プロローグ
げらげらと、腹を抱えて笑う。涎をこぼし、呼吸が困難になるまで、笑い続ける。
薄暗い、鉄とカビの匂いの充満する地下室。その壁や床のレンガが揺れるくらいに、笑い続ける。
「何がそんなにおかしい?」
向かいに座っているクーンが問いかける。
マサヨシは、笑いすぎてにじんだ涙を指で拭いながら、まずは呼吸を整える。
「はあっ、ははっ、いやあ、ふふっ」
まだ笑いが込み上げそうになって、マサヨシは大きく深呼吸する。
「知らせを受けてさ、面白い知らせを。ふふ、フリンジワークの客分だったエルフが、大貴族数人を殺害して逃亡だってさ」
「それは大変だ」
ごつごつとした影の塊のようになっているクーンは、微動だにせずに言う。
「で、どこが面白い?」
「大貴族っていうのは多分ノライの元王達だし、エルフってのはザイードのことだよ。『青白い者達』をとうとう殺してしまったんだ」
蠅でもとんでいるのか、ぶううん、と小さな、しかし耳障りな音がまとわりつく。
「ほう? そうなれば、ノライ派の連中が騒ぎそうなものじゃあないか。ロンボウによる支配を快く思っていない連中は、特に」
「そう。だけど、裏に情報が流れる程度で表沙汰になっていない。ノライ派の連中も警戒してるんじゃないかな。それで騒ぎ立てれば『青白い者達』の話をフリンジワークにぶちまけられるんじゃないかってね。証拠がないと抗弁することにはなるけど、どちらにしろそこまでいけば後戻りはできない。大喧嘩が始まる。だから、黙ってるんだよ」
「痛い腹をさぐられたくはないわけか」
蠅の羽音が、うるさい。手を振って蠅を追い払いながら、マサヨシは身を乗り出して答える。
「お互いにね。フリンジワークも、証拠のない今の時点で『青白い者達』の件を公にするつもりはないから、動きを封じられたんだよ。ふふ、傑作だな。ザイードを使って、『青白い者達』の黒幕がノライの王だと暴こうとしたんだろうけど、フリンジワークも、欲をかきすぎた」
「というと?」
「つまりさ、あの『青白い者達』のネタで完璧にノライを支配してやろうと思っていて、計画を綿密かつ慎重に進め過ぎたのさ。おかげで、ザイードが痺れを切らした。彼にとっては、俺に騙されて時間稼ぎをさせられて、更にフリンジワークに待たされて、だからね、そりゃあ仕方がない」
「結局、何が愉快なのかな?」
乾いた声。黒い影から、風の音のように聞こえる声。
「俺を利用しようとして、殺そうとしたフリンジワークが、次に利用しようとしたエルフにも煮え湯を飲まされる。いやあ、愉快じゃない?」
返事はない。
「大体さ、俺は調子に乗っている奴が嫌いなんだよね。フリンジワークの奴、一目見ただけで分かったけど、あいつ自分が強いと確信して自信に満ちているタイプでさ、いやあ、いい薬だよ、こうなったのも」
返事はない。
「もうそろそろ、あいつが国王になりそうなんでしょ? だったら、俺も身の振り方を考えないといけな」
「マサヨシさん」
後ろからの声に、マサヨシの語りは中断させられる。
椅子からしりを浮かせてまで懸命に喋っていたマサヨシは、のろのろと後ろを向く。鉄製のドア、その向こうからアルベルトが声を出している。ドアは開いていない。誰もそのドアは開かない。
きっと、気味が悪いのだろう。
「そろそろ、お時間です」
「ああ」
涎を手で拭い、
「もうそんな時間か。分かった、行くよ」
一気に疲れ果てたように椅子に深く座り込み、息を吐く。
「それから」
一度、声が途切れる。その沈黙からは、アルベルトが言葉に迷っている様がありありと目に浮かぶ。
「そろそろ、『それ』を片付けた方がいいと思いますよ。死んでから半年、ずっとそこにある。もうミイラ化しているでしょう」
「そう言わないでよ」
笑みを消し、マサヨシはよろよろと立ち上がると、自分の正面に座っていた『それ』を撫でる。
「貴重な、話し相手なんだ」
そうして鉄の扉を開けて、顔を出すとそこにいたアルベルトに改めて笑いかける。
困ったような笑顔を受けて、アルベルトは目を合わせることなく、
「俺じゃあ、話し相手にはなりませんか?」
「え?」
不意を突かれて、ぽかんと口を開けるマサヨシに、
「いえ、何でもありません」
そう言ってから、足早にアルベルトはその場を去る。
残されたマサヨシは、一人呆然と立っていたが、やがてにやにやと笑いだす。
「ふふん、まったく」
一度、扉を閉めて元の場所まで戻ると、傍らの『それ』を見下ろし、
「甘い連中ばかりだよ、ねえ、クーン」
返事はない。
地上に出て、その日差しにアルベルトは目を細める。
手をかざして日の光を遮り、顔をしかめると顔の傷がひくひくと蠢くのを感じる。
あれはもう駄目だ。
アルベルトはそう思う。
クーンを決定的に打ち負かしてから一年足らずで、マサヨシは組織を乗っ取り、拡大し、支配圏を広げていった。裏でも表でも、その力を強くしていった。
だが、実際にはそれは砂上の楼閣に過ぎない。
命拾いをしたとはいえ、ロンボウで大きな影響力を持つフリンジワークと敵対していることに違いはない。ガダラ商会のクーン派残党も存在しているだろう。レッドソフィー教会にとってマサヨシは依然として敵であるし、アインラードの真実を知る者達は未だにマサヨシを怨んでいるだろう。
いくら力をつけようと、多くの者を支配しようと、マサヨシは綱渡りを続けなくてはいけない。いや、いけないはずだった。
だがもはや、アルベルトの見るところ、綱渡りすらできそうにもない。
酒と薬に溺れるリーダーについていく者などいない。既に見限るものが出てきつつある。そして最悪なのは、マサヨシ自身がそれをよしとしているとすら見えるところだ。
要するに、マサヨシの小規模な帝国は、誕生と同時に崩壊を始めている。そしてその帝国は、マサヨシの命を守る最後の防波堤でもあるのだ。
苦しみ、堕ちて、惨めに死んでいく。
それはアルベルトがマサヨシに望む姿でもある。
だというのに、何故。
「ちっ」
舌打ち。
ついさっき、自分がマサヨシにかけた言葉が理解できず、アルベルトは無意味にただただイラつく。
いずれにしろ、マサヨシの全ては奪われつつある。恐るべきことに、それは穏やかに進みつつある。それは、奪う者が優れているがゆえにだ。真に優れている者は、争いを起こしていずれ奪って自分のものになる資産の価値が減っていくことを避ける。
そう、優れている。マサヨシよりも、余程。彼らに比べれば、マサヨシは哀れでか弱い存在にしか過ぎない。
今、彼の帝国を切り崩し、奪いつつある怪物は二人。
一人はフリンジワーク。そして、もう一人は。
不意に、アルベルトは自分の意志とは関係なく背筋を震わせる。
あの男について考える時、どうしてもアルベルトは寒気を覚えてしまう。
一度だけ、会ったことがある。
その時に、こちらを覗き込むような眼、そしてかけられた、簡潔だが、こちらの臓腑をえぐるような言葉。
息苦しさを覚えて、アルベルトは歩きながら周囲を見回す。
戦争の傷跡が薄れつつあり、表面上は賑やかに、以前の、いや以前以上の活気を取り戻しつつあるトリョラ。
だが、この町は、この区は、クスリで汚染され、犯罪の温床となり、もはや政争の道具に成り果てている。
この場所を中心とした利権を握ったものがパワーゲームの上位に立てる。そのための場所になりつつある。
そう、フリンジワークとヒーチのゲームの舞台に過ぎず、アルベルトもマサヨシも、そのゲームのための駒にしか過ぎない。
助けを求めるように、思わずアルベルトは空を見上げるが、神はおらず、空と太陽だけがある。雲はない。
異様なほどに青い空が、まるで上から全てを押しつぶそうとしているようだ。