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終わり2

すいません、活動報告にもかきましたが、これで終わりになりませんでした。

一話延長です。

 フードを被らせ顔を隠し、城まで連行してから、近衛兵に身体検査をさせて武器や道具類を全て取り上げる。

 何者なのか、と言いたげな兵達を殺気をこめた視線で黙らせ、フリンジワークはマサヨシを廊下を引きずってから私室に放り込む。


 その途中で何か色々とマサヨシが話しかけてきたが、ずっとフリンジワークは無視をしている。


「おい、おい、ちょっと。これから戦友になるってのに、この扱いはないんじゃない?」


 へらへらと笑うマサヨシの腹に、フリンジワークは思い切り蹴りを突き入れる。


「うっ」


 呻き、その場に蹲るマサヨシの髪をつかみ、引き起こすとフリンジワークは顔を近づける。


「いいか、『ペテン師』。お前は負ける。これから、その話をしてやる。だが、その前に、これは個人的な、俺からの罰だ。俺を苛立たせた、な」


 剣を抜き払うと、フリンジワークはその剣で斬りつけるのではなく、柄頭で思い切りマサヨシの左膝を殴りつける。

 関節が砕ける音と共に、マサヨシは絶叫する。へらへらとした薄笑いは一瞬で消える。


「叫べ、マサヨシ。俺の私室の周囲は俺の喚き声や人の叫び声は日常茶飯事だ。誰も不審に思わない」


 多少は気が晴れた。

 うつ伏せに転がり、呻き続けるマサヨシをしばらくの間フリンジワークは見下ろしていたが、やがて背を向ける。


「心配するな、マサヨシ。片脚が壊れたところで指揮能力に影響はない。シャロンの要求どおり、お前には指揮官として戦ってもらう」


 そうして、まだ呻いているマサヨシを放って、私室の片隅にあるサイドチェストの引き出しから、鍵を取り出す。その鍵をポケットに入れると、ぐいとマサヨシの左手首を掴んで引きずる。


「さあ、行くぞ」

 

 恐ろしい叫び声を恐れてか、従者も誰も廊下にはいない。フリンジワークが王になってからは、誰もが、フリンジワークに関わることを恐れて夜には私室に閉じこもるようになっていた。だからこそ、自由に動けていたというのもあったが。


 その廊下を、マサヨシを引きずって歩く。

 砕けた膝の痛みで、マサヨシは呻き、床に段差があった時などはその衝撃で悲鳴を上げる。

 顔、というより体中が脂汗に塗れている。


「一緒にロクでもないことをしてくれる連中は全てあの戦いに投入してしまってな。トリョラでの混乱のことだ、もちろん。多くは死んだし、残った連中も戻ってこない。元々が無法者だから仕方がない、が。だが、今、俺の手駒が、部下ではなく、欲望のままに好きなように使える、という意味の手駒だぞ、それがほとんどいないのは、それは、お前達の手柄だ。ジャックやアルベルト、スカイ、奴らの奮闘が俺の手足と眼を奪った。苛立たしいことにな。元々は、金を出せば何でもする類の女を侍女として無理矢理城に潜り込ませて使っていたんだが、な」


 悲鳴を上げるマサヨシを無視して、呟きながらフリンジワークは廊下を歩く。


「ここだ」


 そして、昇り階段。

 階段の一段ごとに、マサヨシが絶叫する。もちろん、そんなことを気にするフリンジワークではない。


「おかげで、今では俺が食事を運んでいる。くく、似合わないことだが、仕方ない。他にやる奴がいないからだ。侍女なんぞを使って、もし余計なことを吹き込まれたら、その都度その侍女を始末しなきゃいけない。そっちの方が面倒だ。俺が食事を運ぶ。くく、面白いな、少し。まあ、一部では美談になっているらしい。甲斐甲斐しく病弱な妻の面倒を見る王、としてな」


 やがて、フリンジワークは階段の先、自分以外のほとんどの人間の立ち入りを禁じている区域に入る。その一番奥に、目当ての場所がある。


 もう、声も枯れ果てたのかマサヨシは悲鳴を上げない。かすかに呻くだけだ。

 そして、ひきずられながらも真っ黒い目でずっとフリンジワークを見上げている。怒りでも憎しみでもない、観察者の目。

 いくらでも観察しろ。

 フリンジワークはその目を見下ろす。

 観察して、状況を把握して、そして改めて絶望すればいい。お前に、勝ち筋はない。


 廊下の奥にある扉。一見、普通の私室の扉に見えるそれには、模様に隠された鍵穴がある。知らなければ、この扉が外からしか鍵の開けられない、監禁用の扉だとは気付きもしないだろう。

 その鍵穴にポケットから取り出した鍵を挿入し、回す。

 かちりと音がして、扉が開く。


「夕食じゃあ、ないぞ。感動の再会と言うやつだ」


 扉の隙間から中に声をかけると、ベッドの上の影がもぞりと動いてゆっくりとフリンジワークの方を向く。


 純白のドレスと、それに負けず劣らず白い、病的にまで白い肌には、潤いがなくなりつつある。

 骨と皮だけになりつつある、細く長い手足。

 手首と折れそうな細い首には、血で汚れた包帯が巻かれている。両手両足には手枷足枷。首にはペットのように鎖つきの首輪まである。

 かつては金を融かした糸のようだった髪は、白に近いくらいに色が抜け、見ても分かるくらいにぱさついている。

 こけた頬、目の下の隈。口の片端は紫色に腫れ、血が滲んでいる。数日前にフリンジワークに殴り飛ばされた痕だ。

 けれど、痩せたせいで余計に大きく見える瞳のエメラルドグリーンは全く色あせておらず、意志の強さを感じさせる眼光の鋭さも一つも衰えていない。

 ハイジ・ゴールドムーンがそこにいる。


 そして彼女は、フリンジワークから、彼が引きずっている『ペテン師』に目を移し、ただでさえ大きな目を余計に見開く。


「マサヨシ」


 かすれた、しかし美しい声。


 脂汗に塗れたマサヨシもまた、苦痛に震えながらもハイジに目をやり、


「いやあ、ハイジ。会えて、嬉しいよ」


 こうして、久しぶりの再会を果たす。





「今更、ハイジ、お前の目の前で『ペテン師』を痛めつけて言うことを聞かせようとは思っていない」


 そう言いながらも、フリンジワークはマサヨシを左膝を蹴りつけながら部屋に叩き込む。

 悲鳴と共にマサヨシはハイジのいるベッドの脚に向けて吹き飛び、ぶつかってまるでボールのように跳ね返って部屋の隅へと転がる。


「少し前、目の前でミサリナを痛めつけてやっても俺への協力をうんと言わなかったお前だ。血が出るほどに歯を食いしばり、痩せてまともに動かない体で俺に向かって飛び掛ってきはしたがな」


 そしてフリンジワークは顔の右半分だけで笑いながら、ハイジの腫れた口の片端を見下ろす。


「おかげで、愛する妻に暴力を振るう破目になった。なあ? おまけに、病弱なのに暴れるから、体を気遣って全身を縛らなきゃならなくなった。愛妻家としてはつらいところだ」


 燃える様な目をして睨みあげるのはハイジだが、よろよろと顔を上げて、


「ミサリナ?」


 と、声を出したのはマサヨシだ。


「彼女、ここにいるのか?」


「ああ。心配するな。本格的な拷問はしていない。まだ、な。お前がこうやって俺の腹に飛び込んでくるのなら、いくらでも利用のしようがある。焦って拷問したり処分したりしないで、本当によかったよ」


 フリンジワークは部屋の片隅にある、女性用の華奢な椅子を脚で引き寄せると、軋ませながらそれに座る。


「まだ、片耳が取れたくらいだ。安心したか?」


 笑いかけるフリンジワークに対して、マサヨシはまた例の観察するような感情のない目で見返す。

 すぐ横のハイジが歯軋りをして、凄まじい形相でフリンジワークを睨み付けているのとは対照的だ。


「けれど、それについてお前が俺を責めるのはおかしな話だ。ミサリナがそんなになっているのは、お前が裏切ったからだろ、マサヨシ」


「ああ、確かにね」


 痛みに顔を歪めながら、ゆっくりとマサヨシは床に座りなおす。


「どういうことです? マサヨシ、どうして、あなたが」


 まだフリンジワークへの殺気を消さないままでハイジが口を出すが、


「黙れ、ハイジ。もちろん、お前も喋るなよ、『ペテン師』。いいか、ハイジ、お前は理解できないでいい。黙っていろ。そして『ペテン師』。お前も、こちらから質問しない限り、黙って聞け。これから話すのは、単なる、一方的な勝利宣言だ」


 フリンジワークは脚を組む。椅子が壊れそうに軋む。


 全てを見下し、焼き殺しかねないフリンジワークの視線と、マサヨシの温度のない観察する視線が絡み合う。


「マサヨシ。お前を望みどおり、アインラードとの戦争では前線指揮官にしてやる。よく働け。アインラードに勝ってみせろ。お前が必死にやらなければ、シャロンも戦争を継続しないだろうからな。せいぜい必死にやるがいい。だがそれでも、ノライ領は焦土と化す」


 黙って、マサヨシは見上げたまま呼吸を整えている。少しずつ、脂汗がひいていく。


「お前は、ノライが他の国に併合された意味を理解していない。ノライがこれからはロンボウの一部だと言われて、納得するノライ人はおらず、受け入れるロンボウ人もいない。ロンボウとアインラードの戦争、確実な勝利のため、そして元々のロンボウの領地を守るために旧ノライ領を見捨てる作戦を立案すれば、それはロンボウのもともとの国民には受け入れられる。文句を言うのは一部の知識人と、旧ノライ人ぐらいのものだろう」


「そんなことは、許されない」


 確固たる意志を込めてハイジがかすれた声を出すが、フリンジワークは視線をマサヨシから外さない。


「できないと思うか、俺に? 戦況をコントロールして、その作戦が国民に『熱狂的に』受け入れられる状況にすることを。そして、前線指揮官のお前の手で、トリョラを、いや旧ノライ領の全てを焦土と化す作戦を実行させることを。お前が間接的にノライの町を焼き民を虐殺することを。できないと思うか?」


「できるだろうね」


 少しの沈黙の後、マサヨシは静かな声で答える。


「そうとも。そして、お前はそれを実行せざるを得ない。それをしなければ、より多くの人間が苦しんで死ぬ状況に追い込んでやる。あるいは、お前が躊躇うごとに一本ずつ地下牢のミサリナの指を切り落としてやってもいい。正直なところ、戦争が始まったらな、そこの妻の存在価値もなくなる。俺にとってはな。だから、ハイジを切り刻んでやってもいいんだ、お前の目の前で」


 フリンジワークは剣を引き抜くと、刃でマサヨシの頬を叩く。


「ハイジは鉄の意志を持つ。目の前で親兄弟恋人が殺されようとも、自分の信念を曲げることはしない。だが、お前は違うだろう、『ペテン師』?」


「ああ、そうだね」


 頬に刃を当てられたまま、マサヨシは無表情で同意する。


「きっと、そうだ。俺はあんたの思うがままに動かされるだろうし、俺が戦争をどれだけコントロールしようとしたところで、あんたより上手くはコントロールできない。そう、戦争が始まれば、結局、俺が何をしようが守ろうとしていたものは全て破壊され尽くされる」


「物分りがいいじゃあないか」


「俺の数少ない美点の一つなんだ」


「つまり、こういうことだ。今のこの状況が、そのまま全てを表している。俺は五体満足で、体は頑強で、武器を持っている。『ペテン師』、そしてハイジ、お前ら二人は消耗していて、体はまともに動かず、武器の類は何も持ち合わせていない。分かるか? 何をしても、お前達は俺を止められない」


 満足したのか、フリンジワークは刃をマサヨシの頬から放すと、剣を杖のように床に突く。


「さて、それでは勝者と敗者が決定したところで、『ペテン師』、お前に訊きたいことがある」


「何なりと、どうぞ」


 青白く、脂のういた顔で、諦めによるものなのか、少しだけマサヨシは笑みを浮かべる。


「お前は、どうして帰ってきた」


 その質問をした途端、ざわついていた空気がぴたりと静かになる。

 質問をされたマサヨシは黙り、ハイジもまた、顔をマサヨシに向けて黙り答えを待っている。


「どうしても、お前の考えが分からないんだ、マサヨシ。一度逃げ出したお前が、どうして戻ってきた? お前如きが、本当に戦争を止められると思っていたのか? 国家というのは、巨大な化け物だ。誰かがその化け物を暴れさせることはできるが、宥めることは王にもできない。俺には分かっている」


「さすが、王の言葉には含蓄があるね」


 呟くマサヨシの声の調子にも、その静かな表情にも皮肉はこめられていないようだ。

 本心からのものだとフリンジワークは判断する。

 だかこそ、戸惑う。目の前の男は、心底、自分の言葉に感心している。


「父親を思い出すよ。あの人は、何でも知ってた」


 痛みを耐えるような表情をして、マサヨシは遠い目をする。


「そうか。で、答えろ。本当に、お前が戦争を止められると思っていたのか? お前如きが? なんの力もない、ただの『ペテン師』が。それに、そもそも、どうしてそんなことをする? 命懸けになることは分かっていたはずだ。お前は聖人か? 自分の命を捨ててまで戦争を止めて、万人の命を救う? そんな器か?」


 見下ろす。

 片膝を壊し、脂汗に顔を光らせているマサヨシを。惨めな『ペテン師』を。


「これでも、見れば大抵の人となりというヤツは分かる。お前は特に高い能力も、大きな器も、強い精神も持ち合わせていない。そんなお前が、どうして?」


「だからだよ」


 と、マサヨシは再び笑みを浮かべる。はっきりとした、自嘲の笑みだ。


「あんたの言う通りの人間だからだよ。どうしようもない凡人、取るに足らない小市民。まったくもって、正しい。その通り。だから、俺はここにいる」


 両手を広げ、まるで舞台の上で観客にアピールするかのように胸を逸らす。自嘲の笑みを深くしながら。


「フリンジワーク、あんたは能力は高いし、形は歪かもしれないけど器もでかい。精神の強さは折り紙つきだ。執着心って点で言えば狂気じみてるくらいにね。だから、分からない。俺みたいな人間のことが」


「何が言いたい?」


「責めてるんじゃあないよ。為政者はそうじゃないと。ほら、よく、庶民の気持ちや感覚が分かってないとか批判されることあるけどさ、当然だけど人の上に立つ人間の感覚が、庶民と同じじゃ困るし、それじゃ人の上に立てないよ。大の為に小を犠牲にする決断とかできないだろうしね。だから、それでいい」


 ふっと、マサヨシは顔を横に向けてハイジと目を合わす。自嘲の笑みから、何かをいたわるような柔らかく、そして少し悲しそうな笑みに変わる。


 対するハイジも、とても、寂しそうな顔をしている。


 すぐに、マサヨシは目をフリンジワークに戻す。


「優れた、人の上に立つ人間には、俺みたいなのの気持ちは分からない。ただ、ハイジは分からなければいけないと思ってる。そりゃあ、苦しいだろうから、やめた方がいいと思うけどね。いいことなんて一つもないし、そもそも無理だよ。違いすぎる。あんた達のような『凄い』人間には、俺の考えは理解できない」


 少しずつ、マサヨシの声が熱を帯びてゆく。

 黒い瞳が、少しずつ闇を増しているように感じられる。


「何もかもが嫌になって、全てを捨てて逃げ出す男の気持ち、『逃げ出したい』じゃなくて本当に逃げ出す情けない男の気持ちなんて分からない。逃げ出したくせに、元の場所が気になって仕方がない未練がましい男の考えなんて分からない。周囲にも自分自身にも嘘をついて、いい恰好をして誤魔化したいなんて考えも。そうでしょ? 確固たる意思ではなくて惰性で、仕方なく何かをやり続けるなんて考えられないはずだ」


「惰性、だと?」


「そう、惰性。凄い嫌な仕事でもさ、一度始めたら何となく終わるまで続けちゃったり、無意味に責任を感じてできるだけやり遂げようとする気持ち、分かる? 最悪な会社、ああ、ええと、商会でいいや、もう凄い最悪でどうしようもない商会に入ってそこで働き始めるとしてさ、何となく辞めるに辞められず、きっかけがなくてずるずると最悪な仕事を続ける気持ち、分かる?」


 意味が分からず、黙ってフリンジワークは目を細める。


「分からないでしょ、それでいいんだけどさ。ともかく、そういうことだよ。俺にとっては、惰性なんだ、正直。強い意思で戦争を止めるために戻ったんじゃあない。逆だよ。意思が弱かったからなんだ。よく分からないうちに、戦争を止めるために何かする流れの中にあってさ、俺はその流れに逆らったり無視して好きなように動くだけの意思の強さがなかった。だから、流されるように戻ってきたんだよ、実際。戦争を止めるのはやりかけの仕事だから、俺も手伝うのが流れでしょ。本当に戦争を止められるかどうかは、実際の話、多分俺にとって『重要じゃない』んだ」


「本当に、そんな理由で命をかけたと?」


「いや、庶民っていうのはさ、マジでそんな感じで、惰性で人生を浪費するんだよ。あんたらにとっちゃびっくりするかもしれないけど。庶民は本当に、そうやって生きていくことが多いんだ。でもさ、そうやって何となくで生きていく中で」


 一度言葉を切り、マサヨシは天井に顔を向けて目を閉じる。


「時々、本当に時々、ふっと何かに一生懸命になったり、足掻いてみたり、必死に守ったり抗ったりするんだ。そうして、ほんの少しだけ、価値のあることを成し遂げたりする」


 そうして、ゆっくりとマサヨシは目を開けて、


「今の俺みたいに」


 フリンジワークの頭の片隅で、警報がなる。


 次の瞬間、マサヨシは右脚だけでフリンジワークに獣のごとく跳びかかる。ぼろぼろの体からは想像できない瞬発力だ。

 意表を突かれたフリンジワークの胸倉を右手で掴んで、その喉笛に向かって自らの顔を引き寄せる。そして、口を大きく開く。


 獣の如く、喉を噛み千切ろうとでも言うのか。

 なるほど、武器を持ち込めず、満身創痍で、おまけに左膝を破壊されたマサヨシにはそれしか選択肢がないのかもしれない。そもそも、万全の状態だろうとマサヨシに襲い掛かられても簡単に撃退する自信はある。

 フリンジワークは冷静だ。冷静に、ただただ状況を分析している。

 なぜなら、その『ペテン師』の牙が自らに届かないことを知っているから。だから、床に突いている剣を動かすつもりすらない。


 マサヨシの歯が突き立ったのはフリンジワークの喉笛ではなく、横から突然突き出された拳だ。

 そしてその一瞬後には、腹部に蹴りを入れられて、苦悶の声と共にマサヨシは吹き飛び、再び元の位置まで転がる。


「悪いな」


 噛まれた左拳のその傷跡を撫でながら、フリンジワークの陰からぬるりとメイカブが現れる。いつの間にそこにいたのか、フリンジワーク自身にすら、分からない。

 だが、常に私兵としてフリンジワークの安全に気を配り続けているであろうことは分かっていたし、信用していた。


「これも仕事だ。気はすすまないが」


 そう言うメイカブの表情は、本当に気がすすまないのがありありと現れている。


「そう言いながらもきっちりと仕事をしてくれるのはありがたいな」


 笑いかけるフリンジワークに、メイカブは視線を逸らす。


 殺し合いを職業としているこの男の感覚が、実のところは相当にまともであることはフリンジワークにも分かっていた。だから、自分の狂気の沙汰に付き合うのにどんどんと嫌気がさしつつあることも。

 だが同時に、それでも仕事を放棄しない律儀な男であることもとっくの昔に見抜いていた。


「しかし、まさか、『ペテン師』の奥の手が、単純な俺の殺害とはな。期待外れだ」


「はは」


 呻きながら、腹を押さえて蹲り睨み上げながら、マサヨシは笑う。


「口先だけで、とか、血を流さずに、とか、そういうスタイルとかこだわりがあるかと思った? 俺、何度も言うけど凡人だからさ」


「大体、俺を殺すのを成功したとしても、それは決して大団円じゃあない。それも分からない無能か、お前? 俺を殺せばお前も死に、ハイジも死に、地下牢にいるミサリナも死ぬ。それから、ロンボウで混乱が起きる。旧ノライ派の連中が動き出すかもしれない。内戦が起こる可能性だってある。その隙をついてアインラードが戦争をしかけてきて、いや最悪の場合はサネスド帝国が動くかもな。ともかく、俺が生きて戦争を起こした場合以上の混乱が起こるだろう」


「知ったことじゃあないよ。何度も言わせないでよ、俺は、ただの凡人なんだ。そこまで責任持てないよ」


 虫のように蠢きながら、荒い息と共にマサヨシは言葉を吐き出す。


「しかしまさか、本当にあれで俺を殺せると思っていたのか?」


「ちょっと、期待したかな」


 くすくすと笑いだすマサヨシに、フリンジワークも苦笑する。


 この状況下で笑い合う二人を、気味が悪いものを見る目でハイジとメイカブは見ている。


「まだ、質問がある。なるほど、こういう手で俺に接近して、殺す。単純で成功率は低いだろうが、理解はできる。それなら、どうして他の連中を巻き込んだ? 最初から、お前が単独でアインラードに行って、シャロンに売り込めばいいだけの話だ。だがお前は危険を冒して一度トリョラに寄って、知り合いに協力を求めた。何故だ。何故、巻き込んだ?」


「巻き込んだってのは、人聞きが悪いな」


 へらへらとした薄笑いが半分、苦痛が半分の表情をしてマサヨシは言う。


「俺が行こうが行くまいが、結局、あんたはあいつらを始末するつもりだった。違う?」


「確かにな」


 フリンジワークは認める。


「むしろ、俺が巻き込んだのは他の大勢の人々の方だろうね。俺が協力を頼まなきゃ、ジャックもアルベルトもミサリナもスカイも、結構粛々と自分の命を諦めてた気がするんだ。もしそうだったら、トリョラ周辺のこの混乱ももう少し小さかった。多分、俺が彼らに協力を頼んだせいで、本来は死なないで済んだ人々が大勢死んだ」


 喋っている間に、マサヨシの表情からは薄ら笑いも苦悶も消えている。無表情。


「俺が殺したんだよ」


 真っ黒い、観察者の目。


「それは、どうしてだ?」


 少しだけ、その目に引き込まれそうになっているのをフリンジワークは自覚する。


「理由は二つある」


 そして、一呼吸置いてから、


「一つは、要するに、他の人が死んだり苦しんだりするとしても、それでもやっぱり、あいつらに生き残って欲しかったんだ。命を諦めて欲しくなかった。俺はさ、友達少ないから。父親に似てね」


「エゴイストだな。俺のことを非難できんぞ」


「庶民はエゴイストなんだよ。それで、二つ目は、あんたを追い詰めるためだよ、フリンジワーク」


「俺を?」


 意味の分からない答えに、思わず一歩フリンジワークは前に出る。


「フリンジワーク」


 それをメイカブが横から制止しようとするが、手で押しとどめて下がらせる。


「俺が、追い詰められているだと?」


 意味不明な言葉だ。フリンジワークは本気でマサヨシの正気を疑う。


「俺は、シャロンの狂気じみた俺への執着を利用してやろうと思って策を練った。けどさ、シャロンの狂気、俺が知っているくらいだからあんたも知ってる。あんたにとっちゃ不安要素だ。もし、全てがあんたの計算通りに進んでいたとしたら、ひょっとしたら念のためにって、シャロンの周囲に網を張っていたかもしれない。何もかもがうまくいくことなんてないってことくらい、賢いあんたは知っているだろうからね。そうしたら、のこのこ会いに行った俺はそれにかかって、おしまい。だから、あいつらにはできるだけ暴れて抵抗してもらって、あんたの計画通りに物事を進ませない必要があった」


 淡々と語るマサヨシの黒い瞳が、少しずつ、少しずつ引力を増しているように感じる。


「つまり、陽動ということか?」


 それならば、理解できる。


「そう。アインラード、それからシャロンから目を逸らすために、俺自身もトリョラ周辺で何かしようとしてるってフリまでしたよ。でさ、それと同時に、言ったでしょ、あんたを追い詰めるためだって。あんたが精神的に追い詰められていっぱいいっぱいになって、この可能性に全く思い至ってない状況じゃあないと、この策は簡単に潰される」


「追い詰められる? 馬鹿が。俺が、多少計画通りに進まなかったからといって、どうして追い詰められる? 俺は完璧主義者でもなければ、そこまで肝も細くない。まるで見当違いだ」


「そういう割には、握りこぶしが震えているね」


 マサヨシの指摘にフリンジワークは思わず自分の手元を見る。剣を持っていない左手は拳を作り、確かに震えている。

 何故だ?


「あんたほどの人でも、自分のことってのはよく分かっていないらしい」


「何だと?」


 もう一歩、前に出る。


「フリンジワーク」


 また制止しようとしたメイカブに、怒鳴る。


「下がっていろ、メイカブ! この男は死に体だ。報告を受けている。シュガーで全身はぼろぼろ、忘却地帯で自らを傷つけては自分で治療を繰り返しているせいで、傷だらけで体はまともに動かない。そして、膝も壊してやって、腹も蹴り上げられている。道具も何もない。どうしてこの男を恐れる必要がある?」


 そして、怒鳴りつけた自分自身に驚く。

 何を、一体何を自分は興奮している?


「フリンジワーク。そこまでだ。それ以上近寄るな。また噛み付くかもしれん」


「だったら、剣で斬り殺してやるさ。分かった。ここまでだ。これ以上は近づかないから、下がれ」


 深呼吸をする。

 そうだ、冷静になれ。何を興奮しているんだ。

 いや、冷静だ。最初から、自分は冷静なんだ。

 まだこの距離なら、マサヨシからフリンジワークまで大股で二歩というところだ。マサヨシがまた飛び掛ってきても、メイカブが何かしら動けるだろう。


 フリンジワークは視線を感じる。

 マサヨシの、温度のない観察者の黒い瞳がじっとフリンジワークを見ている。


 

 少し迷った素振りを見せながらも、メイカブは脇にどく。

 壁にもたれながらも、すぐに飛び出せるようにじっと視線をマサヨシに注いでいる。


「マサヨシ、お前は、俺よりも俺のことを分かっているとでも言いたいのか?」


 呼吸を落ち着けながら、努めてフリンジワークは静かに声を出す。


「ある一点においてはね。シャロンが狂気じみた執着を持っているように、フリンジワーク、あんたも狂気じみた執着を持ってる。ノライを破滅させることに。そうでしょ?」


「ああ、そうだ。認める。俺は勝ちたいんだ。ハンクに、あの『料理人』に勝ちたい。ただそれだけだ。死のうがどうしようが関係ない。奴の計画を滅茶苦茶にしてやる。それが、ずっと掌で踊らされ続けてきた俺が、奴に打ち勝つ方法だ。だからなんだ? それが、どうしたというんだ」


「あんたにとって、この計画は、ノライをぶち壊す戦争は特別なんだ。だから、その計画が狂うと追い詰められる。絶対に失敗することのできない計画だからね」


 汗。

 圧倒的有利で、相手は死に体。だというのに、追い詰められているかのように自分が汗をかいていることにフリンジワークは混乱する。


「どうしてハンクにそんなに執着してるのか。それは、ハンクがあんたを産まれて初めて負かした男だからだ。あんたが心から敗北を認めさせられた男」


「そうだ。だから、俺は憎い。憎いんだよ、ハンクが。だから奴の計画をぶち壊してやる」


 呪詛の言葉が零れる。

 それは紛れもなく本心だ。そのはずだ。少なくともフリンジワークはそう思っている。

 なのに。


「本当に、そんなに単純かな。だって、単に憎いんだったら、ハンクが生きている間に勝負を挑んだりノライを破壊しようとしたり、あるいはハンクを殺そうとしたりすればいいだけの話でしょ。けど、あんたはそれをしなかった」


 心臓を掴まれたような感覚。


「まあ、分かるよ。複雑だからね。こう、憎しみもあるけど情もあってさ。嫉妬や羨望もあるし軽蔑も混じるし」


「何だと?」


「そういうもんだよね。父と息子ってのはさ」


 意味不明な言葉の羅列にしか思えない。

 だというのに、フリンジワークは一歩よろける。


「自分を生まれて初めて負かした男。子どもだった自分には超えられなかった壁。ほら、あんたにとってハンクは父親役だったんだ。実の父親や他の人間とは、あまりにも自分の能力が高すぎてそういう関係を築けなかったあんたにとっては、『料理人』が父親役だった。思いっきり有能な、劣等感を覚えるくらいの父親役だ。だから、気持ちが分かるんだよ。俺のとこも、ひどいもんだからさ、実際」


 でさ、とマサヨシは唇に舌を這わせて血を舐めとる。


「親を超えようとするのって、子どもが大人になる過程で絶対必要になるらしいよ。通過儀礼みたいなもんなんだってさ。ところが、あんたの場合、高い能力が悪い方向に働いたのか、それとも立場やハンクとの関係の特殊性のせいか、それを、こじらせた。子どもが大人への成長の中でごく普通に、当然のようにするそれをあんたは失敗して、こじらせにこじらせてこんなおおごとにしてるんだよ」


 フリンジワークは、マサヨシの黒い瞳から目が離せなくなっている自分に気付く。


「だから、あんたがしているこれは、ようやく訪れた、大人になるチャンスなんだ。そのチャンスを潰されそうになるんだ。神経質にもなるさ。これを失敗したら、一生子どものままかもしれないんだしね」


「口だけは達者だな。さすがは『ペテン師』と呼ばれるだけある」


 余裕を持って発言しようと試みたが、それはうまくいかない。

 自分の声がかすかに震えていることにフリンジワークは気付く。

 だが。

 自分の頭の中で、歯車が嚙み合って動き出すイメージ。ひらめきが、フリンジワークの頭を正しく動かす。


「だがそれでも、それで動揺させても、やはり俺の勝ちだ」


 冷静さが勝る。

 フリンジワークの理性と能力が、動揺に打ち勝つ。

 マサヨシの狙いを読みきったからだ。それが、冷静さを急速に取り戻してくれる。


 何故、マサヨシがこうまで自分を挑発するのか。

 もちろん、自分を激昂させるためだ。激昂させ、攻撃させようとしている。今までのようにメイカブの制止を無視して、マサヨシに掴みかからせようとしている。

 それはそうだ。フリンジワーク自身が言葉にしたように、もうマサヨシは死に体。策もなく、武器もなく、体すらまともに動かない。

 戦争を止める策は、もう、どれだけ成功率が低くとも今、この場でフリンジワークを殺すしかない。おそらく、また噛み付くつもりだろう。それしか手はないのだ。もう、手足をもがれたも同然の状態なのだから。


 だから、フリンジワークは薄く笑って一歩後ろに退く。

 もう何も感じない。動揺はない。

 さっきから引き込まれるようだった黒い瞳からも、視線を外せる。

 視線を外したフリンジワークは横のハイジが傷を負った獣のような表情で自分を睨んでいるのを見る。


 そして、壁際のメイカブはどうやらフリンジワークが興奮しているのを見て背中を壁から離していたらしいが、フリンジワークが冷静に戻り一歩後ろに下がったのを確認して明らかに安堵した表情で再び壁にもたれる。


 それを見た後で、再び視線をマサヨシに戻したところで、止まる。

 思考が止まる。


 マサヨシは、左手の掌をこちらに向けるようにしている。まるで突進してくるフリンジワークを制止するような形だ。だが、フリンジワークは突進どころか後ろに下がっている。その姿の意味が分からない。


 何のつもりだ?


 黒い瞳。それを見る。フリンジワークの背筋に理由もなく怖気がはしる。


 冷静な観察者の目。未だに。

 もしも、最後の悪あがきで挑発して隙を見つけて噛み殺すのが目的ならば、どうしてそれが失敗に終わった今も、そんな目をするのか。

 感情のない黒いガラス玉のようにも、底なし沼のようにも見える。


 一瞬の間に、様々な疑問がフリンジワークの頭をよぎる。


 かつて、シャロンは『ペテン師』に負けた。能力と傾向を読みきられたために。

 自分はどうだ。フリンジワークという男の能力と傾向は読みきられているのか?

 分からない。分からないが、しかし、読まれていてもおかしくはない。自分は、それを隠すという作業をしていなかった。自信があったからだ。負けるはずがないと。


 最初。最初から考えなければ。

 思考は加速する。

 この男は戦争を止めるために戻ってきた。それは間違いない。その方法は、つまり、シャロンに自らを売り込み戦争をコントロールする立場に置くという手だ。

 だが、フリンジワークにそれは無駄だと宣言されたために、悪あがきとしてフリンジワーク自身をその場で殺そうとした。

 本当に、それで正しいのか?

 仮にも『ペテン師』と呼ばれた男が、本当に自分が前線指揮官になりさえすれば戦争をコントロールできると思っていたのか? そもそも、ペテン師はノライ領に被害を出さないような策を出せるほどの戦上手なのか?


 何かが、妙だ。

 どうしてこの奇妙さに気がつかなかった?

 フリンジワークは自問自答する。

 それは、認めたくないが、マサヨシが言っていたように精神的に追い詰められていたからだ。この戦争とそれによるノライの破滅は通過儀礼。絶対に成功させなくてはならない計画をかき乱され、その挙句にシャロンがマサヨシを連れて来た。そしてマサヨシの策を知った。

 そう、だからこそ、そのマサヨシの策を完膚なきまでに叩き潰してやりたかった。目の前で、お前の策は意味がない、計画は進行すると言ってやりたかった。肉体を痛めつけたかった。目の前で人質のハイジを見せて、ミサリナをいたぶっている話もしてやって、精神をぼろぼろにしてやりたかった。

 そしてそれをした。

 だが、本当にそれは自分の意思か? マサヨシは自分のハンクへの執着を読んでいた。これは、誘導された結果じゃあないのか?


 いや、そんなはずはない。

 フリンジワークはそれを否定する。

 もし誘導だとしたら、その結果がどうだというのだ?

 確かに、自分に近づくことはできる。だから、自分を殺すチャンスはあるだろう。だが、結果はどうだ。そのチャンスはあっさりと潰された。

 当然だ。

 左膝は壊してやったし、そもそもそれ以前の問題として報告から分かっていたことだがマサヨシの体はぼろぼろでうまく動かない。そんな状態で、道具を使わず自分を殺せるはずがない。いや、体がまともだったとして、並みの相手に負けるつもりはない。自分で言うのもなんだが、戦士としてもなかなかのものなのだ。


 それに加えて。

 フリンジワークは視線をまたメイカブに戻す。壁にもたれているメイカブ。

 そう、当然のことながら護衛がいる。いくら自分でも、一人きりで対峙はしない。メイカブを、密かに護衛につけていた。

 まさか、一国の王が完全に一人だけで自分の前に立つことを予想していたのだとしたら、マサヨシの考えは甘いにもほどがある。

 そう、自分を誘導して、その結果近づいて殺すという計画は、あまりにも無理がある。


 またフリンジワークは視線をマサヨシに向ける。

 一秒にも満たない間の視線の移動。

 だがその間に変わっていることがある。マサヨシの、こちらに掌を向けて出している左手。その薬指が、奇妙な形に折り曲げられようとしている。

 どうも、左手はうまく指が曲がらないらしい。それも、報告を受けている。忘却地帯で自分を傷つけた挙句、それを自分で治療した結果だ。それなり以上の医療技術を身につけてトリョラに戻ってきたマサヨシは、避難所で医療活動をしていたという。その医療技術は、おそらく自分の体を実験台にして様々な治療をしてきたために身につけたものだ。

 全身の傷。縫合跡。それが物語っている。そして、その後遺症として体がうまく動かない。特に左手はまともに動かないのだと報告を受けている。

 特に深い縫合跡が、掌の手首の近くにある。それをこちらに向けるようにして。


 不意にフリンジワークは周囲の音が消えたように感じる。

 何か、何かがひっかかる。

 メイカブが壁にもたれている。激昂していた自分が冷静さを取り戻して一歩下がったからだ。だから安堵している。気が緩んでいる。

 それは当たり前だ。相手は武器も何も持っていない死に体。距離を離せば危険はゼロだ。悪あがきすらできない。

 そして自分も無意識のうちに前に気を抜いている。一歩下がった瞬間、今、この瞬間に。


 それも、まさか誘導か?

 自棄になったような、捨て身の攻撃。あれは、失敗することが前提だったんじゃあないか? マサヨシ自身も言っていた。『ちょっと』期待していた、と。つまり、成功しないと思いながらの。

 あれは、つまり、裏に隠れているであろう自分の護衛を表に引っ張り出して確認するための行動だったとしたら。

 そう、メイカブを表に引きずり出された。

 そして、奴はどうした? 挑発を重ねた。激昂させるために。

 本当に?

 フリンジワークは全てが疑わしくなるのを感じる。

 激昂させて、自分がマサヨシに掴みかかっていたとして、マサヨシが捨て身の反撃をすればそれは通ったか?

 通らない。真正面から叩き潰す自信がある。

 それに、そこまで接近したならばメイカブも気を張る。マサヨシが何かしようと動いた瞬間に、メイカブが飛び出してくるだろう。

 だが、今はどうだ。今この瞬間、表に出たメイカブは安堵して気を緩ませ、自分も同様だ。このために全てがあったとしたら?

 あからさまな挑発で、フリンジワークがマサヨシの意図に気付き、冷静さを取り戻す。そして距離をとることで、フリンジワークとメイカブが安堵する瞬間。その瞬間こそが、狙いだったとしたら?

 いや、だが、ここから奴に何ができる?


 真っ黒い、星のようだ。黒く大きな星のような瞳に、圧倒されている己にフリンジワークは気付く。背筋の悪寒は酷い。

 思考は、実際には一瞬。その一瞬の後に、もう一歩、ほとんど意識せずにフリンジワークは後ろに下がっている。その脚が震えている。

 喉が渇く。世界から色が失われたようだ。マサヨシの黒い星だけが、フリンジワークの視界の中で膨張している。背筋の悪寒はもう耐え切れない。


 そうしてようやく、自分が生まれて初めて、『敵』に恐怖しているのだとフリンジワークは認める。


「め」


 プライドもスタイルも何もかも捨てて、メイカブに助けを呼びながら飛び退いて逃げ出そうとした。理由のはっきりと分からない恐怖が理性を超えて、フリンジワークの内部で悲鳴をあげ続けている。何でもいい、ともかくここから逃げ出さなければ。『ペテン師』から見えない場所に行かなければ。そう思った。


 だが、それが実行に移される一瞬前に。


「フリンジワーク」


 凍えるような『ペテン師』の声が、時を止める。


「表か裏か、どっち?」


 意味の分からない問いかけと共に、左手の薬指が、がきりと人体からは出そうもない音を出して完全に曲がる。


 次の瞬間、凄まじい速度で飛来した太い針、あるいは杭がフリンジワークの右目に突き刺さる。その速度ゆえに長いそれは右目を貫通し先端はフリンジワークの脳の奥深くまで達する。そしてあまりの衝撃にフリンジワークの頭は首の骨を軋ませながらのけぞる。


 誰も何も言わない。時が止まったように。完全な静寂。

 ハイジもメイカブも、今の目の前の光景が信じられないのか唖然として動きを止める。

 無表情のまま、観察者の目をしたままのマサヨシの左手、手首の近くから大量に溢れ出る血だけが、部屋の中で動いている唯一のものだ。


 やがて、ゆっくりと一歩、フリンジワークは後ろへ下がる。

 フリンジワーク自身、何が起こったのか分かっていない。分からないまま、のけぞったままよろめく。よろめきながらも姿勢を保ち、立ち続ける。

 思考は粉々になり、かき回されている。

 のけぞったフリンジワークの視線は天井に向いている。

 半分になった視界、赤く染まりつつある視界の中で、フリンジワークは何もない天井を睨みつけて、朦朧とした意識がどろどろと言葉を零す。


「ハンク、俺は」


 そこまで呟いたところで、フリンジワークの視界と意識は真っ赤に染まる。

 打ち込まれた傷口はもちろん、それ以外の目、鼻、耳、口、あらゆる穴からどろりと血を流しながら、ゆっくりと二度、三度体を揺らして、フリンジワークはどう、と床に倒れる。


 こうして、かつての『無能王子』は、妻と護衛と敵の三人にだけ、その死に様を見せて、死ぬ。

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