静4
全体重を乗せた、かわされればそのまま地面に突っ込むかのような勢いで拳を振るう。拳は男の顎に命中して、そのまま男ごとスカイは壁にぶつかる。二人とも壁に激突して跳ね返り、地面に倒れる。
聖女の蛮行に、残る二人の男はたじろいでいる。その間に、スカイは両手両足を使い、四足獣のようになって体を起こす。
横には、さっきの攻撃で顎が砕けたらしい男が転がっている。
「くあぁ」
男二人を睨みあげて、スカイは口をあけて声を出すが、それは声というよりも獣の威嚇音のようだ。
そして、次の瞬間にはスカイは男二人に飛び掛っている。さっきと同様に、かわされることを考えていない突進と大差のない勢いで男の一人を殴りつける。吹き飛ぶ男。
だがさっきとは違い、スカイはもう片方の手の手首を残る一人の顔面にたたきつけて、ブレーキをかける。その男は吹き飛びはしないものの、その強烈な殴打に呻き声を上げて、たたらを踏む。
一瞬で姿勢を整えたスカイは、その顔を押さえて呻いている男に向かって、頭突きを繰り出す。
「ぐ」
鼻血を噴出して後ろに下がる男の後頭部が、壁に当たる。その男の顔面に、スカイはもう一撃、頭突きを入れる。
何かが潰れる音。男はもう呻き声すら出さない。その男に向かって、壁と自分の頭で挟むようにして、更に一撃頭突き。もう一撃。もう一撃。
ずちゃり、と粘着質な音と共に男が崩れ落ちる頃には、スカイのフードは脱げ、髪と顔の上半分はべっとりと血で染まっていた。
しばらく、その状態で倒れた三人の男達を見回してから、スカイは大きく息を吐く。
路地裏。そこで、三人の男と聖女が争いになって、あろうことか聖女が暴力で圧倒する結果になったことなど、一つ小道を挟んだ大通りの人々はしるよしもない。
布で血を拭い、その血を地面に投げ捨てると、フードをかぶり直し、スカイは大通りの人の流れに合流していく。
「こうするべきだった、最初から」
呟く。
それに、
「それはどうかなと思うわけ」
斜め後ろから声。
いつの間にか、スカイに並行して歩いている影がある。
「ああ、ひょっとして」
スカイは大して驚いた顔も見せずに、斜め後ろを歩いているその影を上から下まで、歩みを止めずにゆっくりと見まわしてから、
「ミサリナ?」
その若いダークエルフの女に、名前を確かめる。
「そう。スカイでしょ、そっちは? 初めまして、だっけ? 違うか、一度、会ったわけよね。その時はコイントスもいた」
「さあ?」
「まあ、いいわ。見てたけど、なかなか物凄いことするわね。びっくりして、興味が出てきたわけ」
「それで?」
「ちょっとお茶でもしない?」
ようやくスカイは足を止め、ミサリナをじっと見てから、
「いいけど、一つだけ、確認していい?」
「どうぞ」
「私は、お前達を殺したいほど憎んでいる。それでも、お茶がしたい?」
「だからこそ、よ」
にっこりと、邪気のまるでない笑顔を見せるミサリナ。
「だから、お茶をして、話をしたいわけ」
「それなら、しましょう」
そう言って喫茶店を探そうと周囲を見回しながら手で髪をかきあげようとして、スカイは自分の拳が酷く擦り剥けていることに気づく。全力で殴ってしまったからだ。
その傷を、スカイは舌で舐める。
落ち着いた照明の喫茶店、その奥まったテーブル席に、二人は向かい合って座る。
レッドソフィーの聖女とダークエルフという組み合わせはさすがに珍しいらしく、周囲の客がちらちらと二人の方を見る。
だが、スカイもミサリナも意に介すことなく、落ち着いてコーヒーを口に運ぶ。
スカイは一口飲んで顔をしかめてから、カップをテーブルに戻す時に、また傷を舌で舐める。
「無茶な喧嘩の仕方をするからそうなるわけよ。いや、喧嘩じゃなくて殺し合いか」
ミサリナはそんなスカイを見て微笑む。
「聖女としては当然だけど、あなた、そんなに喧嘩したことないでしょ? もう、見ていてひやひやしたわけ。勝っても、自分の体も壊れてしまうような、そんな喧嘩の仕方をしていたから。慣れていないんでしょ」
「そう。人を、全力で叩いたのは本当に久しぶり。聖女になってからは、久しくしていなかった。だけど」
真っ赤に擦り剥けた傷を眺めながら、
「これをしていればよかったと、今では思う。最初から、私が刺し違える覚悟で、マサヨシを殺せばよかった」
そうして、角砂糖をいくつもいくつも、自分のコーヒーに放り込む。まるで泥のようにコーヒーがどろどろになるまで、角砂糖を入れてはスプーンでかき混ぜる。
「でもね、あたしは思うんだけどさ」
ミサリナは何もいれず、コーヒーをもう一口飲む。
「そこまでして殺すほどの男じゃないわけよ、マサヨシは」
「庇うの?」
「庇うっていうかさ」
指で頭をかいてから、
「あれは、ただの小市民なわけよ。そう思わない? 多分、環境さえ普通なら、普通に生きて普通に死んでいったんだと思う。それが、巡り合わせが悪くて、ああなっちゃったっていうかさ。だから殺すなら、例えば」
ミサリナは親指で自分を指す。
「あたしとかさ」
「死にたい?」
「そういうわけじゃないけど、正直ね、この町がこうなっちゃってるのに、責任を感じてはいるのよね。だからって、何をするわけでもないけど。結局、あたしは儲かる方にしか動かない、動けないわけ」
苦笑して、ミサリナは続ける。
「ダ―クエルフだけど、別にそこまでつらい目に遭ったわけじゃあなくてさ、比較的普通に生まれたわけよ。でも、普通に生きていくのが嫌で、大金持ちになりたくてさ、そのためなら汚れ仕事だってしてやろうって思ってたわけ。そうしたら、こうなったの。思うにさ、きっとマサヨシがあたしの立場だったら、喜んで普通の暮らしをおくってたんじゃないかなって」
「だから許せと? くだらない」
吐き捨てるような口調のスカイ。
「そいつがどんなに卑小な存在だろうと、許せない悪であることに違いはない。いや、卑小な存在であればあるこそ、そういうくだらない人間にかぎって、救いようのない、最低の悪行を為す」
ようやく、角砂糖を投入するのを止めて、その半分固形物のようになっているコーヒーをすする。
「別に、許せって言っていないわけ。あたしは、たださ、そんな奴と刺し違える必要はないと、そう思っただけ。スカイ、あなたがもったいない」
微笑むミサリナは、そう話す。
「これを言うと、あなた、怒るかもしれないけどさ」
「何?」
「あいつ、マサヨシを救えるのって、あなたかハイジくらいの気がするわけ」
「ええ?」
ほとんどが溶けた砂糖で構成されているコーヒーを一口飲み下し、スカイは眉をひそめ酷く不愉快な顔をする。
「どうして、あたしが?」
「あなたやハイジみたいに、圧倒的に正しくて、圧倒的に『異常』な人間にしか、あいつは変えられないし救えない。そんな気がするわけ」
どろどろのスカイのコーヒーを少し怯えた目で見ながらミサリナは自分のコーヒーをもう一口喉に通す。
「あたしとかじゃダメよ。儲けたい、とか、普通の感覚だから。あいつは、そういういわゆる普通の小市民の、弱いところや悪いところを全部寄せ集めた塊なわけ。同類が何をやったって変えられないからさ」
「ミサリナ」
不意に、それまで不機嫌だったスカイが、目だけで笑う。だが、三日月形になった目はむしろ剣呑さを増して光る。
「私が、正しいと?」
「違うの?」
くすくすと、耐え切れないように肩を揺らして、どろどろのコーヒーを混ぜながらスカイが笑う。
「ハロー、シャンバラ、サネスド、それからレッドソフィー。多くの信徒を抱える神々は、信徒に形のある加護を与えることはほとんどない。何万という信徒のうちの誰かに肩入れするなんて神がするはずがない。大いなる神々にとっては、人間の世界の大きな動きはともかく、一人一人の人間なんて塵芥と同じだから」
けれど、とスカイは続ける。
「ごく稀に、はっきりと分かる形で加護を受ける人間もいる。歴史を変えた英雄や多くの民を救った勇者、一生を善行に捧げた聖人。そういった者達は、神々の目に留まり、稀には加護を受けることもある。教会の聖女の中でも、歴史上、数人はレッドソフィーの加護を受けたという記録がある。だけど、いい? 絶対に、絶対に私はレッドソフィーの加護を受けることはない」
「どうして?」
「慈愛の精神など、私は持ち合わせていないから。私は確かに聖女として活動し、レッドソフィーの精神を広く民に伝えて、人々を救うために人生を捧げている。だけど、それは愛じゃない」
きりきりと音すら立てて、スカイの両目が吊り上っていく。
「憎しみからよ。少女を攫おうとしてたゴミ三人を刺し違えるつもりで殴りつけていた、あの姿が私の本質」
「あいつらがゴミだっていうのは同感なわけ。あなたが出なかったら、あたしが始末しようと思っていたから」
ミサリナは腰の短剣をとん、と叩いて、
「ゴミを殺す勢いで殴りつけたからって、あなたが憎しみに支配されているなんて思わないけど?」
「今話しているのは、本質の話よ、ミサリナ。私は、地獄を見た。それ以来、憎しみで自分を、それから世界に蔓延るクズどもを殺し尽くしたい。だから、聖女になった。悪が憎いから善を為している。死んでしまいたいから自己犠牲をいとわない生き方に憧れた。元々は聖騎士になるつもりだったけれど、聖騎士は女人禁制だから、仕方なく聖女になった。その私が正しいと?」
教会のもつ正式な武力であり、神の代行者としての聖騎士。それは未だに、スカイの中では憧れだ。善のために戦って、死ぬ。それだけの在り方。
「そう、か」
そこで、ミサリナは目を見開き、スカイのコーヒーを見つめる。泥沼のようなそのカップの中身を。
「その飲み方と、褐色の肌。ひょっとして、あなた、エルダの出身?」
今はもうない、滅びた小国の名を、どろどろの半分以上が砂糖のコーヒーを飲む習慣のあった国の名をミサリナが挙げる。
「ええ」
また一口、スカイはコーヒーをすする。故郷の味を確かめるように。
「アルバコーネの内戦で滅んだあの国の出身。私はあそこで色々なものを見たし、見た以上は戻れない。自分と世界が憎くてたまらない。その中でもどうしても許せないのは、戦場で何の罪もない女子どもを犠牲にするクズよ」
歯ぎしり。
「マサヨシのような」
喉の奥から、怨嗟混じりの声。
ミサリナは、黙ってコーヒーを口に運んで、
「お替り、もらおうかな」
空になったカップを置き、手を挙げて給仕を呼ぶ。
「あなたは?」
「もらう。ああ、砂糖もなくなったから、砂糖も一緒に」
歯を食いしばり、目を吊り上げたままで、それでもとても楽しそうに笑って、スカイは空にしたカップをかかげる。
すぐにコーヒー、それから容器に入った角砂糖が運ばれてくる。
二杯目のコーヒーに、角砂糖を次々と融かしていくスカイはミサリナを睨み笑うのを止めない。
「このローブの下、私の体がどうなっているのか見せてやりたいわ」
スカイの瞳孔が開いている。
「傷だらけだったりするわけ?」
嫌そうに眉をひそめて二杯目のコーヒーを口にするミサリナ。
「まあ、そうね。色々と、おもちゃにされたから。この傷が、疼くのよ。クズを眼にする度に。だから、鏡も見ることができない」
「スカイ……」
何かを言おうとして、結局ミサリナは黙る。
「笑いながらナイフを頬に当てられて、怯えて親兄弟や幼馴染を売った人間の気持ちなんてお前には分からないだろう? そうまでして命乞いをしても、結局おもちゃにされて、嬲られて、穴が足りないからって体中に切り込みを入れられた人間の気持ちは?」
しばらくの沈黙の後、
「あたしは思うのよ、スカイ」
微笑んで、ミサリナは言う。
「この世には地獄に落ちた方がいい連中が山ほどいて、あなたがそいつらを道連れに死んでやろうとするのを止める気はない。でも、やっぱり、マサヨシは違う。そんなことに使ったら、あなたの命がもったいないわよ。どうせ、もうすぐ死ぬし」
「確かに、先は長くなさそうね」
「マサヨシだけじゃあない」
「え?」
「マサヨシが潰れたら、別の人間が組織を乗っ取って、邪魔な人間は粛清される、多分ね」
「お前に利用価値はまだある。違う?」
「代わりは、いくらでもいるわ。あたし程度なら、いくらでも。ジャックも、誰も彼も」
そこで、スカイは目の鋭さを緩める。
目の前のミサリナの微笑み、そもそもどうして自分をお茶に誘ったのか、自分を殺せばいいという発言、その全てがどこから来たのものなのか、ようやく見当がついたからだ。
今のミサリナにあるのは、諦めだ。
「これでも、ガキの頃から商売をしてるから、それに関する勘には自信があるわけ。どうもね、商売が潰れて、乗っ取られて、全部終わっていく気配がしてきてね。手を出した商売が商売だから、ただ商売が駄目になるだけじゃ、済まないだろうと思うわけ」
「天国行きのキップでも欲しくて、慈善精神に目覚めたわけ?」
「あたしにも、よく分からない」
くすくすと笑いながら、ミサリナはカップを空にする。