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次でこの番外編2はおしまいです。
振り返ったリゼが見たのは、白いシャツの上に黒いジャケットを羽織った、顔色の悪い男。その男が、入り口に立ち尽くしている。
血の気の失せた顔、そしてその顔の上を傷がいくつかはしっている。生気の失せた目の瞳は黒。髪の色も黒い。いや、髪は半ば灰色と化している。それほどの歳ではないだろうに、白髪がかなり多い。
やせ細ったその男には、片腕がない。
ヒーチ以外には見たことのない黒い瞳と髪。黒を基調とした服装。間違いない。
「……『ペテン師』、ですか」
勝手にリゼの口が動いて呟いている。
「あまりその呼び名は好きじゃあないんだ」
痙攣的に笑顔を作ってから、すぐに表情をなくして、男は入り口からするすると入ってくる。そのままリゼの横を通り過ぎ、ちょうどリゼとヒーチの間くらいの位置にまで進んで、浅く机に腰かける。
男、リゼ、そしてヒーチで正三角形ができるような位置関係だ。
リゼは呆然と男の動きを見守っている。
この男が、『ペテン師』。
過去を消した男。一切が謎のまま突如としてトリョラに現れて、あっという間に町を牛耳った怪物。ミサリナをエリピア大陸を代表する商人に変えた立役者。闇社会の大物だったパインを追放し、ガダラ商会のクーンを消した。アインラードとノライの戦争で暗躍し、順風満帆だったシャロンを躓かせた。あの『料理人』と密約を結び、ノライのロンボウへの吸収にもかかわっていたという。そして、『無能王子』フリンジワークを殺し、自らの存在を消した。
無数の伝説のある、いや伝説しかない、掴みどころのない人物。一部では存在自体を疑う声すらあがっている半分幻想となった男。
それが、目の前にいる。
信じられない。
「久しぶりじゃあないか」
ヒーチの言葉に、『ペテン師』、マサヨシは軽く頷いて、
「色々とカタがついたから、もう誰の前にも顔を出さないつもりだったんだけどね。ほら、イソラ大陸に行ってさ、行ってというか戻って、そこで朽ち果てるのを待つつもりだった。ところが、最近、夢で性悪な女に迫られてね」
「ああ、そっちもか」
意味ありげにヒーチが視線をリゼに向けると、
「そう。どうも、そっちのお嬢さんはあいつに会ったみたいだね。で、あいつに、このまま放っておいたら君が殺人事件の犯人にされるとか脅されてね。別にそれでも構わなかったんだけど、間違った情報が新聞に載ったら俺以外にも迷惑する人がいっぱい出るとか、下手したらまた戦争の火種になるとか、まあ脅されてさ」
「別に、僕の記事が原因でそんなことが起こるとも思えませんけど」
正直な感想をリゼが伝えると、
「だろうね。ただ、まあ、もしかしてってこともあるしさ。でもまあ、正直、そこまで信じてなかったから、俺がここ、問題の新聞社に着くまでに記事が出たら、まあしょうがないかってことでそのまま帰ろうと思ってたんだけど、間に合っちゃったから、口出しをね」
「ははあ」
合点がいったのか、ヒーチはぱんと手を叩く。
「そうかそうか。イズルがわざわざリゼの夢に出てきたのは、それでか。時間稼ぎの意味もあったんだな。さっさと記事が出てお前が何をするでもなく帰られても困るわけだ。ふん、小細工が好きな女だ」
「俺、全然分からないんだけどさ、どうして俺をここまで来させたかったわけ?」
「あいつは、自分の手柄でお前と俺を逢わせたかったんだよ。それで俺が恩に着て、またヨリを戻してくれるんじゃあないかと期待してるんだ」
「恩に着るって……父さん、俺とそんなに会いたかった?」
『ペテン師』が「父さん」とヒーチに呼びかけるのを見て、リゼは非常に違和感を覚える。そもそも、見た目からすれば『ペテン師』の方が年上に見えるくらいなのだ。
「もちろん。会いたかったよ、マサヨシ」
あっさりとそう言って照れる様子もなく微笑むヒーチ。そんな微笑みをするヒーチを初めて見た気がして、リゼは驚く。
幼子を見守る母親のような、恋人を見つめる青年のような、愛馬を撫でている兵士のような、そんな微笑み。
「……こっちはそんなに……いや」
首を振り、マサヨシは黒く淀んだ目を、ヒーチにまっすぐに向けて、
「やっぱり、俺も結構、会いたかったよ、父さん」
その言葉にヒーチは目を丸くして数秒固まり、
「……どうした、反抗期は過ぎたのか?」
「この歳で反抗期のわけないじゃない。ただ、ちょっと苦手意識が薄くなっただけだよ」
「苦手? 何に対してのだ?」
「いや、父さんに対してのに決まってるじゃん」
そのマサヨシの発言に、あからさまにショックを受けたらしいヒーチは固まっている。
「あのお」
気まずくなって、沈黙を作らないようにリゼは口を出す。
「ところで、例の事件ですけど」
「ああ、はいはい……」
マサヨシはリゼに顔を向けると、腰かけていた机をひと撫でする。
「その前に、メモとやらを見せてくれない?」
それもそうか、とリゼがメモを渡すと、マサヨシはぱらぱらとそれを流し読みをする。
時折、笑ったり、舌打ちしたりしながらもすぐに読み終えて投げて返す。
「お聞きしたいのは、推測の部分じゃなくてアランの証言の部分なんです。推測の部分はっきり言ってどうにでもなるんで、そうじゃなくて証言の時点で間違っていないか、とか。あるいは、アランが証言していない事件についての新しい証言があるか、とか」
「そうだなあ」
マサヨシは首をぐるりと回し、
「証言自体にはそんなに間違いはないかな。事件については、だけど。推測は無茶苦茶だけどさ。で、事件についての新証言かあ……あるには、ある。ただ、ちょっとそれ単体では説明しにくくてさ。俺の推測というか推理というか、それとセットで話していい? もう、結構うんざりしていると思うけど」
確かに言う通り、もう人の推測やら推理やらを聞くのはうんざりしていたが、それでもリゼは頷く。
「まあ、仕方ないですね」
「うん。父さんも、それでいい?」
「……ん? 何だ?」
呆然としていたのか、聞いていなかったらしいヒーチが慌てる。
「まあ、いいや。じゃあ、俺の話を始めるけど……とりあえず、まずは事実だけを先に言うよ」
「はい」
「例のコテージの錠に、内側から釘が突っ込まれていた件について」
一度机に腰かけ直してから、マサヨシは言う。
「あれをやったのは、俺だ」