それぞれの思惑
例の酒造所が完成する前から、既に職人を集めて酒造り自体は行っていたと聞いている。実際、あの酒造所が完成するまで酒造りをストップしていたら、仕事がなくて元々酒の密造をしていた連中は干上がってしまうだろう。完全に出来上がる前から、マサヨシは人を集めて、酒造所のテストも兼ねてずっと酒を作り続けていた。
とはいうものの、今、目の前にあるものが、あの酒造所が完成して、最初の酒であることに違いはない。
そう考えると、今までのものと中身は一緒だろうに、何かありがたいものに思えて、ジャックはゆっくりと味わうようにしてそれを喉に通す。
「普通だな」
向かいに座って一気にグラスを空にしたコロコは、それだけ言う。
「おい、こっちの感慨を無視するなよ」
文句を言うジャックに、
「冗談だ。こいつは、なかなかのもんだよ。質は悪くない。あんたらの区長のふざけた提案を、ここまで現実味のあるものにするとはなあ。いや、実際、クーンが気に入るはずだ。マサヨシって男は、少なくとも諦めが悪いのは確かだ」
笑うコロコは、透明の酒瓶を掴みあげて、それを通してランプの光を見るようにする。
「今頃、ようやく葬儀が終わって解放されるくらいだな」
「コロコ」
ふと、ジャックは表情を消す。
フィオナの寝静まった、ジャックの家、その片隅。辺りは静かで、物音一つしない。
まるで、世界に自分とコロコだけのようだと、少しだけ思う。
「クーンの噂は聞いている。なあ、マサヨシさんを、どうするつもりなんだ?」
「クーンが? 俺が知るかよ。ただ」
酔った様子のないコロコは、目を落とす。
「残念だが、いつまでも仲良く、なんてことはない。クーンは、マサヨシを配下にしようと思っているはずだ。自分に従わせようと」
「別に、それ自体は構わない。問題は」
姉の寝ている方向に目をやり、その壁の向こうの姉に一瞬思いを馳せながら、
「それがトリョラにとっていい方向に働くかってことだ」
「クーンはそんなことに興味はないさ。もうすぐ、例の港が完成する。それがトリョラに富をもたらすことは、確かだが、言えるのはそれだけだ」
「奴は何に興味がある?」
「決まっているだろ」
コロコが顔を上げる。浮かんでいるのは、憐憫。
「豚だよ」
慈愛に満ちた表情で、餌を貪り食う豚の群れを眺めているクーン。
「失礼いたします」
部下の声にも、振り向きもしない。
そして、近づいてきた部下が耳打ちする。
「そうか」
豚を眺めたままで、クーンは呟く。
「潮時だな」
頭からお湯を浴びて、一息つく。
安宿の共通浴場。明け方に他の客の姿はない。
少し手の甲の傷に染みて、アルベルトは僅かに顔をしかめ、指で傷を撫でる。
あそこまで殴る必要はなかったか。
だが、ああいう日の当たる道しか歩いてこなかった手合いこそ、油断してはいけないことをアルベルトはこれまでの経験で学んでいる。
口で脅しても、結局、現実感がないのだ。彼らはそれまで、そんなものとは無縁の生活をおくってきたから。だから、何とかなると思って、数日経つとその時の恐怖を忘れて、ついつい脅しを無視してしまうことがある。
それを防ぐためには、暴力で思い知らせるしかない。刻んでやるのだ。忘れないように、痛みと傷を。
アルベルトは拳を作る。
「傷か」
呟いて、アルベルトの目は拳から自分の腹に移る。
深い傷跡。背中まで貫通している。荒っぽく縫われた後が、はっきりと残っている。暗い目が一瞬だけ、感情の色を見せる。だがそれも一瞬。すぐに、泥水のような暗い目に戻る。
「耳を削いでやるよ、マサヨシ」
かすれた声で、アルベルトは宣言してから、また頭からお湯を被る。
豪奢な作りの椅子。
部屋は朝だというのに暗い。全ての窓が厚手のカーテンでさえぎられているからだ。
だから、椅子に腰かけている人物の姿も、胸から上ははっきりと見えない。人影だ。カーテンの隙間から漏れる光で、椅子の豪華さと胸から下だけが浮かび上がっている。
「椅子以外は、大使館としては粗末すぎるな」
ぼやく声は、少年のものだ。
「文句を言わないでくれる?」
答えるのは、部屋の片隅、唯一カーテンのかかっていない小窓からの光に照らせれて壁にもたれている、赤い髪と唇の少女。
シャロンだ。服は葬儀の時のものと同じだが、ブーケはもう被っていない。赤い髪を露にし、その紙が光を受けて燃えるように輝く。
「ここは大使館じゃあない。我が国が持っている部屋の一つ、というだけ。椅子は上等なものを急いで手配したんだから、それで我慢して」
「大使を、大使館でもないこんな部屋に監禁するのか?」
「あなたを大使だとは認めていない」
いったん言葉を切り、
「今のところは」
「まあ、いい。俺の話が正しいことが分かれば、俺の重要性も確かなものになる。アインラードにとって、俺は最重要人物になるさ」
しばらくの沈黙。
そして、ためらいがちにシャロンが口を開く。
「ヒーチ。あなたは、本当に……」
「ああ。『瓦礫の王』の使いだ。そして、あんたは一定の信憑性を認めた。だから俺をこんな場所に囲い、葬儀が終わってから寝る間も惜しんですぐに戻ってきて俺に会っている。そうだろう?」
声は少年だというのに、その口調は落ち着いている。どこか達観した響きすらある。
「あなたが言う通り、『ペテン師』から提案された。ヒーチ、本当にあなたの言った通りに。まるで、予言」
「予言じゃない。予想だ。俺が『ペテン師』でも、そうする。だから逆に、しない可能性もあったんだが。俺と『ペテン師』は似ているということだ」
楽しそうに笑う。
何人もの職人が所狭しと動き回り、巨大な器具が音を立てて動いている。
本格的な稼動を始めた酒造所の内部、その動きを、ぼんやりと生気のない目でマサヨシは眺めている。隅に置いてある椅子、そこにもたれるようにして座って、ただただ内部の動きを全体として見ている。
葬儀から戻って、少しだけ眠っただけだ。寝不足で頭がぼんやりとしている。薄く膜が張っているような意識の中で、目は無意識にその酒造所の中を向き、心中ではまったく別のことを考えている。考えているというより、とりとめもなく連想を続けている。
シャロン。奴とまた会ったのは、吉兆か凶兆か。フリンジワークと奴のせいでリズムが崩された。結局、ハイジとも会話できなかったか。だが、それはいい。
考えなければ。相手の意図を。フリンジワークは、どうして俺に話しかけた? シャロンを使ってまで。
眠い。
だが、考えなければ。あまり時間はない。感触としては、もうすぐ捜査は黒幕に辿り着く。シュガーの黒幕に。『青白い者達』の黒幕に。
黒幕をどうやって明らかにするか、は最早問題ではない。明らかにする手段、そしてそこからどうするかを決めなくてはいけない。フリンジワークは一体、何を望んでいる?
シャロンはアインラード分裂の危機を救った。自らを旗印にして。だが、そのための多大の資金をシュガーの密輸によって購っている。これも、捜査の過程で見つけたことだ。
だが、問題は。
「ああ……」
口の端からよだれが零れる。
気付かないうちに、眠っていたようだ。意識がとんでいた。
自分がどこまで考えていたのか分からずに、頭を振って落ち着こうとする。
「マサヨシ」
声をかけられ、マサヨシはよろよろと顔を上げる。
コロコが、そこにいる。
「ああ、どうした? クーンから、何か?」
「いや、ちょっといいか」
「ああ、もちろん」
挨拶をしてから、酒造所を出て、周囲に人がいないのを確認してから、歩きながら話をする。
「それで?」
「ああ」
コロコが懐から取り出したのは、それなりの大きさの紙の包み。それをほどくと中から出てくるのはローストチキンだ。コロコがかぶりつく。大きくかぶりついて食いちぎると、そのローストチキンの中には香草が詰めれているのが見える。
「港の話だが」
「はいはい、あれが?」
「何か、聞いているか?」
もう一口かぶりつき、骨をしゃぶるコロコ。
「何かって?」
「あの港は、ぶっちゃけた話、密輸に使ってこそ価値が出る。そうだろう? そこに旨味があるわけだ。ガダラ商会も、お前も」
「もちろん」
いつの間にか、ローストチキンを見ていたコロコの目が、丸く見開かれてマサヨシを向いている。反応を窺っている。
やがて、口が開かれる。
「何も、聞いていないんだな」
その言葉に、マサヨシは返さない。
何が言いたいのか?
本当にその何かを俺が知っているかどうかを知りたいのか?
それとも、こうやって煽って俺を動かしたいのか?
瞬時に頭にいくつかの疑問が過ぎるが、うまく答えが出ない。なるべく反応をしないように決めて、ただ黙る。
「邪魔をしたな」
コロコが足早に去っていく。
その背中を見送りながら、マサヨシはそれでもしばらく表情を殺してただ立ち尽くす。
「ようやく会えた」
豪奢な、フリンジワークの私室。
酩酊したフリンジワークの据わった目が、目の前に立つ、ようやく呼び出しに応じたエルフを見る。
「初めまして、ザイード」
冷たい目をしたエルフは、無表情で彼を見つめ返す。