ファンド2
衣食足りて礼節を知る。
その諺をマサヨシの父はひどく気に入っていた。
「これほど、一言で人間の本質を突いた諺は少ない」
「そう?」
「そうとも。お前、平穏を望むんだろ?」
「まあ、そうだね」
「なら、この諺は心に刻んでおいて損はない。いいか、平穏なんてものは、お前が努力すればどうにかなるものじゃあない。環境の問題だ。周囲にいるのが、同様に平穏を望む善良な人々でなければ平穏など叶うわけがない」
「それはそうだろうね」
マサヨシは納得する。
自分がいくら努力したところで、周囲に好戦的な人間が一人いるだけで、平穏は叶わないだろう。
「だが、ここが考えどころでな。善良な人々、というのが難しい。聖人ばかりを望むわけにはいかないだろう? 普通の人間は、満ち足りていれば善良かもしれないが、追い詰められたりすれば牙を剥く。そうだろ?」
否定できず。マサヨシは黙る。
「逆も然りだ。詐欺師も金が有り余っていたら誠実かもしれない。強盗の常習犯が、大富豪になっても強盗を繰り返す可能性は高くない。分かるか? 平穏に必要なものは、余裕だ。自分にとってのだけじゃあない。周囲の全てが、余裕で満ちていることが絶対的に必要なんだ。さて、余裕とは何か? 結局のところ、一言に集約するなら」
父はポケットから千円札を取り出す。
「富だ」
関係がなかった。
戦争が起きようと、この地がどの国のものになろうと。
やることは一つ。略奪。
それしか生きる道を知らない。獣のように山中で寝起きして、獲物を見つけて、それを襲う。その繰り返し。
貧しい地に生まれて、ずっとそうやって生きてきた彼らは、髪や髭は伸びに伸び、体中が垢と土に塗れて、もはや見た目にも獣に近い。
山中、布と木箱で作ったキャンプというのも憚られるような彼らの住処に、その乱入者は現れた。
「やれやれ」
そう、呟きながら。
彼ら、山賊達はその乱入者に驚かない。山中で迷い、人の気配のある彼らの住処に旅人が来るのはよくあることだからだ。この山に彼らが住み着いていることを知らない旅人は、自ら捕食されに来るわけだ。
その時に彼らがすることは決まっていて、今更合図などする必要もない。
一人が、おもむろに吹き矢を取り出し、その乱入者に向かって発射する。
山に生える毒草から抽出した痺れ薬が塗ってあるその矢は、命中すればその対象の全身を痺れさせて、呼吸まで困難にする。大抵はそれで死ぬし、息があるなら鉈か斧で頭を割ればいい。いつもの作業だ。
だから、彼らは動揺しなかった。乱入者が獣人だろうと、珍しくその獣人の毛が真っ白だろうと。
動揺したのは、その乱入者が矢を難なく指で摘んで止めたことだ。初めて、そこで彼らは動揺する。
何なのだ、こいつは。違う、獲物じゃあない。これは、こちらが襲う側のものではない。
こいつが、捕食者だ。
「適当に山を彷徨えば、とは言われとったが、本当にこんなに簡単に出会うもんじゃの。これで七件目じゃぞ。貧しい村の傍の山、それから戦争直後には掃いて捨てるほど賊が出る。そう聞いてはおったが、全く」
矢を投げ捨てながら、
「わしは働きすぎじゃ。まったく、こんなのは殺し屋の仕事じゃないわい」
そうぼやく乱入者の片手には、何が奇妙なものが握られている。薄汚れていて、それなのに断面は美しく桃色。
それが仲間の一人の下顎だと気付いた時には、山賊達は叫び声を上げ、武器を手にその乱入者に殺到していた。その叫びが、怒りや敵意からではなく、恐怖からだということを彼ら自身認識しないままに。
山掃除が順調だ、という知らせを受け取りマサヨシはほっと息を吐く。
「ジャック、そろそろメンバーは集まったか?」
昼下がり、白銀の片隅で、マサヨシとジャックは向かい合って飲んでいる。もっとも、マサヨシが飲んでいるのはただの水だ。
「ええ、そりゃ、義勇軍だったメンバーは職にあぶれてますからな」
「金なら出す。とにかく、まずは、ええと、名前を決めてなかった。『ジャック傭兵団』でいい?」
「いやです」
狐顔がしかめられる。
「シンプルに『トリョラ傭兵団』でいいでしょう」
「そう? とにかく、ジャック率いるその傭兵団に、山賊狩りをしてもらいたいんだ。特に新しくうちの領地になった村の周辺をね。戦争直後だし、雨の後の筍なみににょきにょき山賊が出てきてるはずだから」
「治安維持ってことですな。別にいいですが、支払いの方は?」
「出すよ。例のファンドからね。そりゃそうでしょ」
そこで、ぐっとジャックが顔を寄せてくる。ジャックの持っていたグラスの酒がこぼれかけるが、気にもしない。
「そこですよ、気になるのは」
「ジャック。ここだけの話、例のタイロンに先に粗方間引いてもらっている。その知らせをもらった」
「そんなことはいいです。俺が気になるのはですな、そのファンドとやらの金が、おそらくどこからも集まっていないだろうという点です」
「鋭い」
苦笑して、マサヨシは背もたれを軋ませながら大いに身を引く。
「けど、金は払うよ」
「どうやって?」
「俺の身銭プラス借金だね。具体的には、白銀を借金のカタにして借りれるだけ借りる」
「何のために」
少しだけ目を泳がせてから、マサヨシは水に口をつける。
「マサヨシさん、本当に、それじゃあただの時間稼ぎです」
そう言われて、ようやくマサヨシはグラスから口を放す。
「分かってるよ。ねえ、ジャック、必要なのは、皆が俺に金を出してくれることだ。けど、彼らは慈善事業じゃあない。痩せて今にも倒れそうな馬には賭けない」
「でしょうな」
「つまり必要なのは信用だよ。その馬がすばらしい足を持っていて、レースに必ず勝てると思い込ませれば誰もが争って金をその馬に賭ける。このギャンブルの特別なところは、その金を一度全部俺が預かることさ」
「その金を使って、どうするつもりですか?」
「決まってるでしょ、その大金で遠くから素晴らしい馬を買うんだよ。で、実際に勝つ」
「馬を買うのに金を使っては、賭けた連中に金を払えんでしょう」
「返さずに、その次のレースにそのまま賭けてもらうさ。現に素晴らしい馬がいるんだ」
「ガタリ商会が投資を決定したという話を流したのも、その一環ですかな?」
「そうとも。山掃除を、先に非正規に済ませておくのもね。俺が金を出したことは、全て素晴らしくスムーズに、大きな成果を出していく。そう思わせないといけない」
「うまくいくと思ってるんですか」
ジャックの視線は鋭いものではなく、むしろ痛ましいものを見ているかのようなものだ。
「金だよ。金がいるんだ。先に使わないと、入ってこない」
「そんな使い方をしても、見合うだけの額が入ってくるとは思えませんよ」
「まあ、ね。ただ、他に方法があるかい? どうせ、それをしなきゃ俺の首は括られるんだ」
「けど、それをやって話を大きくするだけ大きくしてから破綻した時に、マサヨシさんに後始末ができますか?」
「できない。絶対に無理だ。俺が長く生きようとすればするほど、死ぬときに迷惑をかける人の数も、迷惑自体の量も桁違いに膨れ上がっていく」
ゆっくりと、マサヨシはジャックに顔を近づけ、声は囁きに近くなる。
「ジャック、だから、それで大勢のトリョラの住民が巻き込まれるのを避けたいなら、今ここで」
挑戦的でもなければ自嘲も含んでいない、冷静な観察者の顔をして、じっと乾いた瞳でジャックを見据えながら、
「俺を殺すしかない、ジャック」
「マサヨシさん」
まるで実際に短剣を指されたかのように、ジャックの顔が歪む。
「あんたは」
「貧乏暇無しだ。金がいる。じゃあ、頼むよ」
ぽん、とジャックの肩を叩くと、マサヨシは立ち上がって多少ふらつきながら白銀を出て行く。
その後姿を、ジャックは沈痛な表情で見守る。