表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

70/202

シュガー1

 精霊暦854年。6月。初夏。


 アインラードとノライとの戦争から数年。ようやく、ノライの戦争の傷跡は薄れつつある。もっとも、ノライは既にないが。ともかく、傷跡は少しずつ消えていきつつある。

 その象徴の最たるものは、国境近くで戦争の影響を真正面から受けたトリョラ、その復興だろう。いや、復興というよりも、発展と言った方がいいかもしれない。


 色々とわずらわしいことはあれど、そんなことを思い、そのトリョラを有するトリョラ区の長であるハイジは誇らしく思う。

 今、この瞬間だけは他のことを忘れようと決める。

 自分の胸の奥にある倦怠、戦争の時から疼く仄暗い炎。その全てを。


 彼女の目の前にあるのは、トリョラの郊外に出来上がった巨大な建造物だ。

 新しく、清潔で、機能的。といっても、その機能がどのようなものかはハイジには想像もできない。それでも、建造物の外に備え付けられた巨大な木製の樽や、煙突が、この建造物が住居などではなく何らかの機能を持っているものだと思わせる。


「これは凄い」


 ハイジの横や後ろで中に入る前から感嘆の声をあげている役人達も、同じようなものだろう。彼らも、その巨大さや威容、そして漠然と想像される機能性に対して感心しているだけだ。


「どうも」


 やがて、その建造物の扉から一人の黒いジャケット姿の男が出てくる。やつれた顔と体。多種多様な種族がいるトリョラでも見ることのない黒い髪と瞳。

 副区長のマサヨシだ。


 年々憔悴の度合いが酷くなって見えるマサヨシは、乾いた笑みを貼り付けて、ハイジ達の前に歩いてくる。


「どうです、これ。中々のもんでしょう。これほどの酒造所はシュネブにも中々ないって、職人の皆さんのお墨付きですよ」


「ええ、本当に素晴らしいです。よく、これ程のものを作り上げてくれました」


「俺は何も。ただ、責任者って肩書きがあるだけです。金はあなたが、物の調達はミサリナが、人集めはジャックがやってくれましたから。俺のファンドからもそれなりに出資しましたけどね」


 乾いた笑みはそのままに、マサヨシの目はシュネブの方を向く。


「向こうから一流の職人や設計士を呼んだりとか、それくらいでしょ、俺のやったことは」


「それが素晴らしいのです。そう、資金があっても、いいものができるとは限りません。コスト以上のものを、あなたは作ってくれました」


「にしてもこれは、いくらなんでも大きすぎじゃないかね」


 ハイジの横にいた、いつもマサヨシのすることに対してねちねちと文句を言う役人の一人が口を出す。


「使える金は全部使って、規模を大きくしました。そうじゃないと、これを作ったそもそもの目的が達成できませんから」


 気を悪くする様子もなくそう答えるマサヨシに、ハイジは大きく頷く。


 そう、雇用だ。

 酒造りに多くの住人を雇う。仕事を創り出すことこそがこの事業の第一義だ。だから、なるべく巨大な方が当然にいい。


「そろそろ、インフラ整備で仕事増やすのも終わりつつありますしね」


 また、マサヨシの独特の表現が出る。とはいえ、何度も会議でこの種の発言をハイジ達は耳にしているので、大体の意味は分かる。マサヨシがファンドで資金を集め行っていた道を作ったり整備したりで人を雇う、というのは、もう限界だということだ。


「これで多くの人々を雇えます。最初は未熟でも、職人達の指導の下、全員がプロになってくれますよ。そして、この町は悪徳の都から、酒造りの町へと変貌する。そうでしょう?」


 マサヨシの言葉に、文句をつけた役人は黙るしかない。彼の発言はハイジの普段からの主張そのものだからだ。


 だが、ハイジの心には忘れかけていた厄介ごとが蘇る。「悪徳の都」という表現のためだ。それを押し殺し、ハイジは笑みを浮かべ、


「では、中の案内をお願いします」


「ええ」


 そして、マサヨシの案内で一団は内部に入る。内部も清潔で、広大で、そして様々な設備で満ち満ちている。

 内部に入ってからは、主にはマサヨシではなくて中で待っていた雇われた職人の一人であろう男が案内役となる。

 気のいい中年男、といったその職人が設備の説明をしている間に、ハイジはマサヨシの傍まで寄る。


「副区長」


「はい?」


「例の調査は、どうなりましたか?」


 一大プロジェクトである造酒所、その完成祝いの場にはあまりにも相応しくない話題のため、ハイジは声を潜める。


「ああ」


 おざなりに張り付いていた乾いた笑みがマサヨシの顔から消える。


「多分、ハイジが予想しているよりも遥かに広がってるね」


 二人きりの会話として、マサヨシは敬語を使わずに話す。


「トリョラ区に蔓延しているのは当然として、近場のハイロウはもちろんシュネブ、それだけでなくてロンボウまで、て言っても今は俺達もロンボウだから、旧ノライの外の地域までって説明した方がいいね。そして、国外にも、だ」


「国外?」


 予想していなかった言葉に愕然とハイジは目を見開く。


「アインラードだ。向こうにも、こっち由来のブツが入り込んでいるらしい」


「もはや、猶予はありません」


 軽く目を閉じ、ハイジは自分自身に言い聞かせるように言うと、ゆっくり目を開く。


「返り血を浴びる覚悟でやらなければ。もう、秘密裏に対応する段階ではありません。私が指揮を執り、調査を行います」


 そのハイジを、マサヨシは奇妙に無表情で、景色を眺めるかのように、ただ、見ている。





「まずいですな」


 ジャックの家。

 相変わらずのサネスド料理をつつきながらハイジの言葉を報告すると、ジャックは簡潔に感想を述べる。


「区長が指揮を執るとなると、まずい」


 鍋の真っ赤な汁をすくい、顔をしかめながらジャックは続ける。


「どうして? 能無しなんだろ、その区長は」


 がつがつと凄まじい勢いで激辛の鍋を平らげていくのはコロコ。ジャックの家に招かれたのは数度目になるが、最初の頃はその細身の体からは考えられない健啖ぶりにフィオナは驚愕し、またとても喜んでいた。自分の食事を沢山楽しんで食べてくれる人間がまた一人増えたからだろう。


「あいつは能無しじゃない。ただ、向き不向きがあるだけだよ。そして、あの仕事はハイジ向きだ。全力で、最短距離で、一直線に、あいつは他の全てをぶち壊してでも、シュガーを根絶しようとする」


 マサヨシは唐辛子塗れの魚を口に放り込む。


 フィオナは料理を出した後、買い物に出かけている。遠慮なく、後ろ暗い話し合いができるということだ。


「実際、それは困る。長い時間をかけて、少しずつ、本当に少しずつだけど俺達は『青白い者達』に迫りつつある。それは、ジャックも感じてるわけでしょ?」


「確かに、距離は縮まりつつありますな」


「なのに、ここであいつがシュガー根絶に動いたら、全部ぶち壊しだ。聖女も怒るぞ」


「クーンもな」


 コロコが笑う。


「分かってるよ」


 シュガーの件をクーンが知っていたことは驚くにはあたらなかったが、まさかコロコを通じて全面的な協力を申し出てくるとはマサヨシも思わなかった。

 だが、これも彼にしてみれば投資の一環なのだろう。


「けど、ハイジが焦るのも分かる。シュガーが蔓延しすぎているよね」


「ですな。元々の『青白い者達』の筋だけでなく、別のルートからも流れているのが大問題です」


 言うまでもなく、『瓦礫の王』を名乗る者のルートだ。


「とはいえ、『青白い者達』のルートをそのまま残しながら『瓦礫の王』のルートだけ潰すなんて不可能だ。我慢するしかないね」


「とりあえず、その区長の動きをどうするつもりで?」


 コロコの問いに、マサヨシはしばらく黙って汁を啜ってから、


「外堀から埋めていくしかない。なるべく遅らせる、程度のことしかできないだろうけどね。ツゾとスカイに連絡をとってくれる? 俺は、ちょっとこの後、用があるからさ」


「用? ああ」


 得心して、ジャックは頷く。


「そう言えば、明日でしたな」


「ああ、大往生した『料理人』の葬儀だ」


 寂寥感ではなく、ただただ、あの老人がもう今はこの世にいないということに違和感だけがある。


「シュネブまで行ってくるよ」


 当然、ハイジもそこに来る。二人きりで話すにはいい機会だ。

 ジャックには外から、そして、自分はハイジに直接交渉してシュガー撲滅を遅らせる。

 それしかない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ