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瓦礫の王3

 水が欲しい。

 頭の片隅で、ジャックはそう思う。一度そう思ってしまうと、それがずっと離れない。喉が張り付いてしまっているようだ。息苦しい。乾いている。

 水が欲しい。


「ああ、苦しまないように一撃で殺すというのは無しだよ」


 どこか、別の世界から聞こえてくるように現実感のないクーンの声。


「弱く、軽く、殴り続けるとか、いいかな。とにかく、苦しめて殺してくれ」


 喋っているクーンの方を向かず、ぼんやりとマサヨシはジャックを見上げている。表情は乏しく、沼のような瞳からも感情は読み取れない。


「彼から、命乞いを聞きたい。いや、命乞いよりも恨み言の方が好みかな。クライブもそうだった。殺してやると僕に叫んでいるんだ。これから自分が殺されるのに、目を真っ赤に染めて、殺してやると絶叫する。最高だろう?」


 クーンを無視して、ジャックは前に出る。床にもたれて見上げてきているマサヨシの前に立つ。口の中はからからで、頭痛までしてくる。

 だがそれでも、拳を握りしめる。


「許してくれとは」


 発した声はしわがれていて、自分の声とは思えなかった。


「許してくれとはいいませんぜ」


 拳を振り下ろす。

 マサヨシの頬に命中して、マサヨシは衝撃で体をふらつかせる。


 そして、ゆっくりとまた、ジャックを見上げる。


「無駄に喚いてくれ、マサヨシ。『生まれてきたことを後悔させてやる』とか『死ぬよりつらい目にあわせてやる』とか叫んでくれ。聞きたいんだ」


 機嫌のいいクーンは語り続ける。


「そういう、実現しようのない大言壮語を吐いてみてくれ。叶わない夢を語る姿を見るのが、好きなんだ。滑稽でね。それで、僕が怯えるとでも思っているのかな。弱者の行動はいつも微笑ましい。大好きだよ」


 背中でそれを聞きながら、ジャックは全身の毛が逆立つのを感じる。

 声の調子で分かる。これは、クーンの本心だ。奴は心の底から、そう思っている。自らが嬲り殺す相手の呪詛、憎しみの言葉を、滑稽だと感じ、楽しんでいる。

 心の構造が、まるきり違う。

 だがそれでも彼に従うしかない。自分の為にも、トリョラの為にも。あらゆる意味での力を、彼が持っている限り。


 今度は、逆の方の拳でマサヨシを殴りつける。力を入れず、軽く。

 それでも、今のマサヨシにはそれなりのダメージがあるらしく、それだけで体勢が崩れる。


 ゆっくりと元の体勢に戻り、そして何も言わずにマサヨシはただ、またジャックを見上げる。


「弱いというのは、惨めだろう? 人脈を含めて、全ての総計としての力が、僕の方が勝っていた。それが、君がそこで殴られていて、僕がここで眺めている理由の全てだ。全ての力は、より力を持っている者に流れていく。金も、権力も、暴力も、それから」


 もう一撃、クーンの話を必死で意識の外に置いて、ジャックは殴りつける。


「人脈も。仲間も全て失ったな、マサヨシ。信頼を裏切られた。つらいかい?」


「俺は」


 その時、ようやくマサヨシが口を開く。

 目は、相変わらずジャックを見上げている。


「ジャック、お前を信頼していた」


 心臓を突き刺されたような感覚に、ジャックの動きが思わず止まる。だがそれも一瞬。次の瞬間には、もう一度拳を振り下ろす。


 だが、殴られても、すぐに顔を戻して、マサヨシは続ける。


「昔、聞いた言葉がある。善人のほとんどは、試練を受けていないだけだって。今なら、何となく分かる」


 見上げるマサヨシの顔には、何の表情もない。怒りも、悲しみも。


「罪を犯してない人間は善人だが、そいつらの一体、何人が極限状態でも罪を犯さないでいれる? そういう試練を潜り抜けてなおも善人である人間は、一体全体の何割程度なんだ? そう、最近は思う。あの戦争を生き延びてからは、特に」


 血が混じった唾を吐いて、マサヨシは言う。


「戦争では、誰もが罪を犯す。俺ほどロクでもないことをしないまでもね。そして、そんな自分に言い訳をする。仕方がなかったんだと。誰もがそうだよ」


「マサヨシさん」


 いつしか、ジャックは殴る手を止め、名を呟いている。


「ああ、例外がいたか。ハイジだ。ハイジの奴は善人というより聖人だ。あいつには、元々悪を為すって選択肢が存在しないんだ。自分にとっての善しか行わない。あくまで自分にとっての、だけど。だからさ、俺の知っている範囲では、本当の意味での善人ってのは一人しか知らない。ジャック、お前だけだ」


「俺は、善人なんかじゃないですよ」


 血。

 いつの間にか力いっぱい食いしばっていたジャックの牙が口のどこかを傷つけたらしく、血が一筋流れる。


「お前は良いことも悪いことも知っていて、それであの戦争みたいな極限状態を何度も経験してきた。それでも、なお、常にできる範囲で善を為そうとしてきたし、仕方なく手を汚す時にも悔やんでいた。俺がスヴァンのクスリの流通を黙認する時には怒っていた。酷い光景を何度も見てきて、それでもいわゆる倫理って奴を見失わず、できることなら善人でいようとしてきた。俺の今まで出会った人間の中で、間違いなく一番の善人だよ」


「そんなことを言って」


 乾いた、他人のもののような声を出して、ジャックは拳を振り上げる。


「俺が、止めるとでも思ってるんですか?」


 無意識に、力を込めて殴っている。

 マサヨシは床に倒れこむ。


「おいおい、それじゃあ、ペースが速過ぎるよ」


 背中からクーンの声。だが、もうそんなことを気にしている場合ではない。

 ジャックは、自分の呼吸が荒くなっていることに気づいている。まるで全力で戦った後のように、肩で息をしている。胸が苦しい。


「ジャック」


 よろよろと、マサヨシは上半身を起こし、壁に体重を預けてから、また見上げる。


「俺は、お前を信頼してたんだ。自分とは全然違うお前を。お前なら、どんな状況でも、正しい、善良な選択をすると信頼していた」


 マサヨシの目じりから血が流れおちて、それがまるで涙のように見える。


「お前のことが、好きだった」


「俺も、好きでしたよ」


 無意識にジャックは答える。


「あんたは大した目的意識もなく、ただ生き延びるためだけに必死だった。俺が守りたいと思っているトリョラの連中と一緒の、ぼんやりとした倫理観と、それとは逆の生存本能で動いているだけの人間だった。ただ、そのために強くなろうとして、どこまでも強くなろうとし続けて、結果としてぼろぼろに成り果てていくところだけが他の連中と違っていた。俺はね、マサヨシさん、あんたがずっと、町の子ども達よりも弱弱しく見えていた」


 だから、いくら力が強くなろうとも、悪を為そうとも、憎めなかった。


「でも、それもこれで終わりです。俺はあんたの信頼を裏切る。それだけのことです。俺は、善人なんかじゃなかった。普通の男だったんですよ」


「そうだ。ジャック、お前は普通の男だったし、俺の信頼を裏切った」


 そうして、マサヨシは片腕を上げて、信じられないことに、笑う。口の両端を吊り上げて。


「だから、嬉しいんだよ。俺の信頼を裏切ってくれて」


 絶叫。後ろからだ。

 反射的に振り返ったジャックはわが目を疑う。


 クーンを囲んでいる男が五人。そのうちの二人が、他の三人に後ろから殴り、あるいは斬り殺されていた。


 そして男二人が倒れるのとほぼ同時に、残った三人の男はクーンの両肩を押さえつけると、一人がひざ裏を蹴りつけて強制的に跪かせる。


 クーンは、ただ、ぽかん、としている。

 何が起こっているのか分からないのだろう、ジャックと同じく。


「ああ、痛い痛い」


 声に顔を戻すと、よろよろとマサヨシが立ち上がっている。

 頭を触り、それから振って、顔をしかめている。


「ねえ、酒ある?」


 その声に、男の一人が懐から透明の液体の入った瓶をマサヨシに渡す。渡し方も、まるで王に献上物を渡すかのように恭しいものだ。


 受け取ったそれの蓋を開けると、マサヨシは頭から中身を被る。

 辺りに立ち込める酒の匂い。

 蒸留酒が、マサヨシの血を洗い流している。

 それから、マサヨシは酒を口に含むと、うがいをしてから床に吐き出す。数回それをして、吐き出す酒が真っ赤に染まらなくなってから、ようやくマサヨシはうがいを止めて、今度は瓶に口をつけて酒をラッパ飲みする。


「くそ、まだぼんやりするな」


 ふるふると頭を振ったマサヨシは、男に向かって、


「あれ、ちょうだい」


「いや、しかし」


「大丈夫だって」


 呆然としているジャックとクーンを尻目に、男が躊躇いながら紙包みをマサヨシに渡す。


 空になった瓶を投げ捨てて、マサヨシはその紙包みを開く。中には、白い粉。


 シュガーだ、と理屈よりも直感的にジャックは分かる。


 マサヨシはその粉を手の甲にさらさらと落としてから、鼻から一気にそれを吸う。


「ああ」


 びくり、と一度だけ痙攣した後、マサヨシは停止する。そして、しばらく中を見上げる姿勢でいてから、ゆっくりと大きく瞬きをする。ばちり、ばちりと。

 両目が零れ落ちそうなまでに大きく見開いてのその瞬きの合間に、瞳孔が開いたり収縮したりを繰り返している。

 血の気を失って青白かった肌が、より一層白くなったように見える。


「ようやく、頭がすっきりとした」


 呟いて、マサヨシはゆらりと体ごとジャックに向く。


「マサヨシ、さん。あんた」


「本当に、嬉しいんだよ、ジャック。俺の信頼を裏切ってくれて。おかげで、お前を殺さずに済む」


 ひくひくと全身を痙攣させるようして笑ってから、今度はマサヨシは体をクーンに向ける。


「これは、どういうことかな?」


 さすがというべきか、クーンは既に落ち着きを取り戻し、跪かさせれている状況にも関わらず、尊大さすら感じる態度で言い放つ。


「どういうこと? クーン、ああ、ガダラ商会のクーンともあろう人間が、どういうことか分からないのか?」


「ああ、まったくね。この三人が僕を裏切って君についたということくらいは分かるが」


 クーンは自分を取り押さえている三人を汚物を見るような目で見まわしてから、


「その選択に未来はないことも分からないとは、馬鹿者共め。そこまで馬鹿とはな」


 吐き捨ててから、目をマサヨシに戻す。


「ジャックも本当に驚いているようだ。一体、どういうことだ、マサヨシ? 手品か? ああ、確かにちょっとびっくりした。だが、それだけだ」


 そう言って、クーンはドアの方に顔を向ける。


「この三人を手下にしたからといって、状況が変わるとでも? このドアの先には僕の部下が山ほどいるし、ここは僕のアジトだ。僕を追い詰めたとでも思っているのかい? 違う、追い詰められているのは、君だ、変わらずね」


「おいおい、本気なの?」


 大げさに肩をすくめて、マサヨシは笑い出す。だが、目は笑っていない。沼のような目のままだ。


「この状況が分かっていないじゃない、クーン。さっき自分で言っていただろう、力は、より力を持っている方に流れるってさ。ここの三人が今、そうやってるのは、その結果だよ」


 男の一人から渡された布で、マサヨシは顔を拭う。

 そして、血と酒がとれた顔で、ジャックの横を通り過ぎ、クーンの前で身をかがめて顔を目と鼻の先まで近づける。

 裂けんばかりに笑みが大きくなる。


「クーン、俺が『瓦礫の王』だよ」

前話の問題の正解です。


正解は、①主人公が「好き」と告白する。

    ②主人公がクスリをキメる。

でした。

当たりましたか?

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