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階段を上がる。一段一段、踏みしめるように。
なにせ、足取りが怪しい。うっかりすると踏み外してしまいそうだ。
誰もいない。人の気配もない。
今、この瞬間に襲われれば、防げずにそのまま階段を転げ落ちてしまうだろうと思う。絶好のチャンスだ。なのに誰も襲ってこない。妙だ。
妙だと思いながらも、パインは足を動かす。どのみち、けじめをつけるしかない。道はそちらにしかない。
二階に上がる。
まだ気配はない。今や、トリョラを支配している組織、そのトップの屋敷とは思えない、がらんとした部屋がただただ並んでいる。大きな家具はそのままだが、小物や、その家具の中身なんかは全て空になっている。まるで。
「夜逃げでもした、かあ?」
呟いて奥へ。
ヤオの私室らしき部屋まで押しかける。何もない部屋。そこに、
「ようやくか」
椅子だけが部屋の中央にあり、そこにビファーザが座っている。こちらに顔も向けず、爪を磨いている。
「待たせたか?」
「これで二周目も終わりだ。もう、爪が全部ぴかぴかになってしまったよ」
ふっと自らの指に息を吹きかけてから、ビファーザはようやくこちらを見て、呆れた顔をする。
「おい、酔ってるのか?」
「まあ」
「ひょっとして、ここに来るのが遅れたのは酒を飲んでいたからか? 全く、信じられないな」
「ちょっと待てよ。別に何時に来るって約束してたわけじゃねえだろ」
「それはそうだが、普通、シアムの兄弟のところを襲撃したなら、そのまますぐにでも来ると思うだろう」
そうか、あの襲撃がばれていたのか。いや、それはそうか。特に隠しているわけでもなかった。ハンクの奴にばれているなら、ビファーザにもばれていてもおかしくない。パインの知る限り、抜け目のなさでは二人とも同じようなものなのだから。
「……ヤオさんは?」
「ヤオの親分はびびってしまってね……幹部の連中も全員。今頃、この町から逃げ出しているさ」
「は? なんで?」
「あの『狂犬』がシアム一派を皆殺しにしました。次はここに来ると思います。そう言っただけだよ。正直に報告しただけだ。それで、あいつらは逃げ出した。まあ、金ならある。他の町でこじんまりと生きていくには十分だろうね」
信じられない。
「迎え撃てばいいだろうが。オヤジが一人事務所に殴り込みに来るからって、逃げ出すかあ、普通? しっかり準備してりゃあ、殺すことなんて簡単だろうによ」
「怖いんだよ、伝説の『狂犬』が……」
「昔の話だ」
「どこが。しっかり準備してたら殺すことなんて簡単、なんだろう? 殺されることが分かっていてそこに殴り込みに行く人間が『狂犬』でないわけがない」
「はん」
肩をすくめて、
「で、俺はその逃げた連中を追わなきゃいけないのか?」
「ご安心あれ。奴らは今回の件にはほぼ関係ない。わざわざ追う必要はない」
「奴ら『は』ってことは、お前は?」
「僕? シアムは僕にそそのかされたとでも言ったか?」
「いや。だが――お前が清廉潔白だと考えるほど、俺は付き合い浅くないつもりだ。兄弟分なんだからよ」
「――パイン、ここ、屋上があるんだ。夜風にでもあたりながら、どう?」
やすりを懐にしまい、ビファーザが立ち上がる。
そしてパインの返事を待たず、すたすたと無造作にパインの横を通り、そのまま廊下の奥へと進む。
相手のペースに呑まれているようで気に食わないが、ビファーザの思った通りに動かされるのは別に今に始まったことじゃあない。
パインは諦めてその後を追う。
夜風が気持ちいい。酔いで火照った頭には、特に。
「まだ酔いが冷めないのか。まったく、余程飲んだんだな」
「いや、そこまで量は飲んでないんだ。あれだ、質が悪くてな」
「質……? ああ、密造酒か」
「分かるか?」
「出回っていたシュガーは徐々に消えつつある。密売で小金を稼いでいた、正規の職につけない貧乏人共が密造酒に移行しつつあるのは知ってる。その酒を安く仕入れて高く売っている連中がいるのもな」
ああ、とパインは頷く。
「たちの悪い薬が消える代わりに、質の悪い酒が出回るわけか」
「酒の方がましだろう――これから、その密造酒を押さえるものが町を押さえることになる。組織はそこを重視すべきだろうな」
「他人事のように。もう、動いているんだろう?」
「よく分かっているじゃあないか。貧民や犯罪者、そのはざまにいる連中をまとめるのが僕たちの組織の役割だ。先を越されるわけにはいかない。これで僕たちは裏を押さえ、パインが表を押さえる。これまで通り、僕たち兄弟がこの町を支配する。どう?」
「どう? そうだな、興味はない。まあ、パイングッズでそれなりに食っていければいいよ。商工会の会長も、別にさっさと降りても何も問題ないしよ」
「ふうん」
ビファーザはタバコを取り出す。
「吸うかい?」
「ガキできてからやめてたんだけどよ」
「今日くらいいいだろう?」
「まあ、な」
受け取り、咥えるとビファーザが火を差し出してくる。タバコに火をつけ、煙で肺を満たす。
ビファーザも同じようにして、煙を吐き出している。
「お前も吸うんだな」
「僕も普段は吸わないようにしている。爪が汚れる」
それきり、二人とも黙って並んでタバコをふかす。
「……綺麗だなあ、夜景」
普段そんなことは思わないし言わないが、トリョラの町々を見下ろしていたら自然とそんな言葉が出てくる。
真っ暗な中、家々から漏れる光がまるで星のようだ。天にも星、地にも星。綺麗なものだ。
「僕たちが鉱山の中にいたころは、この辺は荒野同然だった。夜には、ただただ暗いだけだったはずだよ」
「ああ、発展したもんだよな、トリョラも」
「……全てはあの『料理人』の掌でね。この国にはふさわしくないくらいの傑物だよ、あの男は。全てコントロールしていたんだ。彼が実績と、国の要人へとばら撒く金を手に入れる。そのために作り出された町だ」
「だとしても、つくったのは俺たちだ。違うか?」
「だが、僕たちでなくてもよかった。僕たちが選ばれたのは、単なるタイミングだよ。あの時、活きがよく、それなりに野心と能力があった。だから、選ばれた。僕もシアムもお前も、多分、他にも何人も。頭角を現しそうな連中を皆、手駒にしていたんだ」
「別にいいだろ、それで……何が不満なんだ?」
「ふふ」
煙と一緒に笑いを吐き出してビファーザは、
「そういうところ……お前は何もないんだなあ。プライドも、こだわりも……自分が取るに足らない、多数のうちの一人だと思われて、見下されて、いいように利用されてきた。そう分かっても、何も思わないんだな。吠えて噛みつきそうなものだというのに」
「狂犬なんて言われてても、そこらへん大人しいもんなんだよ、俺。飼い犬もいいところだろ?」
「はっはっは」
笑い、ビファーザはタバコを投げ捨て、
「僕はそこまで達観できないんだ。この町を支配して、更に上に行って、『料理人』の目の前に立ちたいんだよ。利用されていた僕が、対等な敵として立って、そして勝ちたいんだ……このあたり、シアムも無意識だけど同じ考えだったはずさ。器が小さいのかな?」
「さあね。少なくとも、俺には理解できない感情だ」
パインは本心から言う。
「あんなくそみたいなとこで生きてきて、何も持たなかった俺たちがここまで来れた。それでいいじゃねえか。人の上に立ったり、幸せにならなきゃおかしい、不公平だ、みたいなこと言う権利はない。そんなことを言えるような、聖人君子みたいな人生じゃねえし、それに文句つけてたらばち当たるだろ」
「達観してるのか、欲がないのか」
呟いてから、無造作に、本当に無造作にビファーザはナイフを突き出す。ふざけ半分にパンチを出したような無造作さで、それはパインのわき腹に突き刺さる。