終わり1
混乱。
そうとしか言いようのないトリョラでのごたごたが収束してから数十日が過ぎた。
住民の数割が死亡、行方不明になるという大惨事ではあるものの、それはトリョラの中の惨事であって、外に与えた影響は驚くほど少なかった。
当事国であるロンボウですら、冷ややかな目で見ていたと言っていい。ロンボウの国民達にとっては、併合されたノライの領地はまだ自分達の国の一部という認識は薄い。元々、ノライの国民からしても移民や難民の坩堝だと白眼視されていたトリョラという町ならば、なおさらだ。
トリョラの外のほとんどの一般人からの認識は、元々犯罪者や後ろ暗い連中が集まっていた町で、そういう連中同士が殺し合っただけ、というものだ。
そして、トリョラの住民の多くは、そんな目で見られることに慣れている。
だから、あれだけの混乱が収まった後には、住民は必要以上に嘆かず絶望することもなく、また日常へと戻っていく。
大規模な混乱の傷跡は消えず、多くのものは破壊されたままで、傷を負っているものも多い。住民も、親しくしている人間の誰かしらは死に、消えた。それでも彼らは速やかに元の生活へ戻っていった。それは、もうじき戦争が近づいてくるという話がそこかしこで囁かれても、トリョラが主戦場になるのではないかという話が飛び交っても、変わらない。結局、彼らは逞しい。
戦争。そう、戦争の噂、というよりも予兆はそこかしこにある。そもそも、あった。
人々の中には、トリョラの混乱自体は重視しなくとも、それをきっかけに戦争が始まるのではないかと予想していた者もいた。
だが混乱が終わり、そして数日、数十日経っても未だ戦争が起こらないこの状況に、彼らは安堵してその話を忘れていった。戦争が始まるという予兆も偽物だろうとすら思っている。
裏の事情を知る一握りの者達は、戦争が始まらないことを心底不思議がっていた。
フリンジワークとシャロン。ロンボウとアインラードのトップが互いに戦争を望んでおり、その最後の調整としてトリョラの混乱があったことを知っているからだ。なのに戦争が未だ起きていないこの状況に、狐につままれたような気分になっていた。
そして、メイカブもまた、狐につままれたような気分で日々を過ごしている。
剣を振るう。
鍛錬を欠かしたことはない。今日も木剣で部下と打ち合い、そして部下を三人負かしたところで休憩を取る。
カーターを殺したことで何らかのお咎めがあるものと思っていた。読みが外れて、結局『ペテン師』を捕まえられなかったから、特に。
だがフリンジワークからは何もなかった。というよりも、最近のフリンジワークはメイカブやマサヨシのことも大して気にしていないような素振りをする。もっと他の何かが気にかかっているような。
それが戦争が始まらないことと関係しているのだろうか。
汗を拭いながらぼんやりとそんなことを考えているメイカブは、このことを誰かに話したくて仕方がなくなってくる。だが、部下に話すわけにもいかない。
話し相手になりそうなのはフライだが、彼があのトリョラの混乱の中で死んでしまったことはメイカブも知っている。
仕事をしながら、そこでの疑問や不満を仕事終わりや合間に酒を飲みながら愚痴る。
そんな当たり前のことすらできない自分に気付いて愕然とする。
魚を獲るのが得意な人間が漁師になるように、殺し合いが得意だったから戦士になった。ただそれだけで、ごくごく普通の、ただの人間のはずだ。少なくともメイカブは自分をそう分析している。
その自分が、いつの間にここまで普通じゃない生き方をする破目になったのか。世の労働者のほとんどができる息抜きすらできない。
汗を拭っていた布を投げ捨て、メイカブは空を仰ぐ。
だが、途中でこの仕事を辞めるつもりはない。それは責任感とか矜持とかではなく、もっと受動的な何かのためだ。その一方で、全部を終わりにしてやりたい気もする。
「ああ」
自然とメイカブは呟いている。
「そうか、少しだけ分かったぞ、『ペテン師』。けど、だとしたらただ逃げているわけがない。やはり、戦争が始まらないのはお前のせいか。けど、どうやって?」
答えるものはいない。
王の私室は、荒れ果てている。
その主もまた、一時期見せていた雄雄しい英雄の面影は消えさり、酒に濁った目をどろりと部屋に彷徨わせ、伸び放題の無精髭を撫でている。
空になった酒瓶を壁に投げつける。
響く破壊音が、従者を呼ぶベル代わりだ。
「はいっ」
慌ててまだ若い従者が部屋に飛び込んで、床の破片を踏みそうになりよろける。
「報告はぁ、来たか?」
フリンジワークは開口一番それだけ尋ねる。
呂律がまともにまわっていない。
「い、いえ。まだ」
「急がせろぉ」
「はいっ」
毎日のように同じことを言われる従者の顔色は日々悪くなっている。心労のせいだろう。
その従者を気遣うつもりもなく、フリンジワークは傍に転がっていた新しい酒瓶を掴みあげると、ろくに中身を確かめもせずラッパ飲みをする。
酒を浴びるように飲みながら、舌打ち。
フライが死んだ。
いなくなって改めてフリンジワークは思うが、フライが消えるというのは目と腕が両方なくなるようなものだ。
他の部下では代用できない。痒い所に手は届かず、遠くをしっかりと見ることは出来ない。
特に知りたいことがある、この時に限って、フライがいない。
それは全身を引き千切りたくなるくらいにもどかしい。
フリンジワークは苛立っている。
どうしようもなく。
彼は戦争を始めていないのではない。始められないのだ。
「ふ、フリンジワーク様っ」
ついさっき出て行った従者がもう駆け戻ってくることに、フリンジワークは眉をひそめる。
「どうした?」
酒瓶から口を離し、物憂げにフリンジワークは訊く。
「来ましたっ」
「何がだ?」
「アインラードから、使者ですっ」
ばきん、と音がする。
ほとんど無意識のうちに、握り締めたために酒瓶が砕け散る。
手に浴びた酒をべろりと舐めとり、フリンジワークは立ち上がる。
「謁見の間に通せ、今すぐにだ。俺もすぐに行く」
瞳孔が絞られ三白眼になったフリンジワークの顔を見て、ひっと喉を鳴らして従者はまた部屋を駆け出る。
立ち上がり、首をゆっくりとまわしたフリンジワークは真正面を睨みつける。
ようやく、事態が動く。どういうことなのか、問い詰めてやるとしよう。
痩せ細った男が、口をもごもごとさせながら跪く。
普通ならば口に物を入れて王の前に出るなどありえないが、この男にとっては何かを食べている状態こそが通常なのだ。
一度か二度、顔を合わせただけだが、フリンジワークにはそのことがよく分かっている。
だから、その男の態度を咎めようと目を尖らせた左右の者を軽く手を挙げて黙らせる。
「コロコ。久しぶりじゃあないか」
酒焼けした声でそう語りかけると、口の中のものを飲み込んでからコロコは頷く。
「失礼しました。フリンジワーク王においてはご壮健でありますことを心より喜び」
「やめろ」
長々しい挨拶を舌打ちでフリンジワークは打ち切らせる。
「食いながらでいいから、本題を話せ。どうなっている?」
「こりゃあ、失礼」
コロコは紙袋を取り出す。
破ると、中の焼いた鶏にかぶりつき、凄まじい勢いで平らげていく。
あまりのことに謁見の間に控えているフリンジワーク以外のものは瞠目する。
だがこの男が今やアインラードでシャロンの信頼を得て、巨大な力を持ちつつあることは確かだ。ハヤブサが右腕だとすれば、今やこの男は左腕になりつつあるという。
元々は腕一本でやっていた船乗りでありながら、密貿易で莫大な財を蓄えると共に暗黒大陸に人脈を広げ、その財と人脈を元手に、サネスド帝国と繋がりを強化しつつあるアインラードの中をのし上がっていった。
フリンジワークの中では、コロコはミサリナやカーターのような人間と同じ部類に分類されている。つまり、俗物だ。普通の人間が持つような普通の欲を持つ。ただ、その欲の量とそのために使用される能力が常人離れしている。
「うちの姫が、フリンジワーク王がやきもきしているんではないかと心配してましてね。それで、俺が使者に来たってわけで」
コロコは骨から肉を噛み千切る。
「それで?」
「いやあ、いいんですか、ここで話して」
「ん、ああ」
確かに、薄々は勘付いている者もこの場には多いだろうが、フリンジワークが戦争を起こしたくて仕方がないし、それについてシャロンと連絡を取っているという話をここで公にするのはまずい。
ましてや、その理由がフリンジワークのごくごく個人的なものだとは、本当に限られた人間にしか明かすことは出来ない。
「少し、外せ」
フライがいればあいつくらいはこの話の時も傍にいさせられたがな、と思いながらフリンジワークは人払いをする。
多少躊躇いながらも左右の人間がいなくなり、謁見の前にはフリンジワークとコロコだけになる。
「それで?」
足音が遠く消えたタイミングで、フリンジワークは促す。
「戦争については、少し待ってくれというのが、うちの姫さんの主張です」
骨をしゃぶりながら、あっさりとコロコが言ってのける。
殺意で両目が赤く染まることを自覚しながら、フリンジワークは立ち上がる。
「ふざけるな。反戦派も政敵も、例の混乱の最中で俺の手の者が殺してやっただろう。今、アインラードの権力はシャロンに集中しつつあるはずだ」
「ええ、ええ」
「戦争ができないなど、そんなはずはない。なのに、何だと言うのだ。あの混乱の後、俺が全ての責任はアインラードにあると発表しようとも、軍事的圧力をかけようとも、どんな挑発行為をしようともロクに反応しようともしない」
それこそが、フリンジワークがイラついている原因だ。
何をしてものれんに腕押し。
戦争は、相手がいなければできない。アインラードが全て受け入れているこの状態で戦争に突入しようとも、ロンボウの国民が許さないだろう。万が一戦争に突入したとして、今の異様なアインラードの状態ならば、一切抗戦しないこともありうる。一方的に侵略し、征服するだけ。それは戦争になり得ないし、そもそもの目的が、完膚なきまでに旧ノライを消滅させるという目的が果たされない。
「一体、何が問題だというんだ」
「ああ、その」
未練がましく骨を齧っていたコロコは、言いにくそうに目を一度逸らしたあと、
「実は、問題はないんです」
「何?」
「今、明らかに国益を損ねてまで戦争を回避しているのは、シャロンの意志だってことです」
「馬鹿な」
どっかと王座に腰を降ろし、フリンジワークは天井を仰ぐ。
「そんなはずはない。戦争をしたい。その一点で俺達の利害は一致していたはずだ。俺はノライを滅ぼすため、奴は勝ち戦の姫としての自分を取り戻すため。今更、なんのつもりだ?」
「駆け引きですよ。別に驚くようなことじゃあない。交渉の場で、相手の希望を叶えずに焦らしてこちらの要求を呑んでもらう。よくあることだ」
「ようやく、話が前に進んだな。しかし、解せん。戦争に有利になるような駆け引きをするつもりか? それで勝って、奴は満足するのか? そういうタイプだとは思っていなかったが」
「いや、そういう要求じゃなくて、ねえ。俺もよく理解できないんですけど、姫にはその、ほら、凡人には理解できない、こだわりというか」
「俺に気をつかわなくてもいい。確かに、シャロンも俺もマトモではないからな。それで?」
フリンジワークは殺気を抜かないままで、足を組み頬杖をつく。
「一体どんな条件だ」
「それについては、ご本人からお話したいと」
「何?」
どういう意味かと目を細める。
「絶対に、他言無用の話ゆえ、城ではできないそうです。今夜、ヒュプノスで会いたいと。ご存知ですか?」
「ああ、知っている。会員制の高級レストランだ」
何度かフリンジワークも使ったことがある。
「ええ、正直、食事の味自体はそこまで大したことありませんが、密会にはうってつけです」
グルメらしい言及をしてコロコはにやりと笑う。
「そこに、シャロンが来ると?」
「ええ、もう、ロンボウには入国しています」
「ふむ」
足を組み替えてフリンジワークは考える。
どういうつもりかは分からないが、とにかく会えというのなら会ってやろう。それで、もしもふざけたことを言うようだったら、その場で殺してやる。
シャロンを殺したと発表すれば、さすがにアインラードも動かざるを得ないだろう。戦争が起こる。もっとも、それをしてしまえばさすがにフリンジワークも今の権勢を失い軟禁状態になりかねない。だから最後の手段ではあるが。
しかし、できないとたかをくくっているのならば、やってやる。
「いいだろう。しかし、大変だなお前も。狂人の板挟みにされて」
「はは、いやいや。どうも、ハヤブサさんがあの混乱の中で再起不能になっちゃったらしくて。とうとう俺が右腕ですよ。その証拠だと思えば、こういう仕事も悪くない」
笑い、ようやく齧っていた骨を懐に入れるコロコの痩せた顔を見て、フリンジワークは鼻で笑う。
こういう男は滅びない。どういう時代、場所でも生き残る。不愉快なことだが。
それなりに高い能力と、それなりの欲。だが何かに酷く執着することはなく、どんな状況でもそれなりに楽しみ、まずいとなったらあっさりと逃げ出す。
そんな風に俺もなれていれば、とふと自分らしくないことを思っているのに気付いて、少しだけフリンジワークは狼狽する。
白い漆喰の壁に囲まれた、小さな部屋。
窓もなく、唯一ある扉は木製の巨大で重いもの。
そして部屋の中央には、部屋のサイズとは不釣り合いなサイズのテーブルと、椅子がある。テーブルの上には色とりどりの料理が少量ずつ、洒落た器に入って並べられている。
椅子に座っているフリンジワークは、だが料理には一切目をやっていない。グラスに注いであるワインをひたすらに喉に流し込みながら、正面にある扉をじっと見ている。
個室に入るまでは帽子を被っていたものの、今ではその帽子も外し、服装も特に気をつかってはいない。私室にいる時のフリンジワークそのものだ。
やがてその扉が開き、真っ黒い服を着た女性が入ってくる。黒いフードを被っているが、そこから覗く赤い髪と唇は間違えようもない。
「待たせたかな?」
「いいさ。飲んでたんだ。座れよ」
フリンジワークの言葉に頷き、女性がフードを取ると長く艶やかな真っ赤な髪が露になる。そうして、シャロンは椅子に座る。
「何か飲むか?」
「結構。話をしに来ただけだから」
「そりゃあ、こっちも都合いい」
どろりとフリンジワークの視線がシャロンの目を射抜く。視線だけで人を殺せそうなほどに鋭く、凶暴だ。
「まだるっこしいのはなしだ。コロコから話は聞いた。で、要求は何だ? 戦争をするために、俺に何を要求する」
身を前に乗り出してのフリンジワークの追求に、シャロンは真っ直ぐ正面から見返し、
「私は、かつて『ペテン師』に負けた」
そう、口を開く。
「私は『勝ち戦の姫』ではなくなった。だから、戦争が必要だ。戦争で、戦い続け、勝ち続けることで元の『勝ち戦の姫』に戻るために。けれど、それは、所詮、代償行為。私が本当にしたいことは、あの敗北をなかったことにしたい。あの敗北を勝ちにしたい。それだけ」
「そんなことは不可能だろう」
「そう。不可能。だけど、『ペテン師』に勝つことなら、まだできる」
「何?」
怪訝なフリンジワークに対して、シャロンは落ち着き払った態度で手を叩く。
すると、扉がゆっくりと開き、さっきまでのシャロンと同じく黒いフードを被った人間が部屋へと入ってくる。
少し、ぎこちない動きだ。四肢が上手く動かないような。
まさか。
硬直するフリンジワークを尻目に、フードが外される。
黒い瞳。黒い髪。不健康に痩せた頬。無数の傷。
薄ら笑いがそこに浮かんでいる。
マサヨシが、そこにいる。
「私の要求は、とてもシンプルだ」
まだ硬直しているフリンジワークを無視して、シャロンは言う。
「戦争で、彼を使え。前線指揮官にでもするんだ。フリンジワーク、あなたは彼を思い通りに動かす人質をいくつか持っていると聞く。彼が我々に勝つために命がけで知力体力を振り絞って戦うよう強制できるだろう?」
シャロンの横で、マサヨシは薄ら笑いを深くする。
「私は『ペテン師』を打倒する。そして、その後にも戦争は続く。私がこれをすることと引き換えに、ヒーチがサネスド大陸への侵攻をサポートしてくれると確約した。私にはコロコもいる。『ペテン師』を倒して『勝ち戦の姫』を取り戻し、ロンボウとの戦争に勝ち、サネスド帝国との戦争に勝ち、勝って勝って勝ち続ける。そのための、これ以上ない第一歩だ」
上を向き、フリンジワークは嘆息する。
「まさか、な」
まさか、こんな手を打つとは。
戦争を起こさないことを諦めて、戦争をコントロールする側に立つか。確かに、『ペテン師』が前線指揮官となり、勝ち続ければノライ領は被害を最小限にできるかもしれない。だが、そんなに戦略、戦術に自信があるのか?
しかし。
「戦争は手段だ。俺とお前では、目的が違った。それを、忘れていたよ」
フリンジワークはシャロンを最後に一度だけ睨み、ゆっくりと視線をマサヨシに移す。
マサヨシの黒い瞳が、真っ直ぐに見返してくる。
「いいぞ、お前を俺の腹に入れてやる」
これで何とかなっていると思っているなら大間違いだ。
どうにでも料理できる。それを教えてやる、『ペテン師』。