでアインラード内で紛糾している。今の俺が誰かに会おうとしたら、こういう場所でこっそりと一人で来て会うしかない。むしろ、そっちが一人きりで来たことの方が驚きだ」
「今回の件は、俺の一存ですのでな」
「なるほど」
ヒーチが足を組み替えると、ぎしぎしと椅子が音を立てる。
「それでは、聞こうじゃあないか。手紙のやりとりも、ここまで抜け出してくるのも苦労しただろう。こっちも苦労したがな。それで、ジャック、君はどうしてそこまでして俺に会いたかった?」
「大体、想像つくでしょうが」
「まあな」
あっさりとヒーチは頷く。
「トリョラを、俺に預けるという話だろう?」
「端的に言えば」
「くく」
喉の奥を鳴らすようにして笑うヒーチに、ジャックは目を細める。
「どうかしましたか?」
「その話を持ちかけられたのは二回目だ」
「え?」
「アルベルト。あの子どもに言われたよ」
「アルベルトに……」
納得したように頷いてから、
「あいつは子どもじゃあありませんよ」
「子どもだよ。マサヨシが血も涙もない大悪人ではないことに戸惑っている。世界が白と黒で分かれていると思っている子どもだ。そういう意味ではマサヨシと一緒だな。アルベルトは完全な悪としての仇を、マサヨシは完璧な平穏を求めている。どちらも、そんなものはこの世にない」
そしてヒーチは肩をすくめる。
「それにあの子どもは、自分の復讐が自己満足ではないかとも悩んでいた。馬鹿馬鹿しい。この世に、自己満足以外の何かがあるものか。人助けをするのは、人を助けると自分が気持ちがいいからだ。復讐も同じ。それをすると気持ちがいい。それだけで十分だろうに」
「そう、割り切っては考えられないもんでしょうに。で、アルベルトが、あんたに組織を乗っ取るように言ってきたんですかい?」
「ああ、だが断った」
「どうして?」
本当に理解できない。
ジャックは、ヒーチは組織を、トリョラを支配しようとしているのだとばかり思っていた。だというのに、どうして。
「あんたは、そうしたかったんじゃあないですか?」
「確かに、俺の目的はそうだ。だが、アルベルトの目的は違う」
「え?」
「マサヨシを苦しめるために、俺と協力して奴の力を削ごうというのがアルベルトの目的だった。だが、そんなことに意味はない。今更、組織が乗っ取られようが金や権力を奪われようが、マサヨシは楽にも苦しくもならない。君なら分かるだろう?」
それは、そうだろう。
それについては、ジャックは納得できる。
今のマサヨシがそれに興味を持っているとも思えない。
「だから、それを懇切丁寧に説明してやった。くれるというならもらうが、それはマサヨシにとって何の意味もない。それでもいいのか、とな。そうしたら引き下がったよ」
「どうして、自分にとって損になる説明をしたんです?」
「損? 何がだ? ひょっとして勘違いしていないか? 俺は、組織や金やあの町が欲しいんじゃあない。ただ、勝ち取りたいだけだ」
腹の上で指を組み合わせたヒーチは、大きくのけぞり視線を天井に向ける。椅子が軋む。
「まあ、俺に説明されるまでもなく、奴も分かっていたとは思うが。分かっているのに分かっていない振りをするというのは、子ども特有だ。結局、どうしていいか分からずに、呆然としている子どもだよ、奴は」
そしてヒーチは目を閉じる。
何を言っていいか分からず、ジャックも黙ってしまうと、そのあばら家を沈黙が支配する。屋根の穴から漏れた光で日光浴でもするかのように、目を閉じ黙ってヒーチはまだらの光を浴び続ける。
「それで」
ようやく、目を閉じたまま、姿勢もそのままでヒーチは口を動かす。
「君はどうして俺にトリョラを支配して欲しい?」
「このままじゃあ、滅びかねないからですよ。フリンジワークのせいでね」
「奴か」
呟いて、再び沈黙。
ゆっくりとヒーチは顔をジャックに戻してから、目を開く。
「最初に言っておくと、期待には沿えない」
その目はただ静かで感情の起伏が感じられず、凪のようだ。覗き込まれているような、あるいは逆に引き摺り込まれているいるような気分になって、ジャックは少しかぶりを振る。
「何故ですかな?」
「時間がないからだ。多分、フリンジワークという男はすぐに行動を起こすだろうし、たとえそうでなくとも、俺が自由に動ける時間は残り少ない。すぐに監禁されてしまうさ」
「え?」
耳を疑う。
監禁される?
「そう不思議なことか?」
ジャックの顔を見て驚きを察知したのか、ヒーチは続ける。
「アインラードがシュガーを取り扱った証拠を出された時に、アインラード側がどう言い訳をするか、だ。おそらく、アインラードではなく俺が、客分のヒーチがやったことだとするだろう。俺がシュガーを扱う組織を乗っ取ろうと動いていた証拠も見つかるだろうからな、ちょうどいい」
何でもないことのようにヒーチが言うが、ジャックは全く納得ができない。
そんなことを、アインラードがするとは思えない。
「ちょっと待ってくださいよ。アインラードにしてみれば、サネスド帝国との優先的な交流は一級国家に返り咲く大チャンスなんですぜ。それを、あんたを監禁なんてしてぶち壊すとは思えませんよ。それをしたら、当面の危機は逃れても、後々に今度はサネスド帝国との戦争になりかねない」
「君は、コロコをどう思う?」
「ん、え?」
唐突に出てきた、予想外の人名にジャックは言葉に詰まる。
「中々の人物だ、あれは……チャンスがあれば見逃さない。どんな時代でも、どんな世界でも、ああいう人間は生き残る」
淡く笑いながらヒーチは言って、
「ともかく、俺はもう自由ではなくなる。どこまでがフリンジワークという人間の策なのかは分からないが、この件については奴を止めることは難しい」
「『瓦礫の王』の片腕、傑物って評判のヒーチも、戦わずしてフリンジワークに負けるってことですか」
挑発の意味も込めて、薄笑いしながらジャックは言う。
これで、奮起してくれれば。そう願いながら。
だが、
「そうだ」
ヒーチはあっさりと頷く。
「実際に対面していないが、おそらくフリンジワークは、俺が最も苦手とするタイプの男だ。今まで、俺が必死で関わらないように避けてきた人種だ」
その目にあるのは怯えや怒りではなく、嫌悪だ。
「もし、奴に抗うつもりなら、気を付けろ。奴の行動を予想するな。奴に勝とうとするな」
立ち上がったヒーチは、ゆっくりと後ろを向く。
「もう、いいぞ。悪かったな、待ってもらって」
その言葉に反応して、あばら家の隅、漏れた光の届かない闇から、ぬう、と人影が現れる。
ジャックは目を見張ってその人影を凝視する。片方の目が歪で、大柄だが肉のついていない若い男。
知っている。噂に聞いた『人食い将軍』のハヤブサだ。
「ヒーチ、悪いが来てもらう」
「ああ、分かっている。思ったより遅かったくらいだ」
そのままヒーチは軋む床を踏みしめながら、あばら家の出口へと進んでいく。
突然の展開に声もないジャックに、ハヤブサと共にあばら家を出ていこうとしていたヒーチは振り返り、
「マサヨシによろしく」
そう言って笑いかけて、消えていく。
後に残ったジャックは、黙って立ち尽くしていたが、しばらくするとヒーチの座っていた椅子に腰を下ろし、ゆっくりと肩を落とす。
「どうやら」
ため息。
「詰みだな」
自嘲、諦め、その他の自分でも分からない色々なものが混じった笑いが浮かんできて、ジャックはしばらく一人で椅子に座ったまま声を出さず笑い続ける。