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テーブル中央の紙幣の束をじっと見ていたヒーチは、ゆっくりと視線を対面のルオに上げていく。
「言ったはずだ、ルオ。カードの裏が透けて見えるんじゃあない以上、そうこられたら受けるのが正解なんだ。そうだろう?」
「ええ」
見つめ合う二人の表情は元のものに戻っていて、傍から見ているリゼにはその内心は計り知れない。
ルオはカードを引くが、やはり微笑みは変わらない。カードが強いのか弱いのかも、分からない。
「コールだ。一発で二セット目は終わりだな」
言いながらも、まだヒーチの手は動かない。
「コールならば、バンクをテーブル中央に」
促すルオに対して、ヒーチは唇をわずかに噛む。
「……妙だな」
「ん?」
「さっき言ったように、いきなり全額ベットは、百戦錬磨のお前に勝つために俺が採用した戦法だ。それを、どうしてお前がする? お前にしてみれば、少額ずつ賭けて駆け引きやテクニックを駆使した方が有利なはずだ」
「白々しいですね。たとえばここで私が五十枚賭けたとして、あなたが全額レイズしてきたら私はまた窮地に立たされる。それくらいなら、こちらから仕掛けようと思っているだけです」
「なるほど」
軽く頷き、バンクの紙幣の束に手を伸ばし、掴んだところでまたヒーチは動きを止める。
「だが、やはり引っかかる」
「引っかかる、とは?」
ルオの微笑が薄れていく。
「この『バンク』というほとんどが運で支配されているゲームで、これまでずっと勝ち続けてきたお前が、ここでコイントスのような一発勝負の五分と五分の勝負をするとは、思えない」
「私が、何をしていると?」
「さあ、例えば……」
言葉を切り、ヒーチはバルコニー全体を見回してから、庭を見下ろす。
「どうにかして、最悪、俺が勝っても勝負をご破算にする手筈があるとか、な」
「武力で、ですか? ふふ、兵を潜ませたりはしていませんよ」
ルオの顔に微笑みが戻る。
「どうかな。ここはやはり、敵地だ」
そこで、ヒーチはふっと顔を庭から逆に向ける。
「ああ、戻ってきたか」
つられてリゼがそちらを見ると、ボディーガードに連れられて毛玉が歩いてバルコニーに入ってきている。ツゾだ。
バンクの紙幣束から手を離すと、ヒーチは立ち上がり戻ってきたツゾの肩にぽんぽんと手を置く。手が毛に埋まる。
「ちょっと遠目から見ると本当に球だな、お前」
「うるせえよ」
「頼みがある。周囲に、誰か怪しい人間がいないかどうか調べてくれないか?」
「ああ?」
「ヒーチ殿。いないと、言っているでしょう」
座ったままルオが口を出す。
「念のためだ、念のため」
「ああ、見回りって、なあ、そもそも俺が自由に見回っていいのかよ」
「どうぞ」
ルオは肩をすくめる。
「このテーブルに近づかないならそこまでうるさくは言わない。ただ、一人、見張りを一緒に付けていってもらう。調度品を盗まれては困るからな」
「てめえ、なめてんのか」
ツゾは凄むが、リゼにもその危惧はなかなか的を射ているように思う。
「ちっ」
舌打ちして、ぶつぶつと呟きながら、トイレに付き添っていたボディーガードと一緒にそのままバルコニーを出ていく。
いつの間にかヒーチは椅子に戻っていて、紙幣の束を掴んでいる。
「さて、じゃあ、後は野となれ山となれ、だ」
テーブル中央に投げるようにして紙幣の束を置く。
「コールだ。裏があるかないか、見せてもらおう」
カードを引くと確認するよりも早く、ヒーチはそのままカードをひっくり返してテーブルに置く。数字は、十二だ。
「ふむ」
その数字を見た瞬間に呟き、全身の力を抜くようにしてルオは椅子の背もたれに体重を預ける。
「こうなりました、か」
自分の持っているカードをルオは投げ置く。数字は、七。
はあ、と思わずリゼは息を漏らす。
すごい。これで、合計で皇帝紙幣千枚を奪い取ったことになる。それも、あのオールイン戦法のおかげで、イカサマを疑われていない状況で。
疑いを晴らすために三セット目で多少負けるようにしたとしても、ヒーチならばあれこれと理由をつけて自然と戦法を変えるなどして、負け分を二百五十枚くらいに抑えることは可能だろう。それならば、七百五十枚を稼ぐことになる。
結果として、疑われずに長期戦でじりじりと稼いで手に入れるはずだった予想金額の何倍も勝ち取れるということだ。
「ルオ」
テーブル中央の札束を鷲掴みにして、ヒーチは思い出話でもするように目を閉じて語る。
「これで二セットが終わった」
「ええ」
「俺の勝ち分を、残り1セットで全て取り返すのはこのままじゃあ無理だな」
「そのようですな」
沈黙。
その沈黙の意味が一瞬分からず、リゼは二人の顔を見比べる。
一体、何の話に繋がる?
「それで、いいのか?」
「よくはない、ですよ」
「じゃあ、どうする?」
「……あなたの宣言通りになるのは癪ですが、確か、私がルールの変更を申し出るだろう、とあなたは言っていましたね。当人同士の同意があれば、ルールの変更は可能かという確認も」
そうか。
リゼは思い出す。
そういうことか。ここで、ルオから、ルールの変更を引き出して、まさか、ここから更に勝ち分を増やす気か。
「そうだな」
「ですが、私に時間がないのも本当のことです。長期戦をするわけにもいかない。どうでしょう、もしも可能であれば、次のセットのバンクの額と最低額を変更したいのですが」
「負け分を取り返すとなると、バンクの額を千枚で、最低額を百枚、か?」
「いえ、それではどんなに大勝しても負け分を取り返して終わりです。それではあまりにも張り合いがない。ヒーチ殿、今、あなたは私から奪った分と私が貸し付けたものを合計すれば、二千五百枚お持ちのはずです」
「ほお」
そこで、ヒーチは目を開く。
「つまり、バンクを二千五百枚にすると?」
「いえ」
だが、ルオは薄っすらとした微笑みを崩さないままで、
「新たに二千五百枚貸し付けます。それを合わせて五千枚。バンク五千枚で、最低額を五百枚で勝負をするというのはどうでしょう?」
空気が凍る。
ルオの背後のボディーガードたちすら、呆然とした顔を隠せていない。
自分も同じような顔をしているのであろうことは、リゼにも分かっている。
バンクが、皇帝紙幣五千枚?
これでもしも、ヒーチがこれまでと同じように五千枚全て勝ち取ったとすれば、合計でルオは六千枚を奪われることになる。皇帝紙幣六千枚。国を代表する大商会が傾くのに十分な額だ。ましてや、最近成り上がったガリイ家は、この損失で家自体が没落、消滅することもありうる。
そして、それは逆も然り。これでヒーチが全てを奪われれば、計四千枚をルオに借金したことになる。千五百枚ならば、城主という今の立場、そしてヒーチの才覚ならば半生を賭ければ返せないこともないだろう。だが、四千枚となると、返済の方法が思いつかない。一生涯、完全なルオの操り人形と化すことになる。
おそるおそるリゼはヒーチの顔を見る。
その桁外れの提案を受けたヒーチは、黙っている。黙って、じっとルオの顔を見ている。さっきのように苦悩しているでもなく、笑っているのでもなく、ただ、じっとルオの目を見ている。
「……それは、受けるのは多少、勇気がいるな」
ヒーチが出した声は、冷たく、そして硬い。