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唸り、首を捻るヤオにビファーザは表情はそのままで頭を下げる。
ヤオの事務所。人払いは済んでいる。だだっ広い居間には二人きりだ。
「事後報告で申し訳ありません。ともかく、そういうわけで今、シアムには監視を付けています」
「生きていたとはな」
白いものが混じりつつある毛を逆立てて、ヤオは呻く。
「それに、お前があいつを殺したというのも初耳だ」
「言ってませんでしたからね」
老いたな、とビファーザはふと改めてヤオを観察する。筋骨隆々としていた体躯は、僅かだが萎んでいる。かつてのヤオならば、この話を聞けば逆に目を輝かせてシアムを改めて殺せることを喜んでいただろう。パインと同じだ。誰もが、若いままではいられない。
「さっさと口を封じた方がいいんじゃあないか? お前が殺しかけたとあいつが言い出したら……いや、そもそもあいつが生きていること自体が、跡目を決めなおすって話につながるかもしれん」
「それならそれでもいいでしょう。シアムがそう主張して、残っている反体制派とヨモウが出しゃばってきてまとまれば、それを一気に叩き潰せばいい。そうすれば盤石です」
「……ビファーザ。お前、何か企んでいないか?」
あまりにも直球なその質問にビファーザは思わず少しだけ笑い、
「まあ、色々とね。ただ、ヤオさんを消して僕が跡目になろうとか、そういうことはないんで気にしないでください。頭はヤオさんでいいですよ……とにかく、シアムのことは見張っておきます」
「ああ、頼むぞ、ビファーザ」
「……そういえば、あの獣人たち。シュガー狩りに使ってた連中、どうしてます?」
ヤオが手懐けていた若者たちだ。ヨモウとシアムのシュガーを狩るために使っていたが、跡目がヤオになってからはシュガーを狩り尽くしたらしいこともあって、最近は使っていないし名も聞かない。
「もちろん、まだ飼ってるぜ。ただ、なあ。最近はもう荒事も少ない……仕事がなくて連中もイライラとしているようだ。厄介のタネになるかもな」
「ならちょうどいい。そいつらを臨戦態勢で待機させておきましょう。シアムが妙な動きをしたら突っ込ませるために」
「ああ、そりゃあ、いいな、うん」
妙にヤオの歯切れが悪いので、
「何か?」
「ああ、いや……実はな、今、連中の中にえらい狂暴な獣人のガキがいてな……元々、シュガーの売人を単独で狩っているからスカウトしたらしいんだが、何と言うか、見誤ってなあ」
「というと?」
「骨の髄から正義漢なんだよ。俺の金は受け取らないし、仲間でも汚いことをしたら噛みついている。起こした揉め事は一度や二度じゃあない。とにかく狂暴で後先考えない奴だから、使えるのは使えるんだがなあ。さっき厄介のタネって言ったのは、それもあるんだよ」
「つまり、シュガーの元凶の一人であるシアムがまだ生きていると教えた日には、臨戦態勢どころかそのまま暴走して突っ込む、ということですか。なら、そいつにだけ教えないようにすればいいだけのことでしょう」
「いや、そういう奴なんで、敵も多いが、妙に可愛がっている奴も多くてな。町にもつながりのある奴が多い。だから、連中に教えてそいつに情報が伝わらないってのは、どうもな」
「……なるほど」
正義漢、というのが違うが、それ以外はどこかかつてのパインを思い出させる。ビファーザは妙に興味をかきたてられる。
「その獣人の名前は?」
「あ、ああ……ジャックだ。狐のジャック。まだ小さいってのに、自分の背丈くらいもあるでかい剣を持ち歩いているから、見ればすぐに分かる」
シアムとその舎弟との手紙のやり取りを仲介すること十数回。
「そろそろ、移ることにするぜ」
というシアムのセリフを聞いた時、パインは言葉通りに飛び跳ねた。
「マジかよ、いやあ、よかった!」
「おい、兄貴が離れるのがそんなに嬉しいのかよ」
「兄貴が復活するための第一歩を踏み出したってことだから、そりゃあ嬉しい」
心にもないことを言って、
「ちなみに、どこに?」
一応、ビファーザへの義理として探りを入れておく。
「悪いが、兄弟分と言えどもそれはそう簡単には教えられねえな」
「あ、そう。そりゃあ、そうだろうな。分かった。文句はない」
あっさりと引き下がり、パインは屋根裏部屋から降りようとする。
「おい、パイン、どこに行く気だ?」
「家に帰る」
息子の顔も見たい。つい数時間前の昼休憩に見たばかりだが。
「もう店閉めるのか、どういうつもりだ?」
「しっかりしてくれよ、兄貴。俺にも居場所は知られたくないんだろ? 荷物まとめて、その次のアジトに向かうところを俺に見られていいのかよ? 俺が裏切り者だったら尾行してやるぞ」
う、とシアムは言葉に詰まる。
「迂闊すぎだよ、兄貴は。まあ俺は裏切り者じゃあないけど、とにかくそうした方が兄貴も安心だろ?」
嘘だ。本当は裏切り者だし、店を閉める理由はシアムのことを口実にして早く家に帰りたいだけだ。この時間なら息子と一緒に夕食が食べられる。
「あ、ああ。確かにそうだ。悪いな、気を遣わせてよ。俺が組織の跡目とったら、必ずこの恩は返す」
「兄弟分だろ、水臭い」
ひらひらと手を振って屋根裏部屋を降り、手早く店を閉めるとそのまま大急ぎでビファーザの事務所まで向かう。
「どうした?」
リラックスした様子で爪を磨いていたビファーザは飛び込んできたパインに目を向けてくるが、すぐに何の用か察したらしく、
「――今日か?」
「荷物をまとめ次第出ていくんじゃあないか? 一応、報告しておこうと思ってな」
「悪いな。お茶でも出そう」
「別にいい。俺はそのまま家に帰る」
それだけ言うと、来た時よりも足を速く動かして自宅へと向かう。
大のお気に入りのシチューを前にした息子は、ご機嫌で、あばば、と意味の通らない叫びをあげながら不器用なりに木のスプーンでシチューを自分の口へと運んでいく。もちろん、口の周りを盛大に汚しながら、だが。
「しかし太ったなあ」
ぱんぱんに膨れた我が子を眺め、パインが思わず言う。可愛いという感情よりも、あんな小さな存在がここまで丸々と大きくなって動いていることに不思議な感動がある。
「お前がいくらでも食べるからって食事も菓子も際限なくあげているからだ」
息子の口を紙で拭いてやりながら、フロインが冷たい目で見てくる。冷たい目、ではあるが鋭さはない。一児の母となった彼女には、今やあの頃の鋭さはない。
「だってうまそうに食うからさ」
「あげればいくらでも食うよ、こいつは」
だが我が子をこいつ呼ばわりするところは、何となくフロインらしい。
「まあ、確かにあんまり健康にもよくないな」
「それだけじゃあなくて、教育に悪い。甘やかしすぎ」
「そうか? まあ、甘やかすのもよくない。分かった。今後気を付ける」
大きな懸念材料が消え去ってくれたせいで気分が軽いパインはいつもよりもあっさりと受け入れる。
「やけに素直な……?」
「何でもない。勘ぐるな」
妻にはシアムのことは一切話していない。
「そう? ……そうそう、明日買い物に行こうと思うんだけれど、明日は何が食べたい?」
「え? ああ、そうだな……おい、何か食べたいものあるか?」
パインが息子を肘でつつくと、
「うあーシチュー!」
「だってよ。明日もシチューでいいんじゃないか?」
「全然分かってない。それが甘やかしすぎだって言ってるの」
「別に俺、そんな食いたいものないし。シチューでいいだろ。ごちそうさま」
延々と文句を言われるのが分かっているので、パインは食器を洗い場に持っていく形で退散する。