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ペテン師

 血が止まらない。

 急速に色を失いつつある視界の中で、マサヨシはそれをぼんやりと見る。

 終わった。

 大きく長い息を吐く。

 ずるり、と血と一緒に左手首から銀色の筒が出てくる。銀色の筒には数本の細い管が絡み付いている。ぷちりとその管が千切れながら、銀色の筒は床に落ちてからんと音をたてる。


「いてて」


 マサヨシは右手の指で動脈を押さえる。

 血の流れ出るスピードが少しだけゆっくりになる。それでも、やはりとめどない。


「あーあ」


 やがて、メイカブが気の抜けた声と共に肩をすくめる。


「失業だな、これで」


 そうして部屋を出て行こうとするので、その背中に、


「いいの、俺、ほっといて?」


「どうしろってんだ。俺は私兵だぞ。雇い主は死んだ」


 妙にさっぱりとした表情でメイカブは倒れたフリンジワークに目をやってから、


「もう、俺の仕事はない。さすがに、このことを誰かに報告はしなきゃいけないだろうが、まあ、できる限りゆっくり歩いて報告しに行くから」


 と言って、マサヨシの顔と、血が流れ続けている左手首を見比べる。

 それから、背を向けてドアに向かう。部屋を出て行く直前に、振り返らずに、


「残り時間はどうせ短いんだ。色々と、今の間に話しとけよ」


 そのまま、メイカブは消えていく。

 後には静寂。


 マサヨシは猛烈な眠気に襲われる。全身の痛みは、奇妙なほどに薄らいでいる。

 このまま寝てしまえば気持ちがいい、と誘惑に負けそうになりながらも、マサヨシは這うようにしてフリンジワークの死体に向かう。


 まだ温かい死体を、右手で左手首の動脈を押さえたままで、四苦八苦しながらまさぐる。

 やがて目当てのものを探り当てる。小さな鍵がいくつも束ねてある鍵束。


「ハイジ」


 声を出して、自分の声の力のなさに驚く。


 血に塗れてしまった鍵束を、震える手でハイジに渡す。


 ハイジはそれをゆっくりと伸ばした手で受け取る。


 視線が交差する。

 だが、マサヨシはそのハイジの弱っているというのにまだまだ力強く、そしてどこまでも真っ直ぐな視線を受け止め続けることができず、目を逸らす。


 鍵束を渡した後は、座ったまま床を自らの血で滑るようにして、壁まで後ろ向きに進んで、そのままもたれる。

 その姿勢で、ハイジと対峙する。


 ハイジは、目当ての鍵を見つけたらしく、首輪と手足の枷を全て外してベッドからゆっくりと降りる。


 朦朧とした意識の中で、マサヨシはハイジを見上げる。


 骨と皮だけになって、傷だらけで、純白のドレスはさっき鍵束を渡した時に血で汚れている。

 金色の髪は潤いがなくもう白に近く、肌も乾いて病的に白い。


 だというのに、やはりハイジは美しい。

 少なくともマサヨシにとっては、見上げたハイジは天使のように見える。


「やあ」


 挨拶をする。


「マサヨシ」


 美しい碧眼からの真っ直ぐな視線が、マサヨシを射抜く。


「あなたが為したことは、正義ですか?」


 まさか、いきなりそんなことを言われるとは思っていなかったから、マサヨシは呆気にとられて、そして、それからゆっくりと笑い出す。

 なるほど、考えてみれば、ハイジらしすぎるほどハイジらしい第一声だ。


「いや、そいつが言ってたのは正しいでしょ」


 落ちそうになる瞼を必死に開けて、マサヨシはフリンジワークの方に視線を向ける。


「あいつが戦争をすることはもうないけれど、だからといっていきなり一国の王が死ねば政情は不安定になる。その混乱の中で、今戦争の前段階まで来てるシャロンが攻撃してこないとは思えないし。きっと、ロクでもないことになるね」


「だとしたら、何故です」


 さっきまでの獣のような殺気に満ち満ちたものとは違う、どこまでも静かで透明な声でハイジは問う。


「言ったでしょ、惰性だよ。とにかく、戦争を止めようって流れにあったから、止めただけだ。ハイジみたいな人間には、信じられないだろうけど」


 かすむ視界の中で、ハイジの姿だけは輝いているかのようにはっきりと見える。


「ところで、殺さないの? ほら、そこに、フリンジワークの剣が落ちてる。俺は、許されざる悪人だよ」


「わざわざ、殺す必要がありますか?」


「確かにね」


 もう、すぐに死んでしまうだろう。

 肩をすくめて、マサヨシは話を続ける。


「まあでも、ちょっと楽観的に考えているところもあってさ、シャロンに関してはヒーチがうまくやってくれるんじゃないかな。それで、この国の混乱は」


 じっと、今度こそ真正面からハイジの目を見る。


「ハイジ、あんたが、何とかしてくれ。あんたならきっと、できる」


「私は無能です」


「器は、フリンジワークより上だよ。俺みたいな『ペテン師』の気持ちとか考えを分かろうとしたくらいだからね。いい為政者になる」


 本心からの言葉だが、自分が言うとなにやら嘘くさく感じられるな、とマサヨシは不思議に思う。


「分かりました、やります」


 一方で、ただ、そう言って頷くハイジには全幅の信頼を置くべき信頼感が備わっているように感じられる。預言者が神の言葉を伝えているかのような。


「ああ、そうか」


 呟く。


「え?」


「惰性で、やっていたと思っていたけど、俺は」


 眠たい。

 眠気に耐えながら、必死で言葉をつむぐ。


「俺が、こんなことまでして、フリンジワークを殺したのは、戦争をとめたいから、だけじゃあ、なかった」


 かすんでいる視界の中で、ハイジは後光が差しているようにも見える。


「ハイジ、あんたに、最後に、何としても会いたかったのかもしれない」


 信じられないことだ。

 自分が、『ペテン師』が何の打算もなく、そのまま思ったことを言葉にしている。


「何故です?」


「俺とは違う。あんたは、正しくて、強くて、綺麗だ。だから、あんたに、教えて欲しかったんだ。なあ、ハイジ。俺は、色々やった。挙句の果てに、フリンジワークを殺した。ロクでもないことも、色々やったけどさ、それなりにいいことも、少しはやった。でしょ?」


「そう、ですね」


 厳かにハイジは頷き、一歩、マサヨシに近づいてくる。


「誰かのためとか、皆のためにやったこと、あったんだよ、本当だ。だからさ、色々、本当に色々あったけどさ、結局のところ、俺のやったこと、俺の存在って、無駄じゃあ、なかったよね?」


 この世界に来て、為したこと。その全てが、誰にとっても何もプラスではなかったなんて、そんなことはない。何か、本当に少しでも何か価値のあることを成し遂げたのだと、ハイジに認めてもらいたかった。

 そのために、ここまできたのかもしれない。


「ええ」


 ドレスが血に染まるのも構わず、ハイジが跪いて目線をマサヨシに合わせて、左手首を押さえているマサヨシの右手に、その両手を重ねる。


「私が、無駄にしません。絶対に」


 ハイジの目は強い。


「そうか、よかった」


 肩の荷が下りたような気がする。

 マサヨシは、息を吐いて、全身が冷たくなりつつあることに今更気付く。ただ、止まらない血と、ハイジの手だけが温かい。


「だったら、俺は、もう、いいや」


 これもまた、本心の言葉。


「マサヨシ。私は、無能です。理想しか言えない。自分の正義、理想に沿ってしか動けない」


「あんたは、それでいいんじゃない?」


「でも、現実にはうまくいかない。だから、その理想と現実の溝を埋められず、何もできませんでした。けれど、あなたが現れてから少しずつ変わっていった。今なら分かります」


 水滴。温かい水滴が腕に落ちるのを感じて、訝しく思いマサヨシは目を凝らして、驚く。


 ハイジは泣いている。


 彼女が泣くとは、想像もしていなかった。誰よりも強く真っ直ぐだと思ってたから、怒り悲しむことはあっても、泣くことなんてないかと思っていた。


「あなたが、その溝を埋めていた。一番、誰よりも汚れて。あなたが行った悪事は、本当は為政者が覚悟を持って手を汚してやらなければいけないことだった。違いますか?」


「全然違う」


 勢いよく首を振ろうと思ったが、マサヨシの首はゆっくりとしか動いてくれない。


「なあ、ハイジ。あんたは綺麗なものを語って、そのためだけに行動すればいい。それを無能って言うけど、逆だ。俺みたいな凡人はさ、それができないんだよ。綺麗なものばっかり語ることができないし、それを信じて行動できない。あんたはできる。なら、すべきだ。それでさ、その姿を見て、きっと皆は救われるんだ。この世界も捨てたもんじゃないって」


 言いながら、マサヨシは気付く。

 結局のところ、この世界に来て、どんどんと状況が悪くなっていく中で、どうして最後までもがけたのか。

 ハイジに救われていた。ただ、それだけのことだ。


「でも、理想だけでは人は生きていけない。私が」


 声は涙声になり、そして叫びになっていく。


「私があなたをこんなふうにしたんです。あなたはただ静かに暮らしたいだけだったのに、こんなことになってしまった。ただ静かに暮らすこともできない世界にしたのは、為政者の、私のせいです」


「静かに暮らす、か」


 意識は薄れていく。

 けれど、ハイジに泣かれたまま、何も言わずに死ぬのだけは嫌だ。自分を救ってくれた少女を泣かせたままにして死ぬつもりか? 仮にも『ペテン師』なんだから、口先で何とかしろ。

 瞼を震わせて閉じかけている目を開き、マサヨシは言葉を返す。


「俺は、静かに暮らしたかったんじゃあない。本当は、違ったんだ。今なら、よく分かる。父親が色々と俺に言ってくれたこと、もうすぐ死ぬんだと分かった今、ようやく本当の意味で理解できる」


 そしてマサヨシは今更、自分とフリンジワークの一番の大きな違いに思い当たる。

 今、この瞬間まではっきりしなかったけれど、自分は、どうやら父親のことが好きらしい。


「選択したんだ。俺は、トリョラを裏から支配する道を選択した。シュガーをばらまく道を選択した。人を大勢殺す道を選択した。それを選択したってことは、俺はそういう人間だったってことだ」


 もう、血は止まっている。

 血塗れの右手を震えながら上げて、ハイジの頬を撫でる。


「見てよ、この様を。状況がどうだとか仕方なかったなんて、言い訳だ。現に、ハイジなら、きっと同じ状況でもこんな様にはならなかった。俺は、トリョラを支配したかった。口先だけで沢山の人間に勝ちたかった。汚れていても金が欲しかった。邪魔な人間や敵を、殺してやりたかった。きっと、そうだ。だからそんな選択をしたんだ。どうしようもない、大悪人でしょ? だからさ、俺のために泣くなんておかしい」


 指で何とかハイジの涙を拭う。


「人は、皆、本当はハイジみたいになりたいと憧れるんだ。だけどできない。できないから、言い訳して、汚れていく。その最たるのが、俺だ。俺は、『ペテン師』だよ。ロクなもんじゃない。本当に静かに暮らしたいなら、『ペテン師』なんかになるもんか」


 もう、目が開けていられない。

 マサヨシは目を閉じる。

 耳はまだ機能している。口も辛うじて動く。


「その『ペテン師』がやったことをさ、ハイジが価値のあることにしてくれるなら、それだけで充分過ぎる。泣く必要はないよ」


「マサヨシ。人は、親しい人が死ぬ時は泣くものです」


 まだ多少涙声だが、もう大丈夫だ。ハイジの声は落ち着きを取り戻している。


「俺と、そんなに親しかったっけ?」


 もつれそうになる舌を必死で動かして、軽口を叩く。


「多分、マサヨシ、私はあなたが、好きでした。私にないものを全部持っているのに、弱かったあなたが」


 好きだった、と言われて、結局のところ、普通にマサヨシは喜んでいる。

 何だ。

 拍子抜けする。

 人に好きだと言われたら、嬉しいものなんだ。ただそれだけのことに今まで気付かずに、嘘ばかり口にしてきたような気がする。

 好きだと思う相手に、今まで好きだと言ってくればよかった。今更の後悔。ジャックに、ミサリナに、アルベルトに、スカイに、ハイジに、ヒーチに。


 それにしても、ハイジに好きだったと言われて、ただただ嬉しい。


「はっ」


 最後の力を振り絞り、マサヨシは笑ってみせる。

 まったく。なんて様だ。『ペテン師』が聞いて呆れる。逆に、最後の最後まで、相手に口先で救われてちゃあ世話がない。

 薄れていく意識の中で、自嘲の思いが浮き上がる。だが、そんなに不快ではない。





「じゃあ、結局君達は両想いだったわけだね。いやあ、甘酸っぱいではないかー」


 真っ白い空間。椅子。そして真正面に座っている、銀髪の少女。

 もう慣れているから、そのこと自体にマサヨシは驚きはしない、が。


「死んだと思ったのに」


「死ぬ寸前に、最後のお別れを言おうと思ってね。またここに招待したわけさ」


 ははは、と笑う少女とその空間が本当に現実のものかどうか、マサヨシは少し疑う。死ぬ直前の脳が見せている幻覚かもしれない。

 だが、今更これが幻覚だろうがどうだろうが関係はない。


「で、イズル、何か妙なことを言っていたね。ええと、両想い?」


「うん。だって、ハイジは君の事を好きだったといい、君もハイジを綺麗とか言ってなかったかい? つまり、死の直前にようやく両想いだったと分かるわけだよ。いやあ、悲恋だねえ」


「そういうのじゃないでしょ、俺達のは。まあ、別にいいけどね」


 そして、マサヨシは椅子に座っている自分の姿が、白い空間に溶け込むように足元から消えていきつつあることに気付く。


「これ、全部消えたら死ぬ、みたいなこと?」


「うむうむ。そういうことだね」


 何の躊躇もなく胸を張って頷くイズルにマサヨシは苦笑して、


「そっか。ええと、色々世話になったね」


「んんん?」


 きょとんとしてイズルは一瞬硬直した後、


「いやいやいや」


 と目を見開いて大袈裟に驚く。


「びっくりするね。てっきり、恨み言の一つでも言われると思っていたのに」


「恨み言?」


 脚は、完全に消えてしまう。


「そうだよ。だって、ヒーチの餌として君をこの世界に呼び込み、挙句の果てにこうなってしまったわけだ。誰に責任があるかと言えば、私だろう?」


「いやいや、俺の選択の結果だ。俺の責任は、俺にあるよ。かってに奪わないでよ」


 腰の辺りまで消える。

 喪失感と、孤独感がくっきりとする。何もかもが失われて、何もかもが消えて、一人になっていくのが分かる。目の前にイズルがいるというのに。


「ふうむ、どうも、君は妙な人間だねえ。こっちが責任を感じているのに、責めてもらわないと何かおさまりが悪い」


 腰に手を当ててむう、と何故か不満げに口を尖らせていたイズルは、ぱっと目を輝かせる。


「そうだ。特例だ。最後に君の願いを一つだけ叶えてあげよう!」


「は?」


「神様からのご褒美だよ。ほら、愛しいハイジのその後の幸せでも、トリョラの平和でも、何でもいい。叶えてあげようではないか」


「どうせ嘘でしょ」


 鼻で笑ってマサヨシがそう言うと、


「むっ、失礼な」


 イズルは頬を膨らませる。


「そんな大層なことができる神様には見えないな。大体、大した神様じゃないって自分で言ってたでしょ。どうせもう死ぬから、適当な嘘を言ってるだけだ。嘘の神様だけに。最後にいい夢見させてやろうとか、そういうことでしょ?」


「いやいやー、ホント、ホントに願いを叶えてあげるから。これは嘘じゃあないよ」


 そうイズルが言うたびに嘘くさくなっていく。

 苦笑するマサヨシの胸まで消えていく。


「どうせ死ぬから、嘘じゃないかどうか俺には確認できないでしょ」


「いや、まあ、そりゃそうだけど」


 ごにょごにょと語尾が弱くなっていくイズルに、


「じゃあ、あれだ、俺を助けてよ」


「ふぇ?」


「いや、よく考えたら、それが一番いい。凡人だしね、死にかけた時のお願いとしては、ただただ死にたくない、それだけだよ」


「む、むむむ」


 イズルは悔しそうに唸る。


 それを見てマサヨシは笑う。

 笑いながら全てが消えていく。

 だがイズルには感謝する。最後の最後、孤独と喪失に打ちのめされているというのに、笑いながら消えられる。


「イズル、『ペテン師』失格だよ。嘘のつき方、もうちょっと勉強した方がいいね」


 その言葉を最後に、マサヨシは白い世界から完全に消える。

 笑いだけ残して、『ペテン師』はこうして消えてしまう。

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