引導3
昨晩に見た、殴り殺された女の映像がまだ瞼の裏にこびりついている。
それを振り払うように、ギンは一歩一歩に力を入れて夕闇の路地裏を歩く。
「向こうは異常なしだってよ」
仲間が言うのを、ギンは黙って頷く。
「おい、大丈夫か、顔色悪いぞ。昨日色々あったんだから、やっぱり休んだ方がいいんじゃねえか?」
「馬鹿言うな。昨日一緒だったジャックさんが動いているのに、俺が休むわけにいかないだろ」
ギンはトリョラで生まれ育った。父の顔は知らず、難民だった母も幼い頃に死んだ。ジャックがいなければ、自分はとっくの昔に野垂れ死んでいたか、犯罪に手を染めていただろうという確信がある。
だからこそ、自分も金がないのに、ギンのような者達を自宅に詰め込んでは、借金までして飲み食いさせてくれたジャックには頭が上がらない。彼のためならば死ねると、本気で思っている。そういう若い連中は、トリョラには沢山いるはずだった。
「こういう空き家にも注意しろって話だったな」
仲間が、角に立つ窓からの明かりのない家を顎で示す。
「ああ。ちょっと覗いてみるか」
ギンの合図で、仲間達がドアに近づいた途端、側面の窓からボロ布の塊が転がり出て、全員がぎょっとする。
だがそのボロ布の塊に手足が生え、走り出したところで、ようやくそれがボロ布を被った何者かだと分かる。
「おい、止まれっ」
こちらの制止にも耳を貸さず、その不審人物は全力疾走で夕闇に消えていく。
「くそっ、おいっ、追うぞ」
「待て」
全員で追おうとする仲間達をギンは止めて、
「半分はこの空き家を調べよう。例の子どももいるかもしれない」
頷いて、きっかり半々に分かれ、ギン達は剣を抜いて警戒しながら空き家に突入する。
夕闇。明かりのない空き家の中は真っ暗だ。
「くそっ」
ゆっくりとドアを開けて、体を滑り込ませたギンは、周囲を窺いながら聞き耳を立てる。
物音一つしない。
「気をつけろよ」
後から入ってくる仲間に声をかけて、一歩一歩進む。
「暗いな。松明か何か持ってきた方がいいか?」
「かもしれないが」
囁いていたギンの耳に、微かだが何かが軋む音が聞こえる。
「聞こえたか?」
「ああ、向こうの部屋だ。応援を」
「いや、もしかしたら手遅れになるかもしれない。それなりに夜目は利く方だ。俺が行く」
剣を構えて、ゆっくりと、にじり出るようにギンはその音のした方向へと歩いていく。汗が勝手に額に滲む。
「おい、誰か、いるのか? 出て来い、逃げられないぞ」
喋りながら、ギンは音のした部屋の前まで進む。
「いいか、開けるぞ。武器を捨てて地面に這いつくばれ。1、2」
2、でドアを一気に開けて中に踏み込む。
部屋の中は、大きな木箱が数個あるだけのがらんとした様子だった。いくら薄闇に目を凝らしても、何かあるようには見えない。
ぎしり、と木箱の一つから音がして、ギンの顔が強張る。汗が生え際から顎下まで滴り落ちる。
フラッシュバックするのは、子を抱いて殴り殺された女の死に顔。
唾を飲み込む。
木箱は、大人一人なら抱えられるくらいのサイズだ。
よろよろと近づいたギンは、剣先でゆっくりと木箱の蓋を開ける。荒く呼吸しながら、その中を覗き込む。
そこには、両手両足を縛られ、目隠しと猿轡までされた幼い子どもがいる。体を丸められ、ぴったりと木箱にはまるようにして入れられている。
ギンの頭には、昨夜の惨状がずっと張り付いて離れない。
ゆっくりと、その顔に手を伸ばす。手はぶるぶると震えている。
顔に触れたところで、その頬がまだ柔らかく、温かく、そしてかすかに動いたことで、
「ああ」
声をあげて、安堵のあまりギンはその場にへたり込む。腰が抜けたようだ。
「おい、どうした?」
仲間が叫ぶ。
「来てくれ、無事だ、早く来てくれっ」
腰が抜けたギンには叫ぶことしか出来ない。
あっさりと、パインの孫娘は見つかった。恐怖のため、しばらくは呆然としていたが、保護をされて温かいミルクを飲んでいるうちにたどたどしくではあるが何が起こったのかを話し出している。
その報告をジャックから受けたパインは、喜ぶよりも、ほんの数時間で問題が解決してしまったことに呆けたように立ち尽くしている。
「じゃあ、その子は自分を攫った人間を見たんだな」
ジャックはさっき報告してきた部下と、詳しい情報を話し合う。
「はい、ですが、獣人ですので」
「ふん、獣人以外は、獣人の同族は大体同じ顔に見えるからな。ワーウルフだとは分かっても、それ以上はしぼれないか。分かった。もう、親元に返してあるんだな」
「はい」
「分かった。とりあえず引き続き消えた奴の行方を追ってくれ。俺は、マサヨシさんに報告にいく」
走り去っていく部下を見送ってから、まだ呆けているパインに、
「じゃあ、お孫さんの顔を見に行ったらどうですかい?」
「いや」
大きく深呼吸をして、どこか遠くを見るような目をしたパインがようやく反応する。
「一緒に行こう。私も、マサヨシに話したいことがある」
遠慮がちに揺すられて、マサヨシは目を覚ます。
全身の倦怠感はかなり薄れている。それなりに回復したのかもしれない。そんなことを思う。正直、目を閉じた時はこのまま永遠に覚めない眠りになるのではないかと思うくらいに疲れ果てていた。
「お休みのところ、すいませんね、マサヨシさん」
幾分か表情の明るいジャックの顔を見て、マサヨシは直感的に上手く話が進んだのだと分かる。
「見つかった?」
「ええ、あっさりとね。無事です。犯人は結局逃がしてしまって、捕まえるのも難しいですが」
「そっちは、いいや、とりあえず。無事なの?」
「ええ」
にっこりと、満面の笑みを浮かべるジャックは、いつもの印象とは違って子狐のようだ。
「それはよかった」
「それで、マサヨシさん。あいつが、二人きりで話がしたいと。断りますか?」
あいつ、というのが誰のことかは、言われるまでもなくマサヨシには分かっている。
「いや。二人きりで話すべきだろうね。入れてくれ」
「はいよ」
出て行こうとするジャックを、
「あ、ちょっと」
マサヨシは呼び止める。
「ありがとう、世話をかけた」
「いいんですよ」
「あの、覚えてる? 俺が言ったこと、本気だよ」
言われて、怪訝な顔をするジャックに、
「義勇軍の代表、ゆくゆくは君にしてもらいたいって話。相応しいと思うんだ」
「んー」
がりがりとジャックは頭をかいて、
「せっかくですけど、やっぱり頭はマサヨシさんじゃないと駄目ですな」
「どうして? 君は慕われてる。腕だって立つ」
「けど、金がない。金を稼ぐのが下手だ」
自嘲の笑みと共に、ジャックは肩をすくめる。
「金を稼げなきゃ武器を買えない。人を動かせない。駄目ですよ、金稼ぎが下手な奴は。俺は、ここの生まれです。だから、それがよく分かってる」
そう言って、マサヨシの返事を待たずに出て行く。
マサヨシは、その閉じられたドアをじっと見る。
ふられたか。けど、どうにかして受けさせてみせる。平穏な生活のために。
そう、心に決める。
しばらくして、入れ替わるようにして、パインが現れる。
憑き物が落ちたような、すっきりとした顔をしている。ただの老人にしか見えない。かつての、不気味なオーラのようなものはすっかりと消え去っている。
「やあ」
「どうも、パインさん」
「まず、礼を言いたい。ありがとう」
頭を下げてから、マサヨシにまで近づいてくる。
「町の治安を守るのも義勇軍の仕事ですから」
「そう言ってもらうと、助かる」
ベッドの傍に来たパインは、しかしマサヨシに顔を向けず、傍にある小さな窓から外を見る。外には、蛍のような光の揺らめく、トリョラの夜景が広がっている。
「私の町だ」
パインは呟く。
「私が血と汗を流して作った。私が支配した」
「そうです。あなたの町です」
「意識していなかったよ。私の町であるが、同時にノライの町でもあった。それを、君に突かれた。だが、それは、まだマシなミスだ。ノライの外にも国がある。トリョラは所詮、ノライと言う数ある国の中の小国の、そのまた数ある町の一つに過ぎない。それを知識としては知っていたが、忘れていた。ずっとこの町を支配し続けて、忘れ去っていた」
陶然と、パインは夜景を眺め続ける。
「ノライが他国から攻撃されれば、この町にも危険が及ぶ。内部の支配ではどうしようもない力によって。当然だ。当然の話だった。歳は取りたくないな、マサヨシ」
ゆっくりと、マサヨシも上半身を起こして窓の外の夜景に目をやる。そこから見える光の一つ一つに、住民の生活があると考えると不思議な気もする。
「アインラードに脅かされるなど、想像もしていなかった。おまけに、気付いた時には、私は弱くなっていた。弱点だらけだ」
「ご家族ですか」
「昔のようにはいかん。昔は、自分ひとりの命ぐらい、いくらでも張れたものだが」
「それだけ幸せ、ってことでしょ」
「そうだな。気付かなかった。私は、幸せになっていたのか」
夜景から目を離し、パインは自分の皺だらけの両手に目を落とす。
「幸福は、手に入れると守りたくなるものだ」
ようやく、パインの目がマサヨシを向く。
「もうじき、トリョラは戦火に包まれるかもしれない。他で生きていける人間は逃げ出しつつある。私の部下ですら、何割かは逃げ出そうとしている。私がずっと止めていた、が。それももう終わりだ」
最後に目に焼き付けるように、もう一度だけトリョラの夜景に目を向けてからすぐに視線を戻して、
「私はこの町を出る。家族と共にな。力のある部下も多くがトリョラを出るだろう。この町を覆っていた裏の仕事のネットワークも破壊される。私が作ったネットワークだ」
しっかりと、パインはマサヨシの目を見つめて、
「これからは、トリョラは君の町だ。アインラードに滅ばされるまではな。私は降りる」
ふっと、パインは笑う。今までマサヨシが見てきたパインの笑みとは違う。目が笑っている笑みだ。
「さて、話は終わった。孫に会いに行くとしよう。ようやく、ただの老人として孫に会える」
弱々しく、けれど軽快な足取りで、パインは部屋を出て行く。
それを見送ってから、マサヨシはゆっくりとベッドから降りて、窓の傍まで近づく。窓の外、夜のトリョラからの風を顔に受けて、目を細める。
「終わったな」
トリョラの夜景に向けて呟く。
当然、返事はない。