ハイジ2
「このお店です」
馬車に乗って城から数十分、降りてからハイジに案内されてマサヨシは町中を進み、とうとうそこに辿り着く。
トリョラなのは確かだが、それにしては静かだ。と言っても、人がいないわけではなく、雰囲気はハイロウに近いように感じる。人通りがないわけではないが、少なくとも多くはない。
それに、細々とした露店も少なく、道路もそれほど狭くない。全体的に清潔感がある。喧騒からは遠く、静かだ。地面に敷かれた石畳も、落ち着いた色合いで目に優しい。
そこにある、小さな二階建ての店。中を外から覗けば、レストランにも酒場にも見える。木造で小奇麗だが、生活感がまるでない。
「これが、例の店ですか」
馬車の中で受けた説明では、この店が3000ゴールドで手に入るということだった。
だが、マサヨシには信じられない。
こちらの物価を調べた限り、ちゃんとした店がそんな値段で手に入るわけがない。
「ここはトリョラの再開発地区です」
「再開発?」
「残念ながら、トリョラに現在住まれている方々のほとんどは籍を持っていません。住んでいる場所も出している店も、全て違法なものです。とはいえ、それを全て取り締まっては最早トリョラは成立しません。そこで十年以上前、私の前々任者が一部の区画だけ取締りを強化し、不法移民や違法な店などを徹底的に排除したのです。その代わり、開いた場所を籍のあるちゃんとした住民に格安で売り渡す。そうして、きちんとした町としてこの地区を開発し直そうという計画があった場所です」
「あまり、効果がなかったのかな」
明らかにトリョラの中心部と比べたら活気のない町並みをマサヨシが見回す。
「結局、人が入らなかったわけです。籍を持とうという住民があまりいなかったのが原因です。それは今でも変わりません。トリョラの住民のほとんどは、縛られることを嫌います。自由に生きたいのです、国からも」
不意に、ハイジが痛みに耐えるように眉を寄せる。それは一瞬で、すぐに生真面目な表情に戻る。
「この店は、そのままずっと空いているので、今では格安で国が売りに出しているわけです。どうですか、ここで酒場を開いては。元が酒場なので、設備はそのまま使えます」
「酒場経営か」
経験はないし自信もないが、自分の店を持って悠々自適に生活するというのには惹かれる。
うまい話には注意しろと自分に言い聞かせながらも、マサヨシの心は揺れる。
「成功すると思います?」
「しますよ、間違いなく」
ハイジは断言する。
「実は、トリョラにはきちんとした店舗を構えた酒場というのはほとんどありません。経営許可もなければ土地の権利書もない酒場がほとんどですから、露店だったり、通常のアパートメントの一室でこっそりとお酒を提供していたり。全く褒められることではありませんが。ともかく、王都にあるような、落ち着いてお酒を飲める場所というのがトリョラでは圧倒的に不足しています。お酒が好きな住民は多いですから、需要は多いはずです」
「妙だな」
交渉の基本その7。
うまい話であればあるほど、小さな疑問点にこだわれ。
「そんな状況なら、この店を人が放っておくはずがない。籍を持っている人はこぞってここで酒場を経営するでしょ。いや、王都とか他の町からトリョラに来て酒場を開いたっておかしくない」
「そのことですか」
だが、それに関してもハイジは完璧な説明を行う。
「この再開発地区は、籍を持たない住民の皆様がきちんとしたトリョラの住民となることを奨励し、ノライの町として正しい発展をしてもらうためのものです。ですから、法律でトリョラの住民以外がこの地区の土地や店を買うことは禁止されています。それから、二店舗以上を経営することも禁止されています。あくまでも一人でも多くの方が正式なトリョラ住民になっていただくための地区ですから」
「なるほど」
疑問はあっさり解消された。この話は聞けば聞くほど魅力的だ。
だが。
「けど、完全な資金不足だよ」
結局、そこでマサヨシは諦める。
「資金不足? このお店は3000ゴールドですよ?」
「いや、店だけ買えばいいってものじゃないでしょ。改装をしないにしても、酒を仕入れるお金とか、要するに店を経営するために回すお金がいるから。俺の財布は、この店を買えば空っぽになるんだ」
「そのことなら心配ありません。借りればいいんです」
「借りる?」
「ええ。いいですか、マサヨシ。あなたはこれからきちんと籍を持ったトリョラの住民になります。そして、店を持つ。その状況なら、店を担保にすれば金融業者もお金を貸してくれるはずです」
「うーん」
なるほど。
けれど、借金にはやはりマサヨシは抵抗がある。平穏な生活からは遠ざかる気がする。
「ご心配なら、私の知り合いの業者を紹介します。トリョラ城とは付き合いの深い金融業者ですから、私の紹介なら悪いようにはしないはずです。どうです?」
「ちょっと、考えさせてもらっていいですかね」
「もちろん」
どうするか?
マサヨシは道の真ん中で、自分の店になるかもしれない建物の屋根を睨みながら考える。赤く塗られた屋根が太陽の光を反射している。
いい話のようだ。この店は、二階が住居になっている。どうやら、家の心配もせずに済みそうだ。とにかく、ハイジの言葉を信じるなら、とてつもない幸運が、自分の目の前にあるようだ。行けば平穏で悠々自適な生活が約束されているような道が、そこにある。
だが、賭けだ。何があるかは分からない。どうするべきか。
そこで、ふとマサヨシはミサリナとの旅を思う。
考えれば、あちらの方がよほどリスキーだった。こちらは、失敗しても死ぬことはないだろう。それに、ハイジが嘘をつくとも思えない。彼女が心配ないというなら、心配ないのかもしれない。
結局のところ、人生は話が巡ってきたタイミングでのるかそるかの二択だ。そして、これはどうもそこまで分の悪くないギャンブルらしい。
よし。
マサヨシは決心する。
自分の提案を受け入れてくれたマサヨシと一緒に馬車に乗り込むハイジの内心は高揚している。
久しぶりに、自分の行動が空回りせずにちゃんと民のためになっているという実感を得ることができて、自然に頬も上気する。
馬車の中で、ハイジは彼女にしては珍しく、自らの家柄やノライの歴史、政治についてマサヨシに熱を込めて話す。それは、半分は記憶を失っているマサヨシを気遣ってのものだが、もう半分は興奮状態のため意識せずとも口が動いてしまうからだ。
嬉しい。
民のために仕事をしている。これほど嬉しいことはない。
熱に浮かされたように、ハイジは上機嫌で喋り続ける。
小国であるノライでは、遥か昔に封建制は崩壊している。分け与えるには国土が狭すぎたのだ。今では騎士官僚制となっている。貴族は騎士に任命され、官僚となる。ノライの国土は区に分けられ、更にそれぞれの町に分けられている。それぞれを管理する貴族はいるが、それは区や町がそれらの貴族のものであることを意味しない。
あくまでも、国の命令で管理しているだけの役人なのだ。
ゴールドムーン家は遥か昔、元々は弱小貴族だった。だが、封建制が崩壊する際に起きた戦乱でいち早く王家につき、国に治めていた土地を返上、土地を支配することのない国に仕える騎士としての立場を明確にした。その時から、ゴールドムーン家は王家にとって特別な意味を持つようになり、それは現在も変わっていない。
高級官僚を輩出し続けたゴールドムーン家は、ノライの王都シュネブの中央にて強大な権力を誇っている。そしてその巨大な力は、ゴールドムーン家の中の誇り、自分達が王家第一の騎士であるという誇りに繋がっている。
だから、ハイジにとっても騎士であることは生まれた時から特別なことだ。国の為に戦い、民を守る。その騎士のあり方が、全てであると言っていい。
悪徳の町として有名だったトリョラの城主として志願したのも、そのためだ。悪徳に惑わされてしまっている民を正しく導き、悪漢から彼らを守るために命を賭ける。それはまさに、騎士であるゴールドムーン家が、その令嬢である自分が為すべきことだと信じていた。
理想は現実の前に砕け散る。
誰もが、自分を世間知らずのお嬢様と嘲笑い、自分の理想を夢物語と呆れている。それをハイジは知っている。
知ってなお、理想が砕けてなお、自分を変えることができなかった。少しずつでも、自分の思うようにトリョラという町が変わってくれる。そう信じ続けることしかできなかった。事実、少しずつではあるが、ちゃんとしたトリョラの住民になりたいという人々は増えている。マサヨシを紹介したミサリナだってその一人だ。
そして、今、マサヨシという男がまたトリョラの正規の住民となることを望み、しかも自分の提案に乗り気でいてくれる。感謝をしてくれる。
こんなに嬉しいことはない。
久しぶりの、騎士としての実感、城主としての実感に浸り、ハイジの胸は高鳴る。