30
月が綺麗だ。
夜空をこんな風に眺めるのは、久しぶりな気がする。ほう、と息を吐く。地面に仰向けになり、視界が全て夜空になっている。いい気分だ。少し寒い。
機械のようになりたかった。実際、それは成功しかけていたと思う。
アルバコーネ地方、内戦続くあの地方で、親の顔も知らず産み落とされた。物心ついた時には命令に従って人を殺していた。機械のようにただただ命令に従って殺し続けた。そのうち、本当に機械になれば楽だと感じるようになった。だからそうした。
別の道を選んだものもいた。彼はまだ生きているだろうか。命令よりも何よりも自分の命を長らえることだけを優先していた青年。そうする者ほど早死にするものだが、彼は生き延び続けていた。片目を失いかけ、全身傷だらけになってもそれでも生き延びていたあの青年、名前は確かドラッヘだったか、彼は自分の対極だ。
ドラッヘはそちらの方が苦しいことは分かっているのに、人間として生き汚く戦場を這いずり回っていた。自分はただひたすらに命令に従うだけの機械になって、何も感じないようにしていた。
それがこんなことになるなんて。
人の声が遠くに聞こえる。こちらに呼びかける声。とても遠い。
フロインは、ようやく視線を地面に向ける。転がっているにんじん、たまねぎ、その他もろもろ。一番近くにあったたまねぎに何となく左手を伸ばす。それをころころと転がしてみる。
こんなものを手にする生活。そんなこと、想像もしていなかった。
フロインが戦場を逃げ出したのは、特に理由があってではない。ふと、戦場に特化した機械である自分が、外ではどんな風に動くのか気になっただけだ。そして、外に出る力も既にあった。それだけのこと。何もなければまた戦場に戻ればいい。そう思っていた。
外に出ても、結局同じだった。命令に従って人を殺すことしかできず、そういう仕事で日銭を稼いでいた。
ある日、『狂犬』と出会った。目が血走った若造、本物の戦場ではすぐに死ぬ馬鹿、そんな印象しかフロインにはなかった。
まさか、あいつとくっつくとは。今更ながらおかしくなってフロインは少し笑い、そのせいで腹の傷が痛む。
はあ、と息を吐く。右腕でしっかりと抱いていた子どもが泣き出す。困った。子守唄。駄目だ。自分は、そんなものを知らない。
また月を見る。満月だ。美しい。笑ったり、子を抱いたり、月をこんな風に見たりすることになるとは思わなかった。分からないものだ。寒さが酷くなってきた。背中と接している、地面が酷く冷たい。
フロインはたまねぎから手を放す。左腕でも我が子を抱く。信じられない。こんなことが起こるなんて。改めて考えてみれば、これは奇跡だ。
笑う。
泣いている。嗚咽。近所の店の女将や主婦たちだ。泣き崩れて立てないでいる者もいる。あのフロインが、こんなに近所の連中に慕われていたのかと多少驚く。やはり、ヨモウのボディーガードをしていた頃のイメージがあるから、どうしても違和感が拭えない。
「よお、気を落とすなよ……といっても、無理だよなあ」
多少やつれた顔をして、近所の金物屋の店主が声をかけてくる。
「ん? ああ……色々と手伝ってもらって悪いな。助かったよ。葬式なんてしたこともなかったし」
「まあ、うちのおやじが死んだ時に色々やったからよ、俺も……なあ、本当に、大丈夫か?」
「大丈夫だけど」
言いながら、隅の方に移動すると、店主もついてくる。
「顔色悪かったりするか?」
「いいや、いつも通り過ぎるから、心配なんだよ。こんなことになっても、商工会の方の仕事もやってるしなあ」
「会長だから、認可印を押すだけだ。大して負担でもねえよ」
パインがそう言うと、向こうは唸り、
「そういうことじゃねえんだけど……ま、お前さんがそうならそれでいい。それにしても、はあ、まさかなあ」
目が潤み、鼻をかむ。パイン以上に、ショックを受けているようだ。かなりフロインは近所づきあいをうまくしていたんだな、とまた驚く。
「子どもが無事だったのが何よりだなあ……フロインさん、必死で庇ってたらしいじゃねえか。あの子は?」
「寝てるよ。今、裏で……ああ、どうも」
そこで、知り合いが近づいてきたので向き直り挨拶をする。城で兵士をしている中年の男だ。
「パイン、今回は、残念だったな……」
「あんたらが見回りに来てくれなかったら、子どもまでやられてたかもしれないんだろ? 礼を言わないとな」
「いや」
男は苦々しく顔を歪め、
「犯人連中を捕まえられなかった。すまん」
「ああ、まあ……で、やっぱり物盗りのせんはないのか?」
「何も盗まれていないし、俺たちが見た時には、犯人連中は何とか、その……フロインさんから、子どもを奪おうとしていたみたいだ」
ふむ、とパインは頬に手を添え考える。
フロインが夜、買い物から帰る途中に襲われた。犯人は複数。夜に子どもを抱いたまま外を出歩くなど危険極まりないが、最近は日が落ちるのが早い。夕方だったのがあっという間に夜になる。それに、パインは最近会長職が忙しくて家にいる時間が少ない。子どもを置いていくわけにもいかなかったのだろう。
発見したのは見回りをしていた兵士。声を出すと犯人たちは逃げていった。助けを呼びつつ犯人を追おうとしたが失敗したという。
フロインはしばらくの間は息があったが、医者が到着するまでに絶命した。微かに笑ったり、たまねぎを撫でていたというから、パインにしてみれば我が妻ながら意味の分からない奴だ。
ともかく、フロインは数人に襲われた。そして、目撃者の話からすると、子どもが目的だったらしい、ということだ。
そしてそれはパインからしても合点がいく。
もしもフロイン自身を狙っていたのならば、いくら鈍っていたとはいえ、あのフロインをそう簡単に殺せなかったはずだ。フロインではなく子どもを狙っていたからこそ、彼女はそれを必死で庇い、だからこそ殺された。そう考えた方が分かり易い。
となると、誰が。
「――おい、おい、パイン」
考えに耽っていると、例の店主に肩を叩かれる。
「あっ、ああ、何だ?」
「最後のお別れだってよ。お前、一応喪主だろ? 神父様に丸投げしすぎだぞ」
「学がないもんで、どうしていいか分からないんだよ」
言い訳しながらも、パインは前に出る。
啜り泣きが一層大きくなる。木製の棺、その前まで進む。フロインがまるで眠っているような姿で納められている。犯人は子どもを庇う彼女を何度も何度も斬りつけたらしいが、棺の中の遺体はきちんと綺麗な姿にしてくれている。
眠っているような顔をそっと撫でてみる。冷たく固い。
自分がシチューをリクエストするから彼女は買い物に行って、そして命を落とすことになった。ひょっとして、他のものをリクエストしたら彼女は生きていただろうか、と考えてその馬鹿馬鹿しさに首を振る。
悲しみはない。むしろ、不思議さがある。フロインのような人間が、葬式をあげてもらい、そしてその死に泣く人々までいるとは。こんな、まともな人間のような死に方をするなんて思っていなかった。自分やフロインみたいな人種は、泥の中で孤独にのたうちまわって死ぬものとばかり思っていた。だから。
少しうらやましいな、フロイン。そう内心語りかける。俺が死ぬ時は、多分こんな風にならない。