引導2
目を開く。
薄暗い部屋だが、清潔でほこり一つない。真っ白いベッド。
そこに、半日の間にやつれたマサヨシが寝かされている。まだ少し充血している目はぎょろぎょろと動いて、視線が部屋を彷徨っている。
不思議そうに自分の手を上げて、痩せた自分の腕を眺める。
「どこだ、ここ」
しわがれた声。
自分のものではないみたいで、マサヨシは驚く。
「病室。トリョラではおそらく一番まともな病室だ。大人しくしてろ、命に関わるぞ」
無愛想な声。部屋の隅で、髭面の中年の男がなにやら薬を調合している。
見たことがある。トリョラにいる闇医者の一人だ。
「俺、倒れてからどのくらい寝てた?」
「まだ半日だ」
「助かったのか?」
「今のところは。安心するなよ。あんたに使われた毒は即効性はあるが、健常な成人が即座に死ぬようなものじゃあなかった。だから、とりあえずあんたの体の抵抗力を高めてやっているから、安定している」
「解毒剤は?」
「ない。おそらく、暗黒大陸の毒だ。どうにもならん。あんたの体が毒に打ち勝ってくれるのを期待するだけだ。ほら」
緑色の液体の入ったカップを渡されたマサヨシは、明らかに不味そうなそれを顔をしかめながらも飲み干す。
これ以上ないくらい苦い後味だ。
「滋養強壮、それに呼吸の安定だ。これでしばらくは大丈夫。毒が消えるまで大人しくしておくんだな」
「分かったよ、先生。ところで、俺に客、来てない?」
「来てる。だが、待たせている。絶対安静だからな」
「頼むよ、呼んでくれ。そいつと話した方が俺の精神衛生上いいんだ」
「いいとも。後から文句を言わずに、金さえ払ってくれるなら問題なしだ」
闇医者は肩をすくめると、部屋を出て行く。
しばらくして、入れ替わるようにしてジャックが入ってくる。
「マサヨシさん」
横になっているマサヨシを見て、ジャックが心配そうな声を出す。
「悪いね、ここまでつれてきてもらって。おかげで助かった」
頼みの一つは、自分を医者のところまで連れて行ってくれ、という当然と言えば当然のものだった。
「いえ」
「それで、もう一つの頼みごとの方は?」
「いいんですか?」
「ああ、もう、来てるの? 入れてくれ。それと、ジャック。何があっても、勝手に動かないでくれ、頼むよ」
黙って頷いたジャックが、ドアを開けて上半身を外に出して、何事か伝える。
そうして、ジャックに促されて、老人が一人部屋に入ってくる。
「俺も情けない姿ですけど、そっちもなかなかですね」
思わず、そんなことを言って笑ってしまう。
入って来たのは、明らかに憔悴した様子のパインだ。
普段より更に痩せている様子のパインの全身からは、全く覇気というものが感じられない。目にも生気がない。
「呼び出して、すいませんね」
「いや、構わんさ」
声も弱々しい。
「まあ、色々あるんですけど」
充血が取れない目を、パインに向けてマサヨシは微笑む。
その横で、敵意を隠そうともしないジャックが身構えている。
「どうして、今、俺に毒を?」
沈黙。
それを埋めるように、マサヨシは続ける。
「さすがに今、俺を毒殺するんじゃ、ばればれですよ。暗黒大陸の毒だからって、危険が大きすぎる。それに時期が時期です。今、俺が死んで、義勇軍が瓦解すれば、トリョラ自体が崩壊しかねない。殺せないはずでしょう。それに、さっき聞いたら、確実に俺を殺せるような毒でもなかったみたいです。まるで、行動が無茶苦茶だ」
「何を言っているのか分からないな」
せめてもの抵抗として、パインがそんなことを言うが、
「だったら、どうして俺に呼び出されたからってこんなとこまで来たんです?」
マサヨシのその言葉に沈黙する。
「俺には、あなたの迷いや混乱が、今の俺のこの結果のような気がしてならない。だから、確かめるために呼んだんです。そして、あなたは来た。ねえ、パインさん」
今にも飛び掛りそうなジャックを目で制してから、
「あなたほどの人が、ひどく迷って、混乱している。その挙句、俺に確実に死なない程度の毒を打ち込まなきゃいけなくなった。一体、何があったんです? あなたはトラブルを抱えている。俺だって、そのトラブルのせいでこれからもあなたに狙われるのは御免だ。協力できませんか?」
その申し出に、一瞬だけ抵抗するようにパインは胸を張るが、すぐに背を丸めて、老人そのもののようなため息を吐く。
「座っていいか」
「どうぞ」
そうして、パインの話が始まる。
パインの話をまとめると、つまり一言に集約される。
「誘拐かよ」
それを、ジャックが呟く。
孫娘が誘拐された。つまり、そういう話だった。要求されたのは身代金ではなく。
「俺の殺害か」
青白い顔を、マサヨシはジャックに向ける。
「どう思う?」
「アインラードの連中でしょう、間違いない。例の紙幣の件もありますからな。義勇軍が目障りなんでしょう」
明快に答えるジャックに、マサヨシは同意するでも否定するでもなく、
「俺を殺さなかったのは?」
今度はパインに目を向ける。
「殺したとして、孫が無事に戻ってくる保証はない。いや、そこの男の言う通り、おそらくは義勇軍が邪魔なアインラードの差し金だ。だとすれば、お前を殺した途端にトリョラに攻め込んできてもおかしくない。当然、孫は厄介払いで殺される」
呆然としているパインは、どこか他人事のように淡々と話す。
「とはいえ、何もしないでいれば、連中は孫を殺す。何かを、するしかなかった。表面上は、要求に従った振りをする何かを」
「俺が倒れれば、お孫さんを誘拐した連中には要求を呑んで行動したように見えるし、かといってまだ死んだわけじゃあないから義勇軍が崩壊したりはしない。なるほど、いい時間稼ぎですね」
感心したように手を打って、マサヨシはゆっくりと上半身を起こす。それだけで、猛烈な勢いで自分の体力が消費されていくのを感じる。
「マサヨシさん、まだ無理しちゃ」
「大丈夫、大丈夫。さっき無茶苦茶まずいの飲んだから、多少は体が楽なんだ」
止めようとするジャックの腕を握って、体を起こしきる。
「パインさん、あなたの部下に、捜索はさせてるんですか?」
「無論だ。だが、なにぶん、人が足りないし、何と言うか、私の部下は、目立つ」
確かに、明らかに堅気じゃない面相の部下が多いだろう。
「分かりました。ジャック、義勇軍と、その家族や友人、知り合いを全員動員してくれ」
ぐっと体を近づけ、至近距離でマサヨシとジャックの目が合う。
「目立たないように、捜索をしよう。ああ、パインさん、どこで攫われたとか、誘拐した子どもを隠すのに適した場所を教えてください。義勇軍の皆で、警備をしていると見せかけて捜す分には怪しまれないはずです」
「協力するんですか」
口を大きく開けるジャックに、
「君らしくもない。いいかい、犯人確保よりも、無事に保護することが最優先だ。罪もない子どもが誘拐されてるんだ。助けなくてどうするのよ?」
マサヨシがそう投げかける。
一瞬、ぽかんとしていたジャックだが、すぐににやりと笑うと、
「とりあえず、連絡回してきますわ。なあに、今のトリョラの状態なら、少し声をかけりゃ、百人はすぐに動員できます」
言うが早いか、飛び出していく。
残ったのは、パインとマサヨシ。
「すまん。すまんな」
老いた声で、そう言う肩を落としたパインは、本当にただの老人にしか見えない。
「いいですよ」
息を吐いて、再び上半身を倒すとマサヨシは目を閉じる。一気に疲れた。魂が口から出ていきそうだった。
「少し、寝ます。俺、死にませんよね」
「大丈夫なはずだ」
その返事を聞いて、安心したマサヨシは意識を手放すことにする。
「俺はね、パインさん」
ふと、眠りに落ちる直前、言い忘れたことを思い出して目を開けぬままでマサヨシはそれを口にする。
「あなたにとって代わろうなんて考えは毛頭ない。あなたの敵じゃないんです。ただ、静かに暮らしたいだけだ」
返事はない。やがて、マサヨシは眠りに落ちる。