死3
『瓦礫の王』に今の日々を感謝しなければいけないのかもしれない。
「なあ、おい。食えない駆け出しの傭兵に、よく付いてきたもんだよなあ、おい」
十数年の間、毎日繰り返すそのセリフをまた今朝も繰り返して、食卓についたドラッヘは入れてもらったコーヒーを口にする。
この一連の作業は、毎朝の儀式のように決まりきったものだ。
「はいはい」
呆れたようにテイラーは肩をすくめ、手早く朝食の準備を進める。
出会った頃、ドラッヘが傭兵の青年だった頃、まだ少女だったテイラーは心配になるくらいに痩せ細っていたが、今では丸く肉付きがよくなっている。儚げな面影も消えて、ころころとよく笑う図太い女になった。きっと、母になったことが大きいのだろう。
「まだアメリアは寝てるのか?」
「そうみたいねえ。昨日、夜遅くまで遊んでたから」
ため息と共にテイラーがかりかりに焼けたトーストを出してくる。
ドラッヘは、それにバターを切り取っては欠片を載せていく。
「……ねえ」
向かいに座ったテイラーが、俯いてしばらくの沈黙の後、意を決したように顔を上げる。
「ん?」
「そろそろ、あんたさ、傭兵やめる気はないの?」
何故だか考えがまとまらず、少しだけ間を置いてから、返事をする。
「ああ」
またその話か、とドラッヘはトーストを頬張り、頭をかく。
「まだアメリアだって小さいのによ、傭兵やめてどうやって食っていくんだよ」
「仕事なんてどうにでもなるじゃない。三人食べていくだけならさ。それよりも、あの娘から父親を奪いたくないのよ」
いつもこの話は平行線だ。
そう、いつもいつも。
いけない、どうも、返事をする前に頭で何か長々と考えてしまう。
「他の仕事したことないんだよな」
「傭兵だって最初はしたことなかったでしょ」
「そりゃあ、最初だからな」
心配してくれているのは分かるが、どうにも話がまとまらない。
「内戦が終わったっていうのに、どうしてあんただけ戦場に行くわけ?」
「あのな、国もない、頭もよくない、技術もないんだ。傭兵稼業だけなら、自信がある。お前とアメリアを食っていかせられるんだ」
最後のひとかけを口に入れて、ドラッヘは伸びをする。
「この家だって、俺が傭兵してなきゃ絶対に手に入らなかった」
小さな家。辺境にあるごくごく小さな家で、多分アメリアが大きくなったら三人で住むには少し小さすぎるくらいの家。
だがそれでも、あのアインラードの内戦の中でドラッヘが稼いで貯めていた金をすべてはたいて手に入れたものだ。
周囲には何もないから日当たりはいいし、少しだけ歩けばいい程度に最寄の町まではそこまで離れていない。王城からも離れていないから、周辺の治安は極めていい。少なくとも、日の出ている間に犯罪に巻き込まれることはないだろう。
この小さな家での、家族三人の穏やかな生活。内戦の頃から比べると、夢のようだが、夢とは違って金がなければ生活は続けられない。
「あんな酷い戦争は、もうない。お前がそう言うから、最近は後方支援だとか、戦時下の町の治安維持だとかって仕事を回してもらうようにしてるんだ。心配しすぎだ」
話は終わり、とばかりに立ち上がる。
今日も、これからすぐに仕事だ。とは言っても、同じ傭兵団の新人相手の教官役で、別に戦場に出るわけではない。
「ちょっと、本当に真面目に考えてよ。あなたが戦場から帰って来るのを待っているあたしやアメリアの気持ち分からないの?」
「大丈夫だ。俺は死なない。あの内戦を生き延びたんだからな」
「そういうこと言ってるんじゃ」
いきり立ったテイラーがなおも言葉を続けようとして、ふっと目を丸くし、
「あらあら、どうしたの?」
視線もドラッヘではなく居間の入り口に向ける。
つられてドラッヘもそちらへ視線を向けると、アメリアが眠そうに目をこすりながら、ぼんやりとそこに立っている。
「ああ、もう起きたのか、ほら、ここ座れ。パン食べるか?」
慌ててドラッヘは声と表情を和らげるが、
「けんか、してた?」
今更それは通じないらしく、半分寝ぼけながらも、アメリアはそんなことを言う。
「してない。してないよな、テイラー」
「ええ、もちろん」
二人でアメリアを椅子に座らせて、すぐに食事の準備をしてやる。テイラーはアメリアの綺麗な母親譲りの金色の髪をとかしてやる。
「じゃあ、行ってくる」
「ええ、行ってらっしゃい」
まだ何か言いたそうだが、アメリアの手前、テイラーはそれだけ言う。
パンを頬張ったアメリアは手をぶんぶんと振る。
ドラッヘもにっこりと笑って、手を振り返す。
仕事の後、家に帰って家で妻と娘の寝顔を見れる日はそこまで多くない。二人が寝る前に帰って一緒に食事できる日となるとなおさらだ。
今日は、家族揃って食事をすることができる。
食事の後、アメリアがどうしてもと手を引っ張るので、ドラッヘは仕方なくアメリアにつれられて外に出る。
まだ日は沈みきってはおらず、あたりは夕日で真っ赤に染まっている。
「これこれ」
「へえ、結構立派じゃあないか」
アメリアが指差すのは、家の近くにある畑、その畑の片隅のエリアだ。
テイラーは少しでも家計の足しにしようと、家の近くを畑にして野菜をつくっている。最近、アメリアも自分の野菜を育て始めたとは聞いていたが、どれがアメリアのものなのかは分かっていなかった。
見れば野菜はよくできている。周囲のテイラーのものと比べても遜色ない。
「大したもんだ」
がしがしと頭をなでてやると、アメリアは猫のように目を細める。
「さあて、じゃあ、そろそろテイラーが食事の準備をしているはずだ。手伝ってくれるか?」
「うん、父さんは?」
「仕事の後だからな。湯を浴びてくる」
「はーい」
素直に駆けて家に戻るアメリアの背中を追うようにして、ドラッヘも家に戻る。
いそいそと台所でテイラーと喋りながら手を洗うアメリアを横目に、二階の自分の部屋に上がると、ため息と共に腰にずっと差していた剣を外し、壁に立てかける。
自分の商売道具でもある剣。
特に高いものでもなければ安いものでもない、使い込まれているその剣を眺めていると、ふと不思議な気分になってくる。
壁に剣をたてかけている。奇妙な話だ。
あの内戦の中では、どんな時でも剣を手放さなかった。剣を抱いて寝ていたくらいだ。
誰も信じられなかった。戦友も、守ってやった民も、買った女も、いつ裏切るか分からないし、現に裏切られた。
命を救い救われた戦友に背後から斬りつけられた。寝床で女に喉笛を切り裂かれそうになった。助けた老人に毒を盛られた。
どの時も、油断していなかったから助かった。信じていなかったから命を拾った。
生まれた頃から内戦で戦場しか見てこなかった。誰かに心を許した奴から死んでいった。
だから、誰も信じない。油断しない。甘い夢などみない。
成長していく中で、それを心に刻んでいった。
そんな自分が剣を壁に立てかけ、家族を持ち、小さな家に住む。
信じられない、話だ。
奇妙な気分になり、ぶるぶるとドラッヘは頭を振る。いけない、今日は、妙に頭がぼうっとする。
ぼうっとしてしまって、湯を浴びる前に大分時間を使ってしまった。湯を浴びるのは夕食の後にしよう。
ふらふらと階段を降りる。
軋む階段を踏みしめながら、またぼんやりと考える。
どうして自分が傭兵という仕事を始めたのか。戦場で一番見つけやすい仕事がそれだったというのが主な理由だが、それだけじゃあない。
おそらく、自分は何か信じられるものが欲しかった。何かを信じたら死ぬと思っていても、何も信じずに生きていけるものではない。
傭兵は契約によって動く。契約だけは信じることができる。
契約を依頼人側が破ったなら、依頼人を殺してやった。どこに逃げようと、何をしても。だから、ドラッヘの傭兵団を騙したり裏切る依頼人はいなくなり、ドラッヘはただ、契約だけは信じることができた。
そうして生きてきた。契約以外は何も信じなかった。
なるほど。内戦が終わろうがどうなろうが、そんな生き方をするならば傭兵以外に生きる道があるはずもない。
「あ、お父さんおりてきた」
「あら、結局、お湯、浴びてないの? ほら、もうできるわよ、座って」
「ああ」
まだ考えがまとまらないまま、促されるままにドラッヘは椅子に座る。
そうだ。
契約しか信じない。そうでなければあの内戦を生き延びることができなかった。グスタフが奪うことでしか生き延びられなかったように。
そうやって生きてきたから、他の生き方を知らない。アインラードの内戦はとっくの昔に終わったけれど、自分もグスタフも、未だにずっとあの内戦を生きているのかもしれない。
グスタフ?
誰だったか。聞き覚えがあるような、ないような。
「ほら、このポトフ、アメリアが手伝ってくれたのよ」
「このにんじん、あたしが作った」
テーブルに鍋を持ってくるテイラーに、その横をとたとたと小走りについてくるアメリア。
その二人が、ドラッヘを見て目を丸くする。
「あんた」
「お父さん、どうして?」
「え?」
視線は座ったドラッヘの前にある。
テーブルの上、ドラッヘの目の前には、二階で壁に立てかけていたはずの剣が置いてある。
「ああ」
ぼうっとしていたから、そのまま二階から剣を持ってきてしまったらしい。
「悪い悪い」
剣を掴みあげる。
その冷たい感触に、脳の一部が痺れるような感覚に襲われる。
いいのか。
囁いている。
剣を手放していいのか。誰も信用しなかったんじゃあないのか。甘い夢など見なかったんじゃあないのか。
「どうしたの、あんた?」
「ああ、何だか」
剣を掴んだまま立ち上がって、よろめく。
「気分が悪い」
契約だけだ。傭兵が信じられるのは契約だけ。その自分が、契約を裏切ってどうするというのか。
契約しか信じないような、生きている価値のない人間が、その唯一の契約を破ってどうする。
今の契約はなんだ?
今の契約は、そう、指揮することだ。指揮して、無法者達を倒すこと。
奴を倒すんだ。グスタフを。
「ふん、俺としたことが」
頭の中の霧がはれていくにつれて、思わずドラッヘは笑う。
「あんた?」
怪訝な顔のテイラー。何かを感じ取って、母親の後ろにそっと隠れるアメリア。
「甘い夢を見た。老いたもんだな」
剣を抜き放ち、それを構える。鞘を投げ捨てる。
妻と娘の顔が恐怖と困惑で凍りつく。
その妻と娘に向けて、ドラッヘは全力で剣で斬りつける。
目を開く。剣。見つける。掴み取る。今度こそ、取り落とさないように、全力で。握りつぶすつもりで掴む。
地面に自分が横に倒れているのだとドラッヘが認識するのは剣を掴み取ったその後。
そして、揺れて溶ける視界の中、今まさに立ち上がろうとしているグスタフを見上げる。睨みつける。
「お前」
声。怯え。驚き。
どうやら、ドラッヘの視界では分からないが、今、グスタフとドラッヘの目は合っているらしい。
「どうし」
何かグスタフが言いかけるのを、
「仕事だからな」
全力で、全身の力を全て動員して、その体目掛けてドラッヘは剣を斬り上げる。
血しぶきを撒き散らして、グスタフの体は二つに分かれ、宙を舞う。
「勅命です。フリンジワーク様より、全てに優先して包囲を厳重にせよと」
「もうしてる」
馬を飛ばしてやってきた使者の方も見ず、メイカブは端的にそれだけ言う。
暴徒によって破壊し尽くされた後の、元々はそれなりに高級なレストランだったであろう場所をとりあえずの基地にしている。自分の好きに動く、と決めたメイカブがここに陣取ったのだ。
使者は必死の形相で周囲に散乱する瓶の破片を踏み割っても気にしないくらいの勢いでメイカブに詰め寄って勅命を知らせた。
それだけに、そのメイカブの返しに気の抜けたような顔になる。おそらく、勝手に指令所を移したメイカブを、この混乱の極致のトリョラをかなり焦って探し回っていたのだろう。
「けど、多分間に合わないな」
舌打ちするメイカブの元に、調査に走らせていた部下が戻ってくる。
「どうだった?」
「はっ」
ちらりと、部下はメイカブの横にいる使者を気にしてから、
「仰るとおり、これまでにトリョラから脱出しようとして捕まっているうちの数人は、傭兵のようです。物資や手紙の類を運ぶ仕事を請け負っていました。また、乱戦で包囲網が緩んでいる隙に、更に大勢が通り抜けようとしていたようです」
「その、運んでいたものの内容は?」
「いえ、それが」
一瞬言いよどんでから、
「どうということのないものです。運んでいる物資は武器の類ではありませんし、手紙の内容も、普通の商取引のためのものです」
「商取引っていうのは、ミサリナ商会のだな」
「え、ええ」
言う前から見抜かれ動揺する部下には目もくれず、メイカブはこめかみをとんとんと叩き、天井を見上げる。
元々はレストランの客用の華奢な椅子がぎしりと軋む。
「そっちは囮だ。この乱戦に乗じて外に出ようとしているのもめくらまし。おそらく、当人は知る由もないだろうが。全力で運んでくれと依頼を受けただけだろう。本題は、あっちだ、レッドソフィー教会の人道支援だ。どうなっている?」
「ご命令どおり、検問でレッドソフィー教会による物資の流れもストップさせました。おそらく猛烈な抗議が来ると思いますが……」
「いい」
部下の気がかりを一蹴し、手をひらひらと振る。
「それより、内容は?」
「今のところ、何も。医薬品や必需品、食料が運び込まれています。何も問題はありません」
「ああ、入る側か。そっちは、まあ、そうかもしれない。出る側はどうだ?」
「出る側ですか? いえ、レッドソフィーによる運輸では、トリョラから外への流れは、遺体しか」
「それだ」
「は?」
「棺に入っているんだろう? 釘うちされた棺は開けたか? 死体が本当に死んでいるかどうか確かめたか? 死体の腹の中に何か入っていなかったか?」
唖然とする部下の方を最早見ることもせず、メイカブは視線を天井に彷徨わせたまま、
「とはいえ、もう今更調べてもおそらく無駄だ。いくらレッドソフィー教会によるものだからといって、俺の指示がある前にもそれなりには検問所で検査は行っていたはずだ。だが、乱戦による包囲網の乱れ。それから、目晦ましのための傭兵によるトリョラの脱出。そのタイミングなら、レッドソフィー教会による遺体の運搬はほとんどチェックすることなく通したはずだ。そんな余力はないだろうからな。そこで本丸は運ばれた。おそらく、棺に入って。あるいは、遺体に埋め込まれて」
「一体、何が?」
質問したのはそれまで黙って顔面蒼白にして話の流れを見守っていたフリンジワークの使者で、
「さあな。中身が何かは分からない。あるいは、誰なのかも。いや、事ここに至って姿を現さないことを考えれば、ミサリナと『ペテン師』の線が濃厚だな。しかし、どうやって追跡するか、は」
そこで、メイカブの目が細まる。
「いや、待て。まだ間に合うか。出口を」
そのメイカブの呟きは、低い地響きで中断される。
数十頭の馬の蹄による地響き。
何事かと外を見るメイカブとその部下、そして使者の目に、大挙して押し寄せてくる騎兵の群れが映る。騎兵の鎧から、それがロンボウのものだと分かる。だが掲げている旗はロンボウの国旗ではない。そこに描かれている紋を見て、メイカブの顔が渋くなる。
群れは基地の前でぴたりと止まる。そして、その群れからやがて一人の恰幅のいい老人がゆっくりと前に進み出て、そのまま床を軋ませながら基地に入り、座っているメイカブに近づいてくる。
「これはこれは」
椅子から立ち上がらず、姿勢も正さず、顔だけを老人に向けてメイカブは面倒臭さを隠さずに言う。
「こんな場所まで何の用だ? カーター・ゴールドムーン。私兵まで引き連れて」
「お前を諌めに来たのよ」
小国の有力貴族から、今や大陸の盟主たる大国の王の義理の父親になったその男は、尊大な口調で言い放つ。
「諌めに?」
「レッドソフィー教会と揉めるのをやめろ。ただそれだけのことだ。これから先、あそこと遺恨を残すことがどのくらいのデメリットとなるのか分からんのか?」
「カーター、俺は自分の仕事をしているだけだ。あんたも聞いているだろう。例の標的共、奴らを皆殺しにするために俺はいる。緊急事態ならある程度自分の裁量で動いていいとも言われている。だから、そうしているだけだ」
そう、実際、メイカブの中にあるのはそれだけだ。
これまで静観するだけで、あまりにも退屈だったその仕事がようやく面白くなってきたところなのだ。
「お前は、フリンジワークの命令ならば何でも従うつもりか?」
明らかに見下す目をするカーターに向かって、メイカブは肩をすくめる。
「元々、あいつの私兵だぞ、俺は。何を期待している?」
それから、メイカブはじっとカーターを見る。その欲に塗れた目を見る。
「そうか。ようやく分かった」
「何?」
「あんたは、どっちでもいいわけか。フリンジワークの計画通り戦争になり、アインラードに勝ってロンボウがエリピア最大最強の国になってもいいし、負けてフリンジワークが失墜してもいい。勝てば大陸一の国の権力の中枢にいれる。負ければ、王に代わってあんたが実権を握るわけだ。あんたみたいな、『俗物』がどうしてフリンジワークにそこまで肩入れするのか分からなかったが、あんたなりに先を見通していたわけだ」
黙って、カーターはメイカブを見下している。
「レッドソフィー教会と軋轢が生じるのは、どっちにしてもよくない。なるほど、わざわざここまで止めに来るわけだ」
「妄言はそこまでにしろ」
カーターは薄ら笑いを浮かべて、
「私の言っているのは、国益の話だ。お前のような傭兵あがりの狭い視野と一緒にするな。いいか、ジャックだの、アルベルトだの、ミサリナだの、スカイだの、そして『ペテン師』だの。全ては、瑣末なことだ。冷静に考えろ。奴らが生きていたからといって、何が変わる? 奴らに大勢を変える力があるか? そのために、レッドソフィー教会を敵に回すなんぞ全くの不合理だ」
「知るかよ。元々、俺達の王は狂人だろう」
ゆっくりとメイカブは立ち上がる。
大柄なメイカブは、立ち上がると今度は逆にカーターを見下ろす形になる。
「俺もあんたも、その不合理な命令に従わなきゃいけない。違うか? それとも、王に反逆するってのか? あんたの息子にさ」
「柔軟にやれ。お前の裁量で、現場ではやるだけやったと誤魔化して報告することなど造作もないだろうが」
「そりゃあ、不正だろ。仕事は誠実にやるのが信条でね」
「それはいい心がけだ。だが時と場合によるのお。目先の命令よりも、何が正しいのかを見極めて動け」
一瞬即発なまでに膨れ上がった緊張感が、そこで一気に削がれる。
メイカブが顔を逸らし、吹き出したからだ。
何がメイカブをそうさせるのか分からないらしく、カーターは狂人を見るような目つきでなおも笑い体をひくひくと痙攣させるメイカブを見て、
「何がおかしい?」
「正しいこと、とはね。笑わせてくれるな、カーター」
「そうかね? 一体、何がそんなにおかしかった?」
「正しくない。何も正しくないだろう、カーター。ここに来るまでに町の様子は分かっているだろう。フリンジワークの起こしたこれで、一体何人が苦しんでいる? 何人が死んだ? それをよしとしているというのに、正しいも何もない」
くすくすと笑いながら言うメイカブを、部下が、使者が、そして外から様子を窺っているカーターの私兵達が薄気味悪そうに見ている。
「国を動かすということに、犠牲はつきものだからのお」
「何のための犠牲だ? フリンジワークが戦争したいだけの犠牲だろう。それも、全く本来は必要ないはずの戦争の」
「何を言っている。アインラードがロンボウを狙っているのだ。向こうが先にこちらをシュガーで汚染した。今、戦争に動いているのは自衛のためだ」
「下らんな、カーター。下らないよ。いい機会だ。この場にいる、深い事情を知らない俺の部下やあんたの私兵にも、ことの真相という奴を教えてみるか?」
「気でも違ったか、メイカブ」
焦燥を顔に浮かべて周囲を見回すカーターに、
「いいか、俺が言いたいのはただ一つだ。俺の、仕事の、邪魔を、するな」
一言一言区切るように、ゆっくりとメイカブは言い渡すと、どっかと再び椅子に腰を下ろす。
「それだけだ。帰れ。これ以上邪魔をするなら殺すぞ」
あまりの物言いに呆然としたのは一瞬で、何を言われたのか理解したカーターの顔が憤怒で真っ赤に染まる。
「貴様、誰に向か」
「警告したぞ」
次の瞬間、その言葉と共にカーターの首は胴と別れて床にぼとりと落ちる。
首の切断面から血を噴出しながら、一拍子遅れて胴が床に倒れる。自分が死んだことに気付いていないのか、カーターの首は怒りの表情のまま虚しく天井を睨んでいる。
「あ、こっ」
あまりのことに、使者が何か言おうとして固まる。
外で警戒していたカーターの私兵も、一瞬の間に起きた常識外れの出来事にただただ硬直している。
「王への反逆行為を防いだだけだ。問題はない。外の私兵共にもそう言っておけ」
一瞬のうちに引き抜いていた剣を鞘に仕舞いながら、メイカブが部下に言う。
しかし、言われた部下は震えてその場から動かない。
「それにしても、俺はそれなりに普通の人間だったと思っていたんだがなあ。それなりに好き嫌いがあって、それなりの倫理観ってやつもあって」
動かない部下を気にすることもなく、メイカブは呟く。
「気付けば、仕事以外なくなっちまった。道を間違えたかな」
ため息をついて座り込むメイカブは、酷く弱々しい。