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「大した、自信ですね」
もう微笑みを浮かべる余裕もないのか、言うルオの眼光は鋭い。
「自信というか、こういう戦法だと言っただろう? 額によって戦法を変えるのはよくない。この戦法がお前に対してはベストだと思っているから、いつだってこうする」
「フォールドです」
場の五百枚の札束をヒーチに放り投げて、ルオはカードを伏せて捨てる。
ヒーチもそれに続き伏せていたカードを捨て、
「次は、こっちが親だ」
最低金額の五百枚、さっきルオから放られたものをそのまま改めて場に出すと、カードを引く。
「おや」
ルオが目を細める。
「ついさっきと言っていることが違いますね。戦法は、変えないのでは?」
まずい。リゼは息を呑む。
ヒーチがこれまでとは違って最低金額でゲームを始めた理由は簡単だ。デッキの一番の上のカード、ヒーチが引くカードが明らかに弱かったからだろう。
だが、あまりにもあからさますぎる。これでは疑われてしまう、が。ヒーチの行動の意味も分かる。確かに、このかけ金、最後の一セットという状況では、なりふりを構っている場合ではない。
「ああ、このカードは弱いからな」
平然と、ヒーチが言う。左手でハンカチをひらひらと振る。
何を、言い出すんだ?
リゼはぽかんとする。
「……引く前にカードが強いかどうか分かっていたように聞こえますよ」
「そう言っているんだ。裏からカードの数字が分かるイカサマをしているんだよ。ああ、もちろん、冗談だ。そういきりたつな」
顔色が変わるルオ、ボディーガード、そしてリゼを見回し、ヒーチは薄く笑う。
「だけど、ただの冗談じゃあないかもしれない。どうする? 今からでもひとっぱしりリゼに近場の店に買いに行ってもらって、別のカードにするか? それとも、ここからはお互いに目隠しをしてゲームをするか? ふふ、色々と不便そうだが、お互い助手になる人間はいるから、やってやれないことはない」
どういうつもりでそんなことを言っているのか、リゼはヒーチとルオの顔をしきりに見比べてしまう。やめた方がいいと思ってもやめられない。
「ご冗談を」
強張った顔でルオは笑みを浮かべようとしたのかもしれないが、それは失敗してかすかに口がゆがんだだけで終わる。
「さあ、どうする?」
ヒーチの泰然自若とした態度にルオは一瞬ひるんだ様子を見せるが、すぐに鋭い目を取り戻し、前傾姿勢でヒーチに向かう。
「分かりました。では、あなたのカードが弱いというなら、勝負をかけさせてもらいます」
ルオはバンクのすべてをテーブル中央に押し出す。
「四千五百枚、オールインでレイズです」
そして平然とカードを引く。
「こっ」
今度こそ、リゼは声を出してしまう。
ばっ、とルオ、ボディーガード、そしてヒーチがこちらを向き、リゼは首をすくめる。
こんなことが、あっていいのか。ヒーチもルオも、頭のネジが壊れているとしか思えない。確かに、ヒーチもルオも行動自体は合理的だ。カードの数字が分かっているなら、強ければオールインして弱ければ最低金額でフォールドすればいい。相手が弱気なら攻め時であるから、オールインをして揺さぶってやればいい。そこまで間違った思考回路ではない。
だが、これは皇帝紙幣五千枚の勝負だ。
ヒーチはどうしてオールインできたのか。カードに付けた目印、小さくて目立たない傷ならば、万が一それを見間違えていたらどうする。ひょっとしたら記憶が間違っているかもしれない。あるいは、可能性としては少なくとも、こちらのカードの数字が十八だからといってオールインしてカードを引いてみれば、その下のカード、相手が引くカードが十九や二十かもしれない。
ルオはどうしてオールインできたのか。相手が弱気で、カードが弱いと自己申告しているのだから確かにオールインしても問題ないように思える。相手はフォールドするだろう。だが、もしも相手の弱気がブラフならば、どうする。あるいは、相手の気が変わってしまったら。
万が一やひょっとしてを考えたら、こんな行動はできない。失敗すれば全てが終わり、人生自体がずれてしまうというのに。
「フォールド」
その大胆なルオの行動にもヒーチは動じない。もしルオのオールインがヒーチを動揺させるのが目的だとすれば、それは失敗したように見える。少なくとも、表面上は。
「あっさりとフォールドしますね」
「言っただろう、俺のカードは弱いんだ」
ヒーチはさっきルオから勝ち取った五百枚を返すようにして放る。
互いに自らのカードを伏せたままで捨てる。これで、三セットが始まってからまだ一度もカードはオープンされていないことになる。そして互いのバンクは五千枚に戻った。全てが振り出しで、デッキの枚数だけが減っている。
「次は私が親ですね」
じっと、デッキの一番上のカードを見ていたルオは、
「では、五千枚、オールインで」
かちん、と音を立てる。
それが自分の奥歯が鳴っているのだとリゼは気付く。震えている。体の全てが。
ゆっくりと、ルオはカードを引く。
「……そうか」
対するヒーチはしばらくの間、金属製の彫刻のように硬直していたが、やがて口だけを動かしてそう呟き、
「これを、フォールドすれば、さっきとは違う。半額の二千五百を支払うことになる。そうだな?」
次のカード、自分が引くことになるカードに目を注ぐ。
「ええ」
「そして、相手と自分のカードの数字が分かっていない以上、ここでフォールドするのは非合理的な行動となる。これは、俺が先に言ったことだ」
「その通りです」
「フォールドだ」
固まるルオを尻目に、ヒーチは慎重な手つきでバンクの総額の半分を数えると、その二千五百枚をルオへと押し出す。
「受け取るといい」
心臓が破裂しそうになるが、リゼは必死で深呼吸をして落ち着こうとする。
かなりの痛手だ。だが、しょうがない。これはつまり、相手のカードが強く、こちらのカードが弱かった。それだけだ。フォールドするしかない。
カードが全て読めていても、それでも負けることはありうる。相手が強いカードを、そしてこちらが弱いカードを引き続けていれば、勝ちようがない。
そして、一気に半分を失ったというのに、ヒーチには動揺はないように見える。
もう押しやった二千五百枚には興味を無くしたように目線を外し、退屈そうに視線を彷徨わせている。
だが、一方。
あれ、と声が出そうになるのをリゼは抑える。
ルオの、勝ったはずのルオの目が、一瞬泳ぐ。ヒーチよりも、狼狽している。手に持っている、カードが震えている。
一体、何が?
考えても分かるはずがない。
その動揺は一瞬で、すぐにルオは平静な様子に戻る。
「分かっていますか? このゲームは、フォールドするとその額を取り戻すのは困難になる」
そう、その通りだ。それは、リゼも事前のシミュレーションで分かっている。
つまりこういうことだ。今、親であるルオが全額の五千を賭けてきたのをフォールドし、半額の二千五百を支払った。そしてヒーチが親になった次のゲームで、もし全額二千五百を賭けたとする。だが、これで相手がフォールドしても、半額の千二百五十しか取り返せない。元の金額に戻すためには、相手が全額の勝負を受け、なおかつそれに勝たなければならない。元に戻すためのハードルは高くなっていくのだ。
これはつまり、ヒーチが行っていた全額ベッドという作戦が、親の立場で先にそれを行った方が圧倒的に有利になることを意味している。これまでは、それはヒーチの方だった。だが、今は。
「分かっているよ。しかし、妙だな。どうして、親切にそんなことを?」
最低金額である五百枚の束を掴みあげ、ヒーチはそれをベットする。
ここで、最低金額、か。リゼは思わず歯噛みしたくなる。が、よく考えて見ればそれは当然だ。そもそも、その次に引くカードが弱かったからこそ、ヒーチはさっきの五千枚の勝負をフォールドしたのだ。次のゲームで引くカードに大金を払うわけがない。
「弱気ですね」
ここぞとばかりに、ルオは二千五百枚、つまりヒーチの全額にレイズしてカードを引く。だが、その顔が一瞬曇る。
見間違いか?
そう、リゼが思うほどに短い刹那だが、確かに顔をしかめた気がする。
「フォールド」
ヒーチは平然と五百枚を投げ渡す。
これで残り二千枚。だが仕方がない。さっきのルオの表情が少しひっかかるが、ここで勝負を受けるわけにはいかないのはリゼにも分かる。だが。
だが、特に奇妙とは思えないそのヒーチの行動に、誰よりも動揺している男がいる。
「……」
無言でカードを捨てるルオの、その額がいつの間にかじっとりと汗で光っている。
奇妙だ。追い詰められているのはヒーチのはずなのに、ルオの動揺は隠せないレベルになってきている。
何が起こっているのか、分からない。
「汗がひどいな。そんな季節でもないだろう」
ヒーチは壺を掴む時に使っていたハンカチ、未だ左手に握りっぱなしのそれをヒーチはルオに差し出す。
「よかったら使うといい」
「これは、すみませんね」
受け取ったルオはそのハンカチで額を押さえる。
「ルオ、次はそっちの番だ」
「ええ。ああ、ハンカチを返します」
「いらない。さっさとベッドして引いてくれ」
この状況下で、ヒーチはこれまでで一番落ち着いているかのようだ。まるで自分の部屋にでもいるかのように恰好は崩れつつある。
「余裕ですね」
「まあな。もう、全部終わったも同然だ」
薄く笑うヒーチは、デッキの一番上のカードを指し示す。
「予言ってやつをしてやる」
「予言?」
「そう、これからお前は、最低金額を賭けてこのカードを引く。そして、俺がレイズしてカードを引く。そっちはフォールドだ。それからのゲーム、お前は俺のカードの全てにフォールドしていく。お前のバンクは減っていく。だが、途中から後がなくなったそっちも自棄になってレイズするようになる。俺はそれにフォールドする。結果としてだな、最初に戻るんだ。そっちのバンクは五千枚。こっちのバンクも五千枚でセットが終了。いい話だろう? 結局、今日の三セットで合計千枚俺が勝ったことになる。俺もハッピーだし、そっちも千枚なら傾くこともない。ハッピーだろ?」
「……なるほど、そういうお話ですか」
ほう、とルオは大きく息を吐く。
「ならば、お断りします」
「予言は断る、断らないって話じゃあないんだけどな」
「二千枚、ベットです」
そう言ってルオはカードを引く。
「おいおい、俺の予言を台無しにするなよ」
文句を言いながら、ヒーチは千枚を渡す。
これで残り千枚。リゼは気分が悪くなってくる。
「あなたの魂胆は分かりましたよ、ヒーチ殿」
「ん?」
「ですが、無駄です」
カードを捨てながらルオは言う。
「無駄とは?」
「イカサマだ無効だと騒いだところで、何もならないということですよ」
突如としてルオが話し出した内容の意味が分からず、リゼの気分はますます悪くなってくる。不条理な悪夢を見ているかのようだ。
「明確な証拠や現場を押さえたのでない限り、あとから言いがかりをつけたところで勝負は覆りません。無駄ですよ」
「……そう、か。言いがかりは、無駄か」
平然とした態度だったヒーチの顔は、いつの間にかこわばり、脂汗をかいている。さっきまで動揺していたルオの表情には逆に余裕が出つつある。
「悪い、やっぱり」
ヒーチは手を出す。
「ハンカチを返してもらえるか?」
「ええ、どうぞ」
右手を出してヒーチはルオのハンカチを受け取る。だが受け取り損ね、ヒーチの手からひらひらとハンカチはテーブルの下へと落ちる。
「ああっと」
自然と、ヒーチがそちらを見る。それにつられるようにして、リゼも、ルオも、ボディーガードたちもそちらを見る。ひらひらと舞い落ちていくハンカチ。
だがそれはほんの一瞬で、すぐに全員の視線はテーブルの上に戻る。だが。
「それじゃあ」
ハンカチを拾うこともなく、ヒーチはバンクの全てをテーブル中央に叩きつけるようにして置く。
「全額だ。ここから、巻き返していく」
「ほう……」
と言ったきり、ルオが固まる。口、いや顔、体全体が凍り付いたようになっている。視線はデッキの一番上、ヒーチが引くべきカードに注がれている。
それから、ゆっくりとヒーチはカードを引いてテーブルに伏せる。
「ルオ、ところで……俺の予言は、多少修正する必要はあるかもしれないが、まだ大外れだと認めたわけじゃあない」
「……あなたは」
ぎろりとルオが目を剥く。
「何でもあり、ということですか?」
「言いがかりはやめてくれよ」
視線が交差する。
屋外だというのに、深海にいるかのような息苦しさを覚える数秒が過ぎる。
「分かりました」
ほう、と全身の力を抜き、ルオは札束をひとつかみ、ヒーチの方に投げる。
「これ以上は、泥仕合になりそうですね。フォールドです」
そして、ルオの目は冷たく鋭くなる。
「ただし、このまま予言の通りになるかどうかは、まだ分かりませんよ。あなたは、地獄の窯を開けたのですから」
敵意を剥きだしにするルオに、ヒーチは頷く。
「ああ、俺も予言通りになるとは思っていない。大体、あまりに具体的な予言っていうのは外れるものだ」
「はい?」
「ほら」
ヒーチはテーブルに伏せてあったカードを裏返す。数字は、1。
「ダウトだ。その千枚はいらない。八千枚、もらうぞ、ルオ」