静1
座り込んだまま、へらへらと笑う、ほとんど布のような服を纏った少女の痩せ細った腕を取る。
ぐい、と腕を引っ張り上げられても、その頬のこけた少女は意に介さない。なすがままにされている。
ジャックはその二の腕のあたりが青黒く染まっているのを確認する。指の腹で触ると、その部分は固く変質している。
ため息をついて、入り口を振り返る。
むりやりにこの部屋に押し入るためにさっきジャックが殴り倒した無法者は、まだそこの床に倒れたままで呻いている。
その男の傍まで歩いて戻る。
ジャックがいなくなったというのに、まだ手をずっと伸ばしたまま、少女は虚空を見上げてへらへらと笑っている。
倒れている、がたいのいい男に馬乗りになると、ジャックは手の甲で顔をはたく。
「おい、あんた、うちじゃあ、これはご法度だって分かってるんだろ」
「くそ」
男は、憎々しくジャックを見上げてくる。
「未成年の女を商売に使うのも、無理矢理薬漬けにするのも、マサヨシは許可していない。分かっているんだろ」
答えず、男は唾を吐く。
唾がジャックの毛皮に付着するが、ジャックは特に表情を動かすことはない。
「ふざけやがって。この町を、こんなにしたお前らが許可だと? ふざけやがって」
また唾を吐こうとする男に、ジャックは無表情で拳を振り下ろす。
血しぶきがジャックの毛先を染める。
「女使って金稼いでるのも、クスリ扱ってるのもてめえらだろうが。それが、任侠気取りか?」
鼻と口から血を流しながら、男が叫ぶ。
また、ジャックは拳を振り下ろす。
男の顔が潰れる。
「ねえ」
不意に、全く我関せずで虚空を見上げていた少女が、声を出す。多少、焦点は合ってないものの、ジャックの方に顔を向けて、呼びかけている。
もう一撃、振り下ろそうとしていた拳を止めて、ジャックは少女を向く。
「この芋虫って、何になるの? 蝶? 蛾? それとも、蛙?」
小首を傾げた拍子に、少女のかさついた唇の間から涎がたらりと零れる。
また、顔を半分潰れた男に戻し、拳を振り下ろす。
「ぐぶっ」
くぐもった悲鳴を上げながらも、捨て鉢になった男の叫びは止まらない。
「俺が何もしなくたって、あそこのガキは体を売ったし、クスリにも自分から嵌ったよ。俺は少し、早めただけだっ」
血と折れた歯と唾を撒き散らしながら、男は言葉を吐き続ける。
「全部、お前らだ。体を売らすのも、クスリを渡すのもお前らだろうが! 俺と、お前らと、何が違うってんだ、くそがあっ」
男の絶叫と同時に、ジャックの全力の拳が振り下ろされ、男の顔が弾けて潰れる。そうして、ようやく男は静かになった。
ずるり、と拳を引き上げると、血を主とした体液が糸を引く。
「分かっているよ、同類だ」
顔の潰れた男に向かって、呟く。
「だから許せないんだ、お前を」
安アパートの二階の部屋を出て、一階に降りると、そこで待っていた数人の部下に向けて頷く。その合図で部下達はすれ違うようにして二階に上がり、部屋に入っていく。
「ああ」
動かない部下がいる、と訝しげに見ていたジャックは、それが部下ではなく顔見知りの人物であることに気付く。
「お前か」
「どうも」
アルベルトは軽く会釈すると、アパートから離れていくジャックに並んで歩く。
「一応、俺の今日の仕事は表だ。治安を守るって建前でルール違反者を制裁して回ってる。裏のお前と会うのはまずいんじゃないか?」
「もう、裏も表も混ざってきてるでしょうに」
それもそうか、とすぐにジャックは納得する。
夕焼けの町を、二人で並んで歩く。
町には活気が溢れている。大きな店が連なり、行商人がひっきりなしに行き来している。町を行く人の身なりを見るだけでも、通行人の誰もがロンボウの平均水準以上の暮らしをしていることがひとめで分かる。
「最初はあった境界が、ぐずぐずに壊れつつある。急激に組織を拡大させたのも原因ですけど、一番の理由はトップがああなってるからでしょうね」
「はん」
鼻で笑い、ジャックは狐の耳をかく。
「アル中で薬中の人間についていく馬鹿はいない」
「組織、というよりもう組織の体をなしていないが、いくつも派閥が出来上がっているし、それをマサヨシは全く把握していない。ジャックさん、あんた、その気になれば最大派閥の長になれる。いや、組織のトップになれる」
前を向いて歩いたまま、独り言のようにアルベルトが言うと、ジャックは顔を歪ませる。
「俺が、トップに立ちたいとでも思ってるのか?」
「欲のためではなく、この町のためですよ。この後どうなるかは分かりませんが、どうなるにしろあんたがトップになるよりは悪くなる。違いますか?」
「本当にそう思うか? 俺がトップに立った方がマシだと、本当に思ってるのか?」
ジャックが足を止める。
アルベルトもつられて止める。
「アルベルト。俺にその才はない」
「才が全てじゃあないでしょう。現に、あんたが才を見込んだマサヨシはああなってしまった」
いつしか、二人は睨み合っている。
その剣呑な雰囲気に、通行人の流れは二人を割けるようになる。
「アルベルト、お前は何がしたい? この町を救いたいとでも言うつもりか?」
「まさか。俺はただ」
そっと、アルベルトは自分の顔の傷を撫でる。
「マサヨシにできるだけ苦しんで欲しいだけです。今度こそ、本当にあんたに裏切られたら、マサヨシは苦しむ」
「多分、それを苦痛に思うような感情は、残ってないさ」
ふっと、ジャックは視線を外して寂しげに息を吐きながら全身の力を抜いていく。
「それに、お前も気付いているんだろう、アルベルト? 組織は、外から切り崩されつつある。虎と竜が両側から食っていってるよ」
また、歩き出してジャックは背中越しに手をひらひらと揺らしてみせる。
「じゃあ、俺は帰る。久々に家に帰れるんでな、姉さんの苦手なサネスド料理でも久々に食うとするさ」
「指は治りました?」
背中にアルベルトが問いかけると、
「おかげさんでな」
正直なところ、ジャックは憂鬱だった。家に帰ってサネスド料理を食べることがではなく、自分が真っ当に町のために仕事をしていると信じている姉からのねぎらいの言葉を聞くことが、だ。
だからこそ、帰らなければいけないと感じている。憂鬱に感じると分かっているからこそ、それを受けなければ。
まるで被虐趣味だな、と自嘲しながら、ジャックは自分の長く伸びた影を踏み潰して歩く。