スイカ
日は沈みかけている。
キリシアとアインラードとの国境は、延々と続く木製の壁によって封じられている。ノライとキリシアの国境との余りの様子の違いに、自然、レイは緊張する。当然、他の面々もだ。その緊張を悟られないように、全員赤いローブに表情を隠し、俯き加減になる。
木製の壁は、壁というよりも厚さがまちまちな木の板を地面に突き刺した背の高い針山のようで、物々しさを加速させている。
壁にぽっかりと開いた穴のような門の周囲には、大勢のアインラードの兵士が警備をしており、検問待ちの行商人や家族や恋人に会いに行くと思われる者達が列を作っている。
その最後尾にレイ達も並ぶ。
一人の兵士が書類を片手に近寄る。
「通行許可証は?」
打ち合わせどおり、聖女役が一歩前に出て、
「申し訳ありません。許可証は発行が間に合いませんでした」
「許可証なしに通すわけにはいかない」
そう言って戻ろうとする兵士に、
「我々は、今、この瞬間に困窮している戦地の人々に救いの手を差し伸べたいのです」
聖女役は食い下がり、それを合図にレイをはじめとする全員がその場に跪く。
「我々はレッドソフィーの信徒。今虐げられている人々を助けるためには、手をこまねいているわけには行かないのです。お願いいたします。我々は、貴国の国民を救うためにここを通りたいだけです」
他の行列を作っている人々が全員、やりとりに注目している。
これで、邪険にしてしまえば、アインラードの兵士がレッドソフィーの信徒を軽視したという話が大陸中に広まってしまう。
兵士は苦々しげに周囲を見回し、
「ちょっと、待っていろ」
そう言って戻っていく。おそらく、上官に報告と相談に行くのだろう。
行けるだろうか。何か、怪しまれてしまっただろうか。
目配せをし合う。だが、レイ達には待つことしかできない。
数時間にも思えたが、実際には十数分だろう。
兵士が戻って来る。
「こちらに来い」
と、行列の先、門を示される。
順番に割り込む形になるが、聖女役を先頭にレイ達は先を進む。自分達が抜かされたというのに、他の人々には反感や不満の色はない。レッドソフィーは大陸の最大宗教だ。大陸中で信仰されているし、尊重されている。レイ達に頭を下げ、祈っている者さえいる。
「特例だ。通過を許す。この辺りは戦争中ということもあって危険だ。途中、安全な道に出るまで我々で護衛する」
門を通過しながら、その兵士が言うと、その言葉通り、レイ達の倍程度の兵士が集まってくる。
「いえ、それは、皆様にはこの国境を守るという使命があるはず。それには及びません」
慌てて聖女役が言うが、
「こっちだってそうしたい」
近寄ってきてから、苛立たしげに兵士が囁く。
「ここで通過させて、お前達が脱走した兵士くずれに強盗にあったり危害を加えられたりしたら、こっちの問題になるんだ。大人しくしておけ」
レイは舌打ちしたいのを必死で堪える。
レッドソフィーのネームバリューが悪いほうに作用したか。まあ、いい。もう少し進めば、解放されるはずだ。
兵士達に護衛されて、レイ達は荷車を曳いて進む。
日が沈み、周囲は薄暗くなってくる。
おかしいんじゃあ、ないか?
レイがそう疑問に思った時には、他の全員の顔にも怪訝な色が浮かぶ。
かれこれ、半時間は歩いている。だが、安全な道に出るどころか、道はどんどんと細くなり、周囲からは人気は消えていっている。
全員で、アイコンタクトをする。誰の顔にも、不安と警戒が色濃い。
思えば、そもそも荷物検査がなかったことがおかしい。レッドソフィーの信徒だからといって、荷物検査をしないとは。
悪いほうに、考えが進む。一団は薄暗い中、どんどんと寂しい方向へと進んで行く。
どうして荷物検査をしなかったのか。
荷物検査をする必要がなかったから。つまり、荷物の内容に関わらず自分達にどう対処するか決まっていたから。
どうして人気のない場所に誘導しているのか。
レッドソフィーの信徒にこれからすることを、他の人間に見られたら困るから。たとえ、教団に問い合わせればすぐに偽物だと判明するにしても、それが周知の事実となるまでの間にアインラードの兵士がレッドソフィーの信徒にあんなことをした、という風聞が広がるのを防ぐため。
あんなこと。
あんなことって、何だ?
汗ばむ手で、レイはローブの下で護身用の短剣を握っている。
兵士の数は倍。鎧を着込み、当然だが隠す必要がないから大型の武器を持っている。
負ける。殺される。
速くなる動悸。激しくなる呼吸。それを気付かれないように、必死で歯を食いしばる。思い違いであってくれ。
「おい、ここらでいいか」
「ああ」
先頭の兵士二人が話して、頷き合う。そして武器を振り上げた瞬間、全ての希望は失われる。
「くそっ」
叫んで、一番に駆け出したのはレイだ。
とにかく、混乱される。
引き抜いた短剣を先頭の兵士の片方の首筋に向かって突き出す。
だが、それは無情にも兵士の鎧に当たり、短剣は跳ね飛ばされる。
「うっ」
そのままその兵士にぶつかるようになったレイは、兵士の振り下ろす剣を肩に受ける。いや、距離を詰めていたため、剣を受けるというより、その剣を握っていた兵士の両手で側頭部と肩を殴りつけられたような形だ。
耳鳴り。視界がブラックアウトし、重力が一瞬にしてなくなる。
「くそがっ」
なぎ払うような腕の一撃を顔面にくらい、レイはその場で縦に回転するような勢いで地面に倒される。後頭部を地面に打ち付ける。
気分が悪い。視界は真っ暗で、チカチカと時折光る。耳鳴りは酷くて、他に何も聞こえない。
気が、遠くなったり近くなったりを繰り返す。体が冷たい。いや、熱い。
畜生。どうして。
溶けかけた思考の中、そんな言葉が流れる。
どうして、ばれた? このまま死ぬのかよ、くそ。
死にたくない。
レイは気付く。
俺は、冷めてなんてなかった。
山頂付近、虐殺の光景。知り合いの少女が髪をつかまれて物のように運ばれていく。友達が挑みかかり、簡単に返り討ちに遭う。親代わりだったおじさんが、捕まり、縛られ、笑う兵士に首を落とされる。
何かできると思っていた。アインラードの兵士相手に、侵略してくる悪相手に、自分達が何かできると。それが、あんな。正しいはずの自分達が、間違っている相手の暴力になすすべもなかった。
それが、信じられず、認められず、呆然としていただけ。ずっと、ずっとだ。それを、自分で冷めてしまったのだと思っていた。
違う。俺は、何のためにここにきたのか。
顔に傷のある少年の言葉を思い出す。
「弱い人間も一方的にやられるだけじゃあ、嘘だろ」
そうだ。そうだ。そのためにここに来たんだ。この任務を受けた。自分達にだって、きっと、暴力に対して何か出来ることがある。それを信じているからだ。マサヨシの案を聞いて、心が本当は躍っていた。その案が、自分達が圧倒的な暴力に対抗できる術を与えてくれたから。
体に力が戻る。
今、動かないで、どうするんだ。
視覚はまだ戻らない。聴覚が先に戻る。
「うおっ、ははは、元気いいな」
敵兵の声。悲鳴。怒号。誰かが地面に倒れる音。金属音。
まるで、あの時の虐殺のような。
「殺すなよ、女」
「分かってる」
殴りつける音。少女の悲鳴。
「あ、こいつ、舌噛みやがった」
「はあ? おいふざけんなよ、もったいない。何とかしろよ」
視界が、ようやく回復する。
いきなり目に入ったのは、中年の女の顔。口から血を流して、絶命している。この人は、確か、この戦争で前線に出ている息子が無事かどうかをずっと心配していた人だ。
畜生。
レイは必死に体を起こそうとするが、全身が痺れたように動かない。感覚はある。冷たい地面、流れている鼻血、悲鳴、血の味。
眼球だけ動く。体が起きないので、視線だけを起こす。
顔に傷のある少年は、腹を槍で貫かれている。目が細かった老人は、首だけになって目を見開いているから、もう生前の面影がない。
歯を食いしばる。四肢に力が戻ってくる。
視界の端、少女に圧し掛かって下卑た笑いを浮かべた兵士が両手で交互に何度も顔を殴りつけている。
聖女役の少女を囲んで、口から血を流している彼女の口に手を突っ込んでいる兵士達も見える。あれは舌を噛んだのか。
誰も、レイが生きていることには気付いていない。いや、存在すら忘れている。
落ちていた長剣を、片手で握る。いける。力は戻っている。
「お」
その時、ちょうど一番近くを歩いている兵士と目が合う。向こうは硬直する。
「がああああっ」
叫び。叫べた。そのまま、起き上がりざまにその兵士の内腿へと剣を全力で切り上げる。
「ぎゃっ」
噴水のように血を噴出しながら、兵士が倒れる。
「俺はっ」
そのまま、少女に圧し掛かっている兵士、驚いて殴る手を止め、こちらを見ているその顔に目掛けて走り、剣を両目に叩きつける。
目を斬り潰された兵士が、絶叫して転げ回る。
いける。やられっぱなしじゃあない。俺は、やれる。俺達はやれる。
もう、言葉にはならない雄たけびを上げて、レイは次の兵士に向き直る。
弱い人間だって、反撃できる。俺達だって。
風を切る音。
反射的にふっと視線を横にずらすと、斜め後方から棍棒が目前に迫っている。
「ちく――」
全てを言い切ることは出来ない。
「まるで落としたスイカだな」
アインラードの兵士は笑う。
マサヨシは涎を拭う。
考え事をしていたら、そのまま寝ていた。
誰もいない作戦室は、静かだ。結局、昨日は生き延びた。窓から外を見れば、おそらくもう早朝。夜が明けている。
作戦室の隅、木製の椅子に座ったままだったマサヨシは体を起こす。全身はばきばきだ。背伸びをして、固まった全身をほぐす。
考え事をしていたら、寝ていた。本当は嘘だ。考え事ですらない。
同じことをぐるぐると何度も、思考をループさせていただけ。
日が沈みきってから、バルコニーから城内に戻り、そのまま作戦室の椅子に座って、それからしばらくの間、ずっと自分の世界に入っていた。そうして、いつのまにか記憶は途切れている。
「おお、そうか、ここの隅で寝てたな、そういや。まさかそのままずっとここにいたのか?」
ドアの開く音と、赤目の声がマサヨシを現実に引き戻す。
「おはようございます、ドラッヘ。早いですね」
「ふん」
ろくに寝ていないだろうに、多少やつれただけで赤い目にはぎらつく生気が色濃い。おそらく、それこそが彼が数多くの戦争で生き延びてきた理由の一つなのだろう。
「寝起きで悪いがな、仕事だ」
「俺?」
「民間人は相応しくないと粘ったんだが、無理だった。向こうから指名だ」
「ああ」
また椅子に座り、マサヨシは天を仰ぐ。
「来たか」
「マサヨシ」
顔を戻すと、ドラッヘは表情を消し、奇妙に静かな声で、
「計算通りというわけか?」
「まさか。当たって欲しくない予想が当たったんですよ」
ため息と共に、マサヨシは本音を漏らす。
「お前は――いや」
言いかけて、ドラッヘは止めて、黙ってマサヨシの傍に立ち、見下ろす。
「どこですか?」
「ちょうど真ん中。国境の山の上だ。といっても、既にそこは向こうに占領されているが」
「はん、敵地に乗り込むわけですね」
「使者だ。そう気負うな」
「実際、どうです?」
主語のない問いかけだが、それでドラッヘは全て理解したようで、
「限界だ。何もなければ、今日でこの城への篭城線になる。それで、数日でこの城も落ち、おしまい」
「じゃあ、篭城の用意をしておいてください」
マサヨシは立ち上がる。
「ようやく、『勝ち戦の姫』に会える。楽しみだな」
薄く笑うマサヨシの目は、どんよりと濁っている。
この世界にもスイカがあります。大陸の南端の方で夏に栽培してるのです。