利用する者、される者
誰もが拝んでいる。
赤いローブを見た途端に、誰もが手を合わせて拝みだしている。
元々はいくつかの民家が連なっていただけの場所を、雑多な材料で周囲を囲ってできた避難所。木片や金属片、看板や鎖などを不規則に繋ぎ合わせ、重ねた壁の内側、その狭いスペースには何人もの避難民が力なく座り込み、身を寄せ合っている。
それでも、スカイを観る度に拝む。
レッドソフィーの聖女に祈っているのだ。
外からはひっきりなしに怒声や悲鳴、破壊音が聞こえる、この地獄のような場所で。
「急激に治安が悪化している。元々悪かったものが、更にな」
避難所を案内しながら、この避難所のリーダー格の男が憔悴しきった顔で説明する。
「ええ、どうも、正規軍と犯罪組織との抗争が本格化したらしく、それが悪い影響を与えているようです」
拝む避難民達を無視して歩き続けながらスカイは話す。
「それで、支援物資は?」
「教会と話を通してきました。満足できる量ではないけれども、各地の避難所に医薬品、食料を一刻も早く届けることになっています。包囲しているロンボウ側とも話がつくそうです」
「そうか、よかった」
おそらくは元々はトリョラで少し大きな店の主人でもしていたのであろうその男は、無精髭の生えた顔を安堵で緩める。
「それで、ご遺体は?」
「こっちに安置してある。数は、正直、数え切れない」
避難所の端に位置する、避難民が入っている元民家の家屋からは少し離れた場所にある小さめの家屋を男は手で示す。暗い目をして。
「そのままにはしておけません。尊厳からしても、衛生的にも」
「分かっているが、な」
「トリョラの教会、そこも避難所になっていますが、そこから簡素なものではありますが、棺が届くよう手配しています」
「ありがたい。ただ、それだけじゃあなくて」
「分かっています。時間が許す限り、弔いはさせていただきます。私では力不足かもしれませんが」
「いや、レッドソフィーの聖女様に弔われるなら、死んでいった奴らも、残された人間も皆、納得するさ」
そう言う男の顔を見ることができず、スカイは思わず目を逸らす。
すると、すぐ傍でスカイを見上げている少女と目が合う。
少女は傍らの壁にもたれるようにして座り込んでいる。その横でスカイを拝んでいるやつれた女性は、おそらく母親だろう。
「あの、聖女さま」
とたとたとその少女が近づいてくるのを、スカイは恐れる。無邪気な目。聖女である自分を尊敬している目。
凶器を向けられるよりも恐ろしく、背筋に冷たい汗をかき、無意識のうちに一歩、後ろに下がっている。
「これを」
にこりと汚れた頬に笑みを浮かべて少女が差し出したのは、汚れ、錆びた小さなナイフ。
林檎の皮を剥くのにすら苦労しそうなそれが差し出され、スカイは一瞬、少女が自分を刺そうとしているのではないかと思う。
そうだ、それは正しい。自分は刺されるべきだ。レッドソフィーに、慈愛の女神に仕えるはずの聖女が、シュガーが世界を汚染するのをよしとし、憎むべき『ペテン師』に庇われ、そして今はその『ペテン師』と手を組み聖女という立場と悼むべき民の死を利用して己の目的を果たそうとしてる。
それは、許されるべきではない。許されるべきでは。
殺せ。殺してしまえ。汚らわしいクズは、全員殺されるべきだ。
「もう、次の避難所に行かなきゃ、いけないんですよね?」
少女の声がスカイの思考を打ち切る。
咄嗟に答えられなかったスカイの代わりに、
「そうだ。聖女様は今、トリョラ中の避難所を回っておられるからな」
代わりに、案内役の男が身を屈めて少女に語る。
「あの、外は危ないから、これ」
これで身を守ってくれ、ということか。
ようやくスカイはその錆びたナイフの意図に思い至る。
「ああ、お前の気持ちは分かるが」
困ったように笑いながら間に入ってそれを断ろうとする男の肩に、スカイは手を置いて、
「いえ。ありがとう。大切にします」
スカイがそのナイフを受け取り、懐に仕舞うと、嬉しそうに少女は微笑む。
スカイも微笑み返すが、うまく笑えている自信はまったく持てない。
少女はぺこりと頭を下げた後、小走りに母親らしき女性の元まで戻ると、嬉しそうに話しかけている。おそらく自分が聖女の役に立てたことを誇らしく報告しているのだろう。
重く気分が沈んだまま、またスカイは男の先導で移動を再開する。
「少々、臭いがきついが、大丈夫か?」
「慣れていますから」
喋りながら例の遺体が安置されている家屋に近づくにつれて、なるほど確かに死臭とも言うべきものが漂ってくるのが分かる。
囲いの外から聞こえてくる怒声や悲鳴、破壊音。こびり付くような死臭。啜り泣きの声。呻き声。
フラッシュバックするのは、幼い日の光景だ。
戦場。木に無数に吊るされた民の死体。そこに蝿がたかっている。腐った血。悲鳴。逃げ惑う女子ども。一緒に逃げる自分。目の前で兵士達が笑いながら母を嬲り殺しにしていく。吐き気。怒声。自分に圧し掛かる兵士達。血走った目。口臭。全身を這いずる手の、指の感触。苛立った声。刃物。激痛。悲鳴。自分のものだ。血の臭い。自分のものだ。破壊音。
破壊音?
我に返ったスカイは男と顔を見合わせる。
明らかな破壊音。これは現実だ。
「まずい」
呻く男は焦燥にかられ頭をかきむしりながら、
「クソ共が壁を壊して中に入ろうとしてきてやがる。あんたは、逆側から逃げてくれ。俺達は」
言い終わる前に、既にスカイは走り出している。もちろん、逃げるべき方向ではない。破壊音、悲鳴、そして男達の怒声と下卑た笑い声のする方向へ、だ。
背中に案内役の制止する声を聞きながら、スカイは獣のように両足だけでなく両手すらも使い、一刻も早く現場へと駆けつけようと疾走する。
結局のところ、クズを殺せればいい。ただそのためだけに自分はレッドソフィーの聖女になったのだ。
スカイは思う。
善を救うのではなく、悪を殺すのだ。それだけが存在意義。復讐のために聖女の皮を被っているクズ。それが自分だ。そして、最早聖女の皮を被り続けることすら難しいくらいに汚れてしまった。
なら、ここで、相手のクズを殺しながら、自分というクズが消えてなくなるなら、こんな幸せなことはない。
『ペテン師』と関わってから急速に自分の中で膨らみ、自覚しつつもそれを対処せずにいた破滅願望が、今やスカイの全身には満ち満ちている。
行こう。殺して、殺されよう。
スカイの顔には笑みすら浮かんでいる。
「文句を言いたいのは半分、もう一つは謝りたいというのもあるんだ。これは本当だよ」
「今更、嘘の神様に本当だって念を押されても何も思わないよ」
真っ白い空間で格好を崩してマサヨシは苦笑する。
「む、まあ、確かに。しかし、本当なんだ。その、本来、君はおまけだったわけだからね」
言いにくそうにイズルが言葉を紡ぐが、
「おまけというか、餌でしょ」
そのものずばり、をマサヨシが言うと、イズルは唸ってしばらく黙る。
「身も蓋もない言い方をすれば、そうだ。だから、この世界に来て君が苦しんでいるのに、責任を少しは感じないこともないんだ」
やがて沈黙を破ってイズルが話す事柄は、マサヨシにとっては心底意外なものだ。
「責任? そんなもの、感じる必要ないでしょ。そりゃ、父さんのことを黙っていたのはそうだけどさ、それ以外、この世界に来るのを選択したのも俺だし、これでイズルに責任があるってことにはならないよ」
「それでも、だ」
妙にしおらしくイズルは細い腕を組み、視線を落として、
「神の端くれなんだ。君を助けたい気持ちは本当にある。特に、無駄に苦しもうとするのを止めたいのだよ」
「ん、戦争を止めようと足掻いてること?」
「そうとも。戦争は、はっきり言ってしまうが、止まらないよ。今更、『ペテン師』が何かしようが、止まらない。止まらないものを止めようとして君は苦しんで、そして苦しんでいるのは君だけじゃあない。君の足掻きが、より状況を悪くしている」
イズルは白い空間を見回し、両手を広げて空間を抱くようにする。
「この世界。この世界から出れば、それは混乱の極みだ。君達が無駄に足掻くから、フリンジワークは君達を止めるためにトリョラの人々を多く犠牲にして君達を狩り出そうとして、そしてそれに抵抗するから更に巻き込まれる人々の被害は甚大になっている。気付いているんだろう?」
答えず、マサヨシは椅子に座りなおすと頬杖をついてじっとイズルを見る。
「そしてそれが更に君を苦しめる。君だけではなく、ジャックを、スカイを、ミサリナを、アルベルトを、ドラッヘを、ヒーチを。よく分からないんだ。誰が喜ぶわけでも救われるわけでもなく、自分も他人も苦しめるだけのことに君は心血を注いでいる。そして、その君に仲間達は協力している。もう、止めたらどうだい?」
イズルの声は優しい。
「私は嘘や隠し事の神だ。とはいえ、神の端くれではあるから、君の心を安らかにしてあげることはできる。例えば、今の足掻きを全部中止にして、その後で君が望むのなら、この世界でずっと君を匿ってやることもできる。安らかな眠りも、全てを忘れて自由に生きる道も、私は与えてやれる。これは、嘘じゃあない」
そこまでイズルが話したところで、もう我慢できずにとうとうマサヨシは噴き出す。
「ふふっ、はっはっはっ」
「何が、おかしいのかね?」
「こんな嘘くさい話は聞いたことがなくてね。大体、話の順番が逆だよ。先にヒーチに関する文句を聞いているからさ、あんたの目的も透けちゃうよ。さっさと無謀な足掻きを中止させて、手駒のヒーチに自由に動いてもらってまた天下取って欲しいだけでしょ」
「ばれたか」
あっさりとイズルは肩をすくめて認める。
「何がばれたか、だよ。嘘の神様がこんなバレバレな嘘をつくかっての。もう、冗談もじゃれ合うのもそろそろ止めようよ。ひょっとして、暇なの?」
「暇なのはそっちじゃあないかね。狭い箱の中でじっとして、しばらくは待っているばかりなのだろう?」
「まあね。ああ、じゃあ暇つぶしの相手をしてくれてたんだ。ありがと」
「それもある、が。さっきの疑問も、ある程度は本気さ」
「疑問って、何だっけ?」
本気で分からず、マサヨシは首を捻る。
「君がどういうつもりなのか、さ。今、外の世界では限界を超え、トリョラは混乱の極地にある。大勢の罪のない民が死んでいく。そして君の仲間も、例えばスカイも死へと突き進んでいる。彼女の場合、君との協力が苦痛すぎて、自ら死を選んでいる気もするがね。全ては、君の意味のない足掻きのためだ。君はそれについてどう思っているんだい?」
「どう思っているか、か」
遠い目をして、マサヨシは傷をなぞる。
正直、自分がそれについてどう考えているのか、マサヨシははっきりと自覚していない。
だから、自分の口から零れた本心に、自分自身少し驚く。
「それでいいと思っているよ」
「何?」
「罪のない巻き込まれただけの人々も、俺の仲間も、善人も悪人も強者も弱者も、どいつもこいつも苦しんで死んで、それでいいと、そう思っているんだ」
そんなふうに、マサヨシは気付けば言っている。
そして、口に出してからマサヨシは自分の言葉に納得する。
そうだ。それでいい。
それで、いいんだ。
だらしなくベッドに腰掛けるフリンジワーク。この腑抜けた怠惰な姿は、彼が私室でしか、そして限られた人間の前でしか見せないものだ。普段の英雄然とした姿からは想像もできない、彼の本質。へばりつくように座り、だらだらと途切れることなく酒を飲み、淀んだ目が彷徨う。
今、フリンジワークの豪奢な私室に、客は一人。
白いドレスに包まれた華奢な体。細い痩せ細った手首には枷が、首にも鎖付きの鉄製の首輪がつけられている。
やつれた顔の右頬は腫れ、口の端には血が滲んでいる。栄養不足か精神的な問題か、金色の髪からは潤いは消え、細く乾いたものになっている。
そんな状況でも、彼女は美しく、エメラルドのような目は爛々と輝き、フリンジワークを睨み付けている。
「感じるか、ハイジ」
フリンジワークはどろりとした目を天井の辺りを彷徨わせる。
「悲鳴だ。トリョラが苦しんでいる。町自体が。死ぬしかないのに、死を拒否して生き延びようと足掻く愚か者の、断末魔だ。やっているのはジャック、ミサリナ、スカイ、アルベルト、そして『ペテン師』だ。罪なことをする」
ハイジは答えない。ただ、睨み上げている。
「一応は、王として戦争の後のことも考えていた。国益という奴だ。トリョラを始めとして、旧ノライの全てを戦争で無茶苦茶にした後、どうするのか。ロンボウの被害を最小限にするためにはどうすればいいのか。だから、穏便に済ませようとしていた。計画に支障の出る邪魔者だけをなるべく目立たないように殺そうと」
ため息。本心から、フリンジワークは落胆しているようだ。
「だが、もう駄目だ。奴らは抗いすぎた。強引な手段に出させてもらう。特にスカイだな。ここまでレッドソフィー教会という後ろ盾がある。さっさと始末するしかない。直接的にな。ひょっとしたら、この戦争が原因でロンボウ自体が終わるかもしれない。だが、それでももう仕方ない」
「自らの国を潰して、他国を潰して、民を潰して、敵味方の兵士を潰す」
かすれた、弱弱しい、だが毅然とした声でハイジは言う。
「そこまでして、あなたはどうして、それをするのですか? 私には、分からない」
「分からないだろうな」
フリンジワークは酒を一口呷り、
「世の中にはな、二種類の人間しかいない。利用される奴と利用する奴がいる。俺はガキの頃に周囲の無能さに気づいて、自分が利用する側なんだと知った。その俺が、利用されていたんだ。その時の絶望と憎しみは誰にも分からない。『料理人』に、奴の国の為に利用されていた。逆にハメてやろうとしたのは一度や二度じゃあない。だがどれも失敗した。俺は奴の掌の上だった」
酒瓶を思いきり壁に投げつける。
砕けた破片がハイジの頬をかすり、一筋の切り傷を作りそこから血が流れ出す。
だがハイジは微動だにせず、じっとフリンジワークを睨み続ける。
「だが、だがな、奴が俺を利用したせいで、俺が奴の死後に奴の国を滅ぼしてやったとしたら、どうなる? 奴は失敗したことになる。俺がそうなってしまうということを予想できず利用しようとした奴の失策だ。分かるか? そうなった時初めて、遡って奴が俺を利用しようとしたことは失敗になり、奴は俺を利用できなかったことになる。そうだ、俺は利用される側じゃあない。利用する側なんだ」
喋っている最中に、フリンジワークの声にはだんだんと熱情がこもり、目には病的な力が宿り出す。
「私にとっては、世の中にいるのは二種類の人間です。義務を果たすものと、果たさないもの」
静かに、きっぱりとハイジは返す。
「私は義務を果たせませんでした。正義を行い民を守り続けるという騎士としての義務も、民に豊かで平和な暮らしをさせるという長としての義務も。そして、あなたも果たせていない。王としての義務を」
「俺は義務を果たす側じゃあない」
酒で赤く充血した眼を三日月のようにして、フリンジワークは笑ってみせる。
「有象無象に義務を与える側だよ」
「あなたとは、話が合いません」
「そうとも。くくく、夫婦で意見が一致したな。いいことだ」
愉快そうなフリンジワークから目を逸らし、ハイジは彼の私室、その窓から見える空を見る。
灰色の平坦な空。
「どうした、窓から逃げたいか?」
視線に気づいたフリンジワークが問うと、
「あの空の下に、彼もいます」
「彼?」
「マサヨシです。フリンジワーク、あなたは利用されるのが嫌なようですが」
この日初めて、ハイジは血の付いた口を吊り上げて笑う。
「『ペテン師』にきっと利用されますよ」
「分かっていないな、奴はただの小悪党だ。本質は、どうしようもないくだらない存在だ」
「ええ、そうです。彼は、小さい存在です。だからこそ」
ふっと笑みを消し、ハイジは泣き出しそうに顔を歪める。
「私にもあなたにも、彼を理解できない。だから、利用されてしまう」