静5
蝿が暗闇の中を飛び回っている。
その羽音でうるさくて、何も相手の声が聞こえないくらいだ。
「終わりの予感っていうのかな、ひしひしと感じていてさ」
「何の終わりだ?」
「全部だよ」
かび臭い地下室で、マサヨシは椅子にへばりつくように座っている。
「組織も乗っ取られつつあるし、トリョラも荒れていってる。それで、俺の残りも少ない」
「クスリの量も増えているようだ」
「ああ、終わる。で、妙に心地よくてさ。ようやく、平穏ってものが見えてきた気がするんだ」
羽音がうるさい。
目の前の、影の塊のようなそれにひたすらマサヨシは話しかける。
「それは?」
「そんなものはない。正解かな、と思って、父親に確かめたら、どうやら正解らしい」
「とんちみたいだ」
「いやいや、そういう言葉遊びじゃあない。本当に、平穏なんて『もの』はないんだよ。ただの、状態だ。それも、相対的な。波乱万丈な人生だろうと、どこかに平穏だった時はある。戦場にだって、平穏な時間はあるはずなんだ。だって、相対的なものだからね。酷い時があれば、それに比較して平穏な時もあるさ」
「そう言われると、まるで当然の話だ」
「そう、そうなんだよ。それなのに、俺はずっとそれを勘違いしていた。絶対的な平穏な生活ってものが、存在しているとばっかり思っていたんだ」
「何故だ?」
「こんな言い方したくないけど、環境だね。父親だよ。父親がかなり、まあ、変わっててさ。そんな父親と一緒に暮らして育ってきたから、てっきり、他の家庭、普通の家庭では、平穏な生活をしているものだとばかり思っていたんだ。それに憧れて、求めた」
「それが、違うと?」
「平穏な時はあるかもしれないけど、平穏じゃない時もあるだろうね、どんな家庭だろうと。どんな環境だろうと。平穏なばかりの人生なんてない。そんなものはないんだ。それぞれの人にそれぞれの人なりのドラマってやつがある。そうでしょ?」
「今更、それに気づいたのか」
「自分の馬鹿さ加減にうんざりするけど、その通りだよ。この町で、色々な、本当に色々な人に関わった。そいつらの人生を歪めて、命を奪って、利用して。ようやく、気づいたんだ。俺だけが妙な父親の元で、妙な人生をおくっていると思っていた。でも、誰の人生も妙なものだよ。誰も彼も、戦っている」
「だから?」
「結局、ないものを探してたんだ。諦めたら、急に楽になってさ。人生なんて山あり谷ありで、平坦な道なんてないんだって諦めたら、不思議なもんで、これが平穏かなって」
「よかったじゃあないか。もうすぐ終わるんだから、平穏に終わる」
「ああ、そうだね。終わりよければすべてよし、だ」
ずっと話し声がする。
死臭の漏れ出す地下室の鉄の扉、その先から話し声は途切れない。
その扉を、意を決してノックする。一度。二度。反応はない。
深呼吸をして、スヴァンは力を込めて、ノックをする。
「ああ、はい」
ようやく反応がある。
のそのそと動く気配がして、鉄の扉が開き、ぬるりと闇の中からマサヨシが出てくる。顔色は悪く、ひょっとして『青白い者達』なのではないかと疑わしくなるほどだ。
「ああ、村長」
意外そうに、マサヨシは目を丸くする。
「久しぶりじゃない」
「はは」
弱弱しく笑ってから、スヴァンは椅子に腰を下ろす。
元々老人ではあったが、少し見ないうちに、ずいぶんと歳をとったように見える。
「で、何の用?」
「いや……」
ちらりと、マサヨシの背後の鉄の扉に目をやり、
「色々と、大変そうじゃな」
「ああ、噂になってる?」
苦笑してから、マサヨシは懐から紙袋を取り出す。
「これの量も、どんどん増えてね」
濁った眼を見て、スヴァンは溜息を吐く。
「うちの村からも、そんな目をした奴が出たもんだ。そいつらは、一人残らず、必ず『青白い者達』に変わっていった」
「今、そいつらはいない。親切なエルフが根を断ってくれたからね」
紙袋を懐に戻して、マサヨシは一歩一歩扉から離れていく。
「で、俺の様子でも心配して見に来てくれたの?」
「そう暇でもない。ただ、そちらから来るかと思いきや、いつまで経ってもこないんでな。こっちから顔を出した」
「へえ」
スヴァンの前に立ち、机に腰かけてマサヨシは首を傾げる。
「何か、こっちから出向く用なんてあったっけ? 買付けとかは、ミサリナに任せてるじゃん」
「老人をからかうな。とっくの昔に気づいておるはずじゃろ。わしらが、チャモドキをあんたら以外にも卸していることを」
「ああ、その話」
マサヨシは視線をあちらこちらに向けながら、頷く。
「そりゃ、確かに知ってるよ」
「いずれ、殺されると思っておったわ。その時はわしの首を差し出して何とかしてもらおうと思っていた。じゃが、何も言ってこん。何故じゃ?」
「どうでもいいからだよ、そりゃ」
簡潔に答えてから、
「ただ、ちょっと興味はあるね。一体、どうしてその話に乗ったわけ? 後々俺達から報復があるって分かってたわけでしょ?」
「乗ってなどないわい。あんた達とはいい取引をしてきたし、ファンドとかいう方法を使って、村の発展にも寄与してくれた。チャモドキの栽培に依存せずとも村が生き延びることができるように力を入れてくれたことも分かっている。が、それでも、もっと高く買ってくれるところがでてきたら、甘い考えでそっちに飛びつく馬鹿もたくさんいるということだな」
「あんたの目を盗んで?」
「そうとも。そして、うちの村の連中は、結局そういう馬鹿の方が多い。だから、止めようがない。もう、諦めて、首を斬られようとしていたんだ。その代わり、村は残してもらおうと。村は今、発展している。生活に余裕ができて、ちゃんとした教育を民が受けられるようになれば、自然にそういう馬鹿は消える。そうなる礎として、この枯れ木のような首くらいなら差し出そうかと」
「村長の鑑だね」
多少おどけてマサヨシが言うと、
「本当は、ただ終わらせたくなっただけだ」
からっ風のような、聞くものをげんなりさせる咳をしてスヴァンは続ける。
「清算するには、ちょうどいい頃合いかと思った。どうせ、いつ迎えが来るか分からない歳だ」
「分かるよ、俺も同じ気分だから」
そうマサヨシが言うと、呆れ果てたのかスヴァンは眉を大きく寄せて、
「いい若いもんが、何を言っとるか」
「はっはっは……けど、お迎えが近いのは本当だよ。殺されるか、シュガーの過剰摂取かの違いくらいはあるだろうけどさ」
「だから、どうでもいいということか……なあ、マサヨシ」
急に、スヴァンの声が優しげなものになる。
「シュガーをやめろ。それから、全部捨てて逃げろ」
無言で、マサヨシは机から尻を離し、スヴァンを表情もなく見下ろす。
「罪はわしとか、適当な連中になすりつければいい。何故、それをせん? 生き延びる道は、ないわけではない。真っ当な人生をやり直すチャンスは、ある、絶対に。若いんだからのお」
「悪いけどさ」
微笑んだマサヨシが、胸に手を当てる。
「そういうチャンスを諦めたから、今、平穏なんだよ、俺の中はね」
言っても無駄だと分かっているが、スヴァンは結局口にしてしまった。
クスリをやめろと、全てを捨てて逃げ出せと。
真っ暗闇の帰り道、夜風に肩をすくめながら、スヴァンは歩く。
無駄なことをしてしまった後悔が心中にはある。
真っ当な人生をやり直すチャンスは、ある、か。
嘘ばかりだ。
確かに、あるのかもしれない。だが、それは現実的なものではない。
あの濁った眼。
思い出して、スヴァンは身震いする。
そういうチャンスを、自分から捨てる人間だけが、あんな眼をしているのだ。これまでの経験で、よく分かっている。
無論、自分が同じような眼をしていることも、知っている。
「はっはっは」
何か、無性に笑いたくなって、誰もいない夜道を歩きながら、笑う。
トリョラからトラッキ村への道は真っ暗で灯りひとつない。そこを一人で帰っているが、特に恐怖はない。無法者に襲われて殺されたなら、それはそれでいいと思っている。
とても愉快な気分になってきて、スヴァンは懐から酒の瓶を取り出して、それをちびちびとやりながら歩く。
空を見上げて、星と月に見惚れる。満月だ。
思い出す。
今までの日々を。どうやって、自分がマサヨシと同じように濁った眼をするようになったのかを。
それは一般的に言えば悲劇なのかもしれないが、当事者、今のスヴァンからすると喜劇にしか感じず、酒も手伝って思い出がとても愉快なものに思えてきて、へらへらと笑いながら、思い出しながら、スヴァンは歩く。
貧しい村で育った。希望などなかった。周囲の誰もそんなものを持っていなかった。
数年単位で変化していく支配者に、僅かな蓄えのほとんどを捧げる日々。外のことなど知らず、自分達が貧しいことすら知らずに父と母は擦り切れて死んでいった。
口減らしに一時的に村から離れて行商人の下で奴隷のように働かされていたスヴァンは、そんな父や母と同じ村の連中とはその点が違った。外の世界を知ったから、自分達の村がどれだけ貧しいのかを知った。
だから憎んだ。貧しい村と自分を。
村に戻ってからは、村への不平と不満を喚き続けて、チャンスがあればどんな卑劣なことでもして金を稼ごうとした。
それが、村の連中から、リーダーシップと勘違いされるとは思ってもみなかった。眼は日に日に濁っていった。いや、最初から濁っていたのかもしれない。
若くしてトラッキの村長となり、憎い村と自分を生き延びさせるために右往左往して、とうとうシュガーに関わることになった。
シュガーに関わり、『青白い者達』に関わることで村は潤っていく。
病にかかれば死ぬしかなかった村人達が医者にかかることができるようになった。
口減らしに子どもを追放したり、売り払ったり、そして殺したりする必要がなくなった。
村人達が、互いに、どうでもいいことを、世間話をする余裕すらできた。
自分がやったことに、スヴァンは罪悪感を覚えなかったわけではない。
しかし、村を何とかしようとした時に他に方法があるとは思えなかったし、何よりも。
罪悪感はスヴァンのものだけだ。
他の、関わっている村人達は誰も、自分達のやっていることが罪深いとは思っていない。何が罪かすら、知ることなく生きている。明確な善悪すら学ぶことなく、村でただただ生きているだけだ。
だから、悪行を為して地獄に行くのは自分だけだ。他の奴らは、地獄に行く資格すらない。それなら、村の全員が、村ごと地獄に落ちるまでは、ずっと続けてしまえ。
村と自分が惨めで憎くてたまらなかったからそう決心して、それを続けた。
「ははん」
視線を下ろし、酒瓶を掴んでいる自分の皺だらけの両手に向ける。
「思えば、遠くまできたもんだな」
一日中、痩せた土地の土をいじっていた父母の痩せた背中。行商人に引き取られる自分を見送る、父母を含めた村人達の感情のない砂のように乾いた目。村人総出で行った落ち武者狩りで、こちらを睨みつけながら絶命していく兵士達。
何もかもが懐かしい。振り返れば、あっという間だ。
酒のおかげで温かくなってきたスヴァンは、千鳥足で闇の中を歩いていく。




