勝ち戦の姫3
それは完全な不意打ちだった。
悲鳴、怒声、罵声。振動。矢。血。
気づけば、隣のジャックに無理矢理地面に引き倒され、そのままマサヨシは転がってその場から離れていく。石や草が無数の切り傷を顔や手に与えるが、気にすることもない。
泥にまみれたまま、転がれるだけ転がったマサヨシとジャックは、今度は腹這いのままひたすらに這って逃げ出す。とにかく、元にいた場所から離れる。それしか頭に浮かばない。ジャックを先頭に、マサヨシはただ逃げていく。
悲鳴。怒声。罵声。何かが壊れる音。倒れる音。ずっと、ひっきりなしに響く。
頭の中心が痺れるようで、マサヨシは何も考えられない。ただ、ひたすらにジャックについて逃げる。汗が目に入って、前がまともに見られない。それでも、ただ全身を動かす。
やがて多くの木が生えていて、背の高い草が生い茂っている茂みに辿り着く。
血と泥にまみれていたジャックとマサヨシは、ようやくそこで動きを止めて、身をひそめる。
マサヨシはそこで今更に全身の痛みと猛烈な疲労を感じる。荒い呼吸はなかなか静まらず、汗も止まらない。喉はからからだ。
「何が」
かすれ声で、ようやくマサヨシは問う。
「何が、起きたんだ?」
嵐のようだった。声と音。そして恐怖、緊張。猛烈なそれらに襲われて、気がつけば茂みで身を潜めている。
「奇襲を受けました。こりゃ、しばらく身動きしない方がいいですな」
さすがのジャックの声にも疲れがみられる。
「奇襲? 俺達の予想したのとは別のルートを使われたってこと?」
「いや」
頬の毛にこびり付いている泥の塊をジャックは拭って、
「少しの間ですが、先に遠くから争う音や声が聞こえてから、俺らの拠点は襲撃されました。つまり、前線部隊と敵はかち合ってたってことです。だから、ルートは正解していた。間違っていたのは……」
ああ、とマサヨシは無意識のうちに諦めのため息を漏らす。
「予想兵力か、向こうの」
そこまで話したところで、マサヨシは疲労の限界で黙って、ただ茂みでじっとする。隣で、ジャックも同様に石のように動かなくなる。
野外に張られたテントの内部。軍用の無骨なテントには似つかわしくない絨毯が内部に敷かれ、そこにテーブルと椅子がある。
チーズをつまんで、それを木の器に入った常温の赤ワインで飲み下す。喉をワインが通るたびに、シャロンの白い喉が別の生き物のように動く。
「余裕を見せて足元をすくわれる。よくある話だ」
ワインを飲み干すと、赤い舌で唇をぺろりと舐めて、シャロンは座り直す。
「『ペテン師』が不気味なら、それを潰すことに全力を注げばいい。現状、動かせる兵士のほとんどを『抜け道』に送った」
「無茶をする。非効率的だ。『抜け道』には少数精鋭を送って、内部に入り込み敵陣を混乱させる。それが常道だろう」
そう言って渋い顔をするガンツ。
だがシャロンは艶やかに笑う。
「その常道は向こうも予測してる。もちろん、手を打たれていても効果のある手ではあるし、戦力は圧倒的にこちらが上。だから、そうしてもよかったけれど、そうすると『ペテン師』がまた妙な動きをする猶予を与えることになる。それなら、これでいい」
「後詰が足りなくなるぞ」
「お父様に頼んで追加の兵士をもらえばいい。ここで面子に拘るよりも、絶対確実に勝利をするために手を打つ」
その言葉に、ガンツは突然破顔する。
「よかった。『勝ち戦の姫』だな。それならいい」
「心配していた?」
「ああ。智将にでも憧れて、奇策にはしったのかと思っていた。それならいい。いつものお前だ」
笑いながらガンツは、愛おしそうにシャロンの髪を撫でる。
「名将には、絶対的な名声が必要だ。お前の場合は、生まれついての名がある。そうして実績を積み上げてきた。もう、名声は十分だ。後は、スタイルを崩さなければいい。勝利は勝手についてくる。お前は、俺の最高傑作だ」
「それはどうも」
不機嫌そうに、シャロンはガンツのごつごつとした手を払いのける。
「けど、子ども扱いはよして」
「申し訳ない、お姫様」
それでも機嫌よく笑いながら、ガンツはテントの外へと出ていく。
どれくらいの時間が経ったのか。
足音。それから、点。点は大きくなって、人の群れになる。兵士の群れ。
見えるのは行進していく兵士の数人が、その持っている槍の先端に何かを串刺しにしたままでいることだ。小さなその何かは、兵士の行進に合わせてぶらぶらと揺れる。
兵士達が近づいてくるにつれ、それははっきりとしてくる。
「あまり質のいい兵士どもではないですな」
横のジャックが呟くのを、マサヨシは上の空で聞く。
ぶらぶらゆれているそれの一つに、見覚えがある。
何時出発するのかと、意気込んでマサヨシとジャックに聞いてきたあの少年だ。あの少年の上半身が、揺れている。
進んでくる兵士の中には、片手に切り取った耳を持って何やら隣の兵士と喋っている者もいる。まるで何か人生における重大な決断について相談しているように、真剣な顔で何かを話しかけているが、その片手には獣人の耳がある。
捕虜なのか、兵士達に囲まれるようにして老人や女子どもが数人、連れられている。
「あれだけか。他は死んだのか、それとも……俺達みたいに逃げられたならいいけど」
また、ジャックが呟く。諦めたような熱のない声。
「まずい。この傍を通るつもりですな。今から動くと危険だ。息を殺して、死んだように伏せておきましょう」
そう、ジャックが囁くが、マサヨシの耳には入っていない。
熱病に浮かされたように、その光景を眺めている。
戦争ではよくあることだ。元の世界でもあった。戦争では当然のことだ。本で読んだりテレビで見たりで、知っている。どの国だってやってきた。
そんな言葉がぐるぐると渦巻いているが、頭の中のぼんやりとした熱は一向に冷めてくれない。
ともかく、身を隠さないと。息を止める。水に潜るようにする。
連行されている老人、女子ども、全て満身創痍だ。片脚を引きずったり、片手を庇いながら歩いている人間がほとんど。そのため、少し歩くのが遅れてしまうが、その度に後ろの兵士から剣の柄で小突かれる。
誰もが、奇妙なことに怒りや悲しみ、絶望ではなく、面倒くさそうな表情をしている。さっさと終わらないかと、疲れ果てながらうんざりとしている顔だ。
近づいてくる。兵士達の息遣いが聞こえるくらいに近くなる。
堪えきれなくなったのか、老人の一人が倒れる。息も絶え絶えで起き上がろうとしない。
「倒れました」
大声で、兵士の一人が前方にいる指揮官の一人に報告する。
「女か子どもか?」
「老人です」
「処分しろ。何にも使えん」
その指示でいとも簡単に数本の槍が倒れたままの老人に突き刺さり、老人は二、三度痙攣して、動かなくなる。
それで終わり。どうせ、そのまま放っておいても死ぬだろうから、無視していればいいのに、と奇妙に冷静な頭の片隅でマサヨシは思う。
兵士達が近づいてくる。
すぐ傍を通る。
もう歩けない少女が、髪をつかまれて引きずられるようにしてマサヨシとジャックの茂みのすぐ傍を連れて行かれる。もちろん、気のせいだ。本当はそこまで近くはない。そう思うが、数多の中心が痺れていて現実がぐらぐらと揺れているマサヨシには実際のところが分からない。
ともかく、老人とは違って少女は『使い道』があるから、歩けなくとも連れて行くのだろう。
少女と目が合った、気がした。
腕に痛み。
ふと目をやれば、ジャックがマサヨシの腕を握り締めている。余りにも強い力で握っているため、爪が皮膚を突き破り、血が流れている。
戦争を経験している割に、こういうところでは激情家なんだな。耐えるのに必死か。
そんなことに感心しているうちに、兵士達はやがて消えていく。
完全に兵士と捕虜の姿が消えてしばらくしてから、ようやくマサヨシは大きく息を吸って、吐く。軽い酸欠だったのか、目の前がちかちかとする。
「ああ、くそ」
吐き気。全身の疲労と痛みが凄い。目が眩んで、マサヨシは目の前が見えない。涙が流れているのは分かる。
四足の獣のように、その場で手足を使って蹲る体勢に変わる。全身が震える。
「生きている」
呟く。
マサヨシはそれだけ思う。それだけが重要だ。とりあえず。
それなのに、頭の中にはずっと同じフレーズが回る。
戦争ではよくあることだ。元の世界でもあった。戦争では当然のことだ。本で読んだりテレビで見たりで、知っている。どの国だってやってきた。
「さて、どっちがトリョラなのかすら分からない。とにかく、慎重に進むしかないですな」
疲れた声でジャックが体を起こす。
マサヨシの視界がようやくクリアになっていく。
未だに、ジャックの手がマサヨシの腕を握り締めている。
「ジャック、手を離してくれ」
出した声を、マサヨシは自分の声だと思えない。別人の声にしか聞こえない。
そんなことはどうでもいい。疲れた。
ともかく、努めて何も考えないようにする。体を起こす。
「ああ、すいませんな」
のろのろと、ジャックは手を離す。
「慣れていないとはいえ、まさかあそこでそこまで我を忘れるとは思いませんでしたぞ」
「え?」
「誰も救えません。ただの自殺行為ですよ。マサヨシさん、そんな風に死ぬのはもったいないでしょう。まだ何かできるんですからな」
意味が分からず、腕についたジャックの爪による傷跡をぼんやりと眺めていたマサヨシは、そこでその傷がついた腕の先、手が腰に挿した剣の柄にかかっていることに気付く。
「ああ」
どんな感想を抱いていいのかいまいち分からず、マサヨシは固まったように剣から離れない手を、指を一本ずつ引き剥がすようにしていく。
頭がうまく働かない。
着いてきてください。
そんなことをジャックが言って、頷いたのだか、どうだか。
夢から覚めたようにマサヨシが現実に引き戻されたのは、結局不眠不休で這い続けて、山を抜けたその時だ。
「やあ、気絶してもいいですぜ。後は担いで行きますよ」
そう言うジャックの毛がまんべんなく土色に染まって、やつれ、目が血走っているのを見て、まるで別人のようだと驚いて、その驚きがしばらくぶりにマサヨシを覚醒させる。
そして、限界に達していた疲労を認識してしまい、覚醒と同時にマサヨシは倒れこみ、ジャックに抱きとめられる。
平穏を求めるというのは心の強さが必要だ。
そんな意味のことを、マサヨシの父は繰り返し言っていた。マサヨシが静かに暮らしたいと、平穏を求めると知ってから、ずっと。
アドバイスのつもりだったのだろう。あるいは、忠告か。
「心の強さってのは二種類あってな、鈍感さか覚悟。どっちかだ」
日本の指を突き出してきて、父親は片手にもっていた飲みかけのペットボトルを振ってみせる。中のミネラルウォーターが揺れる。
「今の時代、この国は鈍感さに優れている。これはミネラルウォーターだ。ええと、コンビニで100円程度で買った。お前、ミネラルウォーターって買うか?」
「え、ああ、そうね、水は買わないけど、お茶なら、買うかな」
「じゃあ、お茶でもいい。100円くらいだろ。それで、質問だが、どうしてそのお茶を買った?」
質問の意味が分からず、
「え、飲むため、だけど」
戸惑って答えるマサヨシに、
「この国は特に水道水を飲んだからといって腹を壊すことはない。うちには浄水器もある。どうしてわざわざコンビニでお茶を買う?」
どう答えようか迷っているマサヨシに、父はにやりと笑い、
「答えは簡単だ。水道水よりもお茶が、何となく飲みたかったからだ。そうだろう? だが、ここが問題でな。つまり、それほど熱烈にお茶を買いたかったわけじゃあない。だから、例えばお茶を買おうとしたコンビニの前で今にも飢えて死にそうな子どもがいたとしたら、その100円はその子どもに食べ物を買ってやるだろう?」
「そりゃ、人としてね」
「その100円を募金したら、地球の裏側で子どもが一人、救えたかもしれないぞ」
その一言で、マサヨシはそれ以上喋れなくなる。
「それが鈍感さだ。強さだ。いいか、正義、地球の裏側で子ども達が困窮していることを、情報として誰もが知っている。100円の募金で一人救えるかもしれないことも知っている。知っているが、それを感じない。実感がないんだ。だから、大して必要でもないものに100円を使う。地球の裏側のことだから、鈍感になれる」
喉が渇いたのか、そこで父は一口水を飲んで、
「平穏に、幸せに生きるためには、鈍感さが必要になる。だから幸せで平穏な国には、国民を鈍感するシステムが必ずある。それはそうだ。全国民が全労力、全財産を人のために使う慈善家になってもらっても困るからな。だから、平穏に生きている連中は、時折そのことに気付くと狼狽する。自分の取るに足りない平穏が、幸せが他人の絶望や悲惨の上に成り立っていると気付いて、その他人の絶望や悲惨を感じたら、もう駄目だ。また、鈍るまでのしばらくの間、平穏は遠のく」
父の目が、嘲笑うように三日月形になる。
「お前は繊細だからな。一度、痛みを感じたら、長引きそうだ。もっと鈍感にならないとな」
「父さんは、鈍感なの?」
その視線に耐え切れなくなり、自分から話をそらすために弱く笑いながらマサヨシはそう訊く。
「どうかな。こんなことばかり考えているわけだから、鈍感ではないかもしれないな。それでも、弱くはない」
マサヨシの意図を知ってか知らずか、父はあっさりと自分の話に変える。
「じゃあ、鈍感じゃあないんだから、覚悟の方?」
「多分な」
「覚悟って、どういう意味?」
「俺は、幸せになる覚悟がある。平穏でいる覚悟がある。そういうことだ。たとえ、目の前で俺のせいでどれだけ人が苦しんで死んでいこうともだ。別に俺がそれを気に病んだらそいつらが助かるわけじゃあないからな。だからそいつらを見ながらも俺は心安らかだし、幸せを感じられる」
父の目が、催眠術のような光を帯び始める。もう、マサヨシは目をそらせない。
「お前はどうだ?」