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静3

 だだっ広い机の上には、酒瓶と、白い粉の残滓がついている紙が散らばっている。


 いつかは意識が完全に消えてなくなるものだと思っているけれど、まだ自分の意識は確固として存在している。今のところは。

 それが喜ぶべきことか悲しむべきかどうかも分からない。


 マサヨシは指で机の上の酒瓶を転がして弄ぶ。


「ハイジは、どうだったかな」


 呟く声は、自分のものには思えない。


 裏の仕事用に、トリョラにいくつか構えた、地下の穴倉の中の部屋の一つ。そこでマサヨシはずっと椅子に座っている。

 座って、薬と酒に溺れている。


 副区長の執務机に最後に座ったのがいつかも思い出せない。

 さっき、ふと思ったのは、ハイジと一体いつ連絡をとったのかということだ。副区長としての仕事をしたのがいつのことだったのか、記憶が混濁している。


 暇つぶしのつもりで、記憶を遡ろうとするが、うまくいかない。

 頭をかきむしる。

 クーンを打ち倒して、奴の組織を完全に乗っ取るまでは、二束のわらじを履いていた。それは確かだ。ファンドによるマネーロンダリングが不可欠だったから、それに関連した仕事もやっていた。

 だが、すぐに必要がなくなっていった。組織はあっという間に、マサヨシの意思とは無関係に膨れ上がっていき、最初に作った仕組みどおりに、その金と暴力で支配する人間を増やしていった。副区長としての権力や資金洗浄による誤魔化しをする必要すらなくなるほどに多くの人間の弱みを握り、組織が巨大なものになるまで、驚くほど時間はかからなかった。


 いや、本当は、自分を守るためにはまだ副区長という立場や資金洗浄は必要だったのかもしれない。だが、結局のところ、その頃からあまりそういうものに興味が持てなくなってしまった。興味を持つ能力を失ったと言った方がいいか。つまり、酒と薬が蝕んでいった。ただそれだけのことだ。


 どうでもいい。


 そう言えば、今日はどうしてこの部屋にいたんだったか。部下も持たずに。

 何かを、待っていたという気がするが。


 それもまた、どうでもいい。

 震える手で、机の引き出しから新しくシュガーの入った紙包みを取り出して、机の上に置く。ゆっくりと紙包みをほどいて、ゆっくりとその中の白い粉に顔を近づけたところで、


「見るたびに、死体じみていくな、マサヨシ」


 声。

 顔を上げると、扉が開かれていて、そこに一人、自分とは正反対な生気に満ち溢れた青年が立っている。傷と、黒い目と髪。


「ヒーチ」


 ヒーチは、二人で会う時には自分の目や髪を隠すことをしなくなっている。黒いジャケット、黒いスラックス。服装はマサヨシのものとほとんど同じだが、中に着ているのは黒いワイシャツだ。


「名前で呼ぶな。二人きりなんだ。父さん、でいい」


 満面の笑みを浮かべながらヒーチが近づいてくる。相変わらず、笑みが威嚇の意味を持っている男だな、とどこか他人事のように思う。

 肉食獣が牙をむき出しに口を限界まで開くとまるで笑っているように見えないこともないが、それと似た印象を受ける。


「ああ、そっか。そうだった。受け渡しの日だったね」


「まさか、それも覚えてなかったのか?」


 眉をひそめ、テーブルに散らばった紙包みをヒーチは目で数えながら、


「おい、商品に手を出してないだろうな」


「それは多分、だいじょう……ほら、あった」


 机の下から鞄を取り出し、ヒーチに放り投げる。


「よし、じゃあ、そっちも確認してくれ」


 ヒーチからも鞄を投げ渡される。


 受け取って、マサヨシは鞄の中身をざっと見る。使い古してある紙幣の束と、金貨。ざっと見ただけでもう確認は止めて、鞄を机の下にどっかと置く。


「数えないのか?」


 鞄の中身、シュガーを一つ一つ調べながら、ヒーチは言う。


「ああ、俺は、いいよ」


「興味の喪失か。いい感じだな」


 何故か嬉しそうな父の姿にマサヨシも力なく笑いを返して、ぼうと虚空を見上げる。


「それ、アインラードで捌くんでしょ」


 質問と独り言の中間のような言葉を何となく発すると、


「ああ。元々、先の分裂を防ぐための資金源としてシャロン側がシュガーをばら撒いていたから、下地がある。販売網を敷くのは簡単だった」


 忙しくシュガーを確認しながらも、ヒーチは律儀に返事をする。


「やはり、薬が一番手っ取り早いな。額や発展性を考えると他に効率のいいものはあるが、元金も基盤もない状況から手っ取り早く金を作るには薬を取り扱うに勝るものはない」


「そうやって作った金使って、俺の組織を取り込んでいってるんでしょ」


「分かっているなら、どうして俺とまだ取引を続ける?」


「どうでもいいからさ。それに、ほら、父さんがしなくても、フリンジワークが取り込んでいくしね」


「確かに、それはそうだ」


 確認が終わったらしく、ヒーチは鞄を傍らに置く。


「ロンボウ内は俺がシュガーをばら撒いて、アインラードは父さんがばら撒いて。エリピア大陸中が、クスリに汚染される日も近いね。どうでもいいけど」


 そこで、宙を揺れていた視線が、ゆらゆらと動きながらヒーチに向かっていく。


「父さん?」


「ん?」


「こんな質問するのもなんだけどさ」


 かさかさに乾いた唇を舌で舐める。


「ああ」


「父親として、どう?」


「どうとは?」


「自分の息子が、こんな感じになってるのをさ。クスリと酒に溺れてて、常に意識朦朧としているじゃん」


「それについての感想か? そうだな、父親としては、息子の夢が叶っているようで何よりだ」


「夢? ああ」


 頭をかきむしり、マサヨシは油気のない、ぱさついた髪の毛が手に二、三本まとわりついたのを眺める。


「平穏に暮らしたいって奴?」


「そうだ。平穏というのは、状況ではなく心情の問題だという話は前にしたか? まあ、いい。とにかく、戦場だろうと心安らかならそいつは平穏の中にいるし、金や物に満ち溢れていても平穏とは程遠い心持ちの奴もいる。今のお前は、限りになく平穏に近いだろう?」


「そう、かな?」


「そうとも。どうでもいい、と言っていたじゃないか。平穏の本質はそれだ。興味を失うことだ。喜怒哀楽、どんな形であれ、何かに興味を持ってしまえば、そこにそれなりに強い感情が生まれる。平穏とは正反対だ。喜んだり、欲したり、悲しんだり、憎んだり。全て、平穏のためには、静かに生きていくためには不要だ」


 マサヨシの前の机に腰掛け、上半身だけ捻って振り向くようにしてヒーチは語りかける。


「だからシュガーと酒に溺れて、何もかもどうでもよくなっているお前を見るのは、微笑ましいよ。ようやく夢が叶ったんだ。ただ、問題はな、マサヨシ。それは夢だということだ。叶ったとしても、夢はいつか醒める。お前の夢が醒めた時」


 ヒーチの指が、とん、とマサヨシの額の中心を小突く。


「それが地獄の始まりだ。いや、再開か。お前は地獄から逃げ出して、そこにいるんだからな」


「地獄は始まったり終わったりするものじゃあない。逃げられるものでもない」


 マサヨシの言葉に、ヒーチは目を丸くする。


「言うじゃあないか。なら、何だ?」


「地獄なんてない。そんなものは、どこにも」


 マサヨシは縋るように、ヒーチを見上げる。


「教えてくれよ、父さん。平穏なんてものも、本当はないんだろ?」


 目を三日月にして、目だけでヒーチは笑って、


「お前を勘当して正解だった。多少は、マトモな人間に近づいてきたな」


 机から尻を上げると、鞄を拾って肩にかける。そのまま、あとは挨拶すらせずに去っていく。

 残されたマサヨシは、ヒーチの残像を見るように、ずっと机の向かい側を見て、何も考えずに静止している。





 傷をなぞり、指が赤く染まった目に辿り着いてから、そのままドラッヘは頬杖をつく。

 アインラード王城の客室の一つ、今やヒーチの部屋と化したその豪奢な部屋で、背と足に金細工のついた椅子に座り、『赤目』と呼ばれている歴戦の兵士は、ひたすらに暇を潰している。


「すまないすまない」


 足早に部屋の主、ヒーチが飛び込んでくる。扉を閉めると同時に、纏っていたローブを脱ぎ捨てる。

 髪と目、黒尽くめの服装、そして傷だらけの顔が露になる。

 ドラッヘに驚きはない。既に何度も、その素顔を見ているからだ。


「商談が長引いてな。まあ、その商談で手に入る金は君の金でもある。勘弁してくれ」


 その商談というのが、シュガーに関するものだとはドラッヘも察しがついている。


「なあ、ヒーチ」


「うん?」


「そうやって、安くない金で、俺を引き抜いて、一体どうするつもりだ? はっきり言って、戦争以外に能がないんだ、俺は。おかげでハンクが死んだ後は片身が狭くてな、お前の誘いは渡りに船だったわけだが。ひょっとして、戦争でも起こすつもりか?」


「まさか。俺にとって戦争は始めるものじゃあない。終わらせるものだ。あの内戦のように」


「アルバコーネか。俺を雇ったのは、『瓦礫の王』の指示か?」


「もちろん」


 部屋の隅のベッドにどっかと腰を下ろし、ヒーチは指を組む。


「ドラッヘ、君がいなければもっとあの内戦は長引いていたと、これは『瓦礫の王』が言っていたことだ。君の能力を高く評価している。だから、雇ったんだ。俺は戦争なんて始めたくない。始めたくないが、最近キナ臭くなってきているのは、君も感じているだろう」


「まあな。ただ、その理由の一つはあんた自身だぜ、ヒーチ」


「否定はしない。ともかく、戦争が始まったら、終わらせなければいけない。転ばぬ先の杖だ。ドラッヘ、君が万が一のための備えだ」


「何だか、今日、機嫌が良さそうだな」


「ああ、そうか?」


 シャツの一番上のボタンを外して、


「昨日、息子と話をした」


「息子?」


 ヒーチを上から下まで見て、ドラッヘは首を傾げる。

 当然だろう。どう見ても、話ができる年齢の息子がいるようには見えない。


「息子って、いくつだ?」


「同い年くらいだ。しかし、まあ、親が望む方向だろうとそうじゃなかろうと、子というのは育つものだ。ちょっと前まで、存在すらしていなかったのにな」


 リラックスした様子で首を回し、ヒーチはベッドに寝転がる。


「父親をするというのも難しい。ドラッヘ、君は息子はいるのか?」


「いない。一応結婚はしてたけど、うちのは内戦で死んじまったしなあ」


「そうか。俺は、父親としては失敗した口だ。子に対して、どう接すればいいのか分からなくて、随分とじたばたしたもんだ」


 天井を見上げたまま、笑いながらそう話すヒーチに、ドラッヘは椅子に座ったままでその椅子ごと向く。


「中々、面白い男だな、ヒーチ」


「よく言われる。人に好かれやすいんだ、俺は。子育ては失敗したが」

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