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乱戦の始まり

 ぐったりと動かなくなったヒーチ。

 反応がなくなったのを確認してから、ゆっくりとオオガミは一歩踏み出す。


 その途端。


 貫かれたわき腹を押さえたまま、死んだように静かだったヒーチが、突然に跳ね起きて脱兎の如く逃げ出す。わき目も振らず、ただひたすらに。


「む」


 予想していなかったその動きに、意表を突かれてオオガミは一瞬戸惑う。その隙に、路地から路地へと転がり込み、ヒーチは姿を消す。

 大通りとは逆方向、細い裏路地の奥深くへと。


 素早く周囲の地理を把握するのは殺し屋としては必須だ。ゆえに、そちらへ逃げられるのはまずいとすぐにオオガミは気付く。

 路地の奥まった、路地と路地、そしてもはや路地とすら呼べないような細い隙間が有機的に絡まった魔境。まずい。


「ちっ」


 思わず舌打ちして、すぐにオオガミも駆け出す。

 だが、ヒーチの消えた路地に飛び込んでも、既にそこにヒーチの姿はない。

 それはそうだろう。このあたりの路地は蜘蛛の巣のように入り組んでいる。一度姿を消し、路地から路地へと曲がり続け、ジグザグに進めば、それでもう見つからない。ここまで雑然とした細い路地が無数に絡み合っていては、血の痕を辿るというのも難しい。


 あの負けず嫌いが、なりふり構わず逃げ出すとは、予想していなかった。失敗したな。

 そう後悔しながらも、オオガミに焦りはない。

 百戦錬磨の殺し屋にとっては、いくらでも挽回できる状況だ。

 第一に、逃がしたところでそこまでオオガミに不利益はない。奴は標的ではないのだから。ボーナスの可能性が消滅するだけだ。

 第二に、逃がしたヒーチがまたオオガミの仕事の邪魔をすることもない。あのダメージで全力で走って逃げれば、医療処置を受けなければ息絶える。


「さて、と」


 あの男のことはよく知っている。

 オオガミが育て、鍛えたのだから。暇つぶしの一環としてではあるが、それでもそれなりに付き合いは深い。

 自ら死を選ぶ男ではない。ならば、どうするのか。


 簡単だ。

 全速力で走って逃げ出した後、蜘蛛の巣のような路地の奥深くに身を隠すのではない。奴は、大通りに逃げ出す。傷だらけで人目につけば、助かるだろう。もう夜は明けている。迅速な手当ても期待できる。


 だとすれば、先回りすればいい。ここから路地の奥深くへと逃げ出すと見せかけて、こちらから姿を消してみせてから最短で人のいる大通りへと向かうルート。そちらへ、一直線にオオガミは向かう。路地の両方の壁を蹴りながら跳び、まるで鳥が空を行くようなスピードで。


 しかし、少し引っかかる。

 狭い路地を壁を蹴り跳ねるように進みながら、オオガミは首を捻る。

 かつて、物流と人と情報を支配してあの内戦を少年ながら終わらせたほどの男。その男が、こんな簡単に読まれるような動きをするか? ダメージと疲労のために正常な判断ができなくなっていた、と言えばそれまでだが。

 こちらにそう思わせておいて、最短ではないルートを、遠回りするルートを選んだ?

 まさか、あのダメージでそんなルートを選ぶ余裕はないはずだ。全力で一度路地の奥へと進んだために、下手をすればそこから最短ルートで大通りに出ようとしてもその前で力尽きかねない状態のはず。


 だとすると?


 目的地に着く。ここを曲がって一本路地を行くだけで、大通りに到達する。まだ朝早いが、既に人気がある。市場へと続くアインラード王城に近い大通りだ。おそらく商人だろう。

 ここで待っていれば、あと数分、うまく行けばあと数秒で出てくるはずだ。待ち伏せしている自分の姿を見たとしても踵を返して逃げ出すことはしない。何故なら、ここで逃げ出しても時間切れで死ぬことになるからだ。それならば、可能性にかけて無理矢理にオオガミを突破しようと試みる方がマシ。どれほど追い詰められていても、それくらいの合理的思考はできるはず。


 だというのに、オオガミの頭には何か引っかかっている。

 ずっと修羅場に身を置いてきたために研ぎ澄まされている勘が、警鐘を鳴らしている。


「そう、か」


 ようやく気付く。

 そう、確かにヒーチは自分がここで待ち伏せするであろうことを予想していた。その上で、逃げ出した。それは。


 ゆらりと、ヒーチが路地の奥から姿を現す。相変わらず右手でわき腹のあたりを押さえているが、そして顔はやつれ死相すら浮かんでいるが、目には狼狽はない。真っ直ぐにオオガミを睨んでいる。睨みながら、一歩一歩、近づいてきている。


「くく」


 オオガミは笑い、


「見切った、ぞ。ヒーチ」


「何がだ」


 止まることなく歩を進めるヒーチは、あと数歩でオオガミとの素手での死闘の間合いに入る。


「お前は、逃げるためではなく、俺を殺す、ために、一度、身を隠した」


「ふん」


 ついに間合い。だが、互いに攻撃をしかけない。なおもヒーチは止まらず、オオガミと更に接近する。


「逃げ出して、稼いだ、僅かな、時間で、一体、何が、できた? 俺を、殺せる、方法は、見つかった、か?」


 見つけたのだろう。

 この男は、それくらいはやる。だが。


「残念だった、な。それは、無意味、だ」


「そうか?」


 次の瞬間、空いているヒーチの左手が掌底となってオオガミの顎を襲う。虎噛。


 今度は、受けない。

 毒、もしくは何らかの刃物。それを仕込んでいるのかもしれない。それが、さっきまでの僅かな時間にヒーチが仕込んだ勝つための方法かもしれない。

 だから、前回とは逆に、敢えて大きく、その掌底をかわす。何が仕込まれていても関係のないように。


 刹那、目が合う。

 かかったな。

 ヒーチの目は、そう言っている。


 そして、わき腹を押さえていたヒーチの右手が、そうやって大きくかわしたオオガミに向かって、振り上げられる。


 こちらが本命か。

 確かに、ここまで大きくかわした直後では、こちらの攻撃はかわせない。既に体勢は崩れている。

 だがオオガミに焦りはない。防ぐ、あるいは捌く。どうとでもできる。


 襲いくるのは右拳。

 防ごうとオオガミは右腕を曲げて、


「う」


 呻く。

 右拳に、何かが握られている。布。布袋の端を握った拳を、振り下ろしてきている。大きく膨らんだ布袋。

 ブラックジャック。

 そうか、布と砂、もしくは何か重量のあるものさえあればすぐに作成できる武器。これを準備していたのか。

 納得した時にはもう遅く、その布袋はオオガミの頭へと迫っている。

 腕でガードしたとしても衝撃で脳が揺れる。その隙をヒーチは見逃さないだろう。

 なるほど、これが起死回生の一手か。


「言った、だろ」


 呟くオオガミの平然した表情に、一瞬のうちにヒーチの表情が曇る。あるいは、それは半ば予想していたからこそのやっぱりかという諦めの表情なのかもしれない。


「無駄だ、と」


 オオガミの左拳。

 真っ直ぐに放たれたそれは、最短距離でヒーチの胸の中心、心臓に向かい、そして命中する。

 今にも頭に当たる寸前だった、全速力で振り下ろされたブラックジャックが頭に到達するよりも先に、一瞬前には握られもされていなかった拳がヒーチを打ち抜いている。


「ぐっ」


 がくん、と体を揺らして、それきり物も言わずにヒーチは崩れ落ちる。力を失ったヒーチの右手から離れたブラックジャックはオオガミのこめかみをかすって、あらぬ方向へと飛んでいく。


「ふう、む」


 かすった衝撃で、ふらついたオオガミは片手を路地の壁に当てて体を支え、


「俺くらいに、なると、大体、手を合わせれば、相手のことが、分かる」


 倒れた息子を見下ろす。


「最初に、お前が、俺を攻撃してきた、時から、分かっていた」


 笑う。


「お前に、俺は、殺せない」


 しばらくの間ずっと倒れたまま、ヒーチは震える瞳で、オオガミを見上げていたが、やがてゆっくりとその瞳が閉じられる。





 ただただ仕事をこなすだけ。上からの命令に従うだけ。

 中流の貴族の家に生まれた彼はそうやって仕事をこなしながら、有力者との間につながりを持つことだけを夢見てきた。

 ところが、自分の国自体が消滅するという事態を経て、呆然としながらも生き延びるために仕事を求めて、どうでもいい仕事からどうでもいい仕事へと飛び回り、そうして辿り着いたのがトリョラ城の守備隊長という職だ。


 どうしてこんな仕事をしなければならない、と安酒を飲む度に愚痴は出るし、部下達から内心馬鹿にされているのも分かっている。だからといって他に食い扶持が見つかるわけでもなく、仕方なく日々、慣れない鎧を着込んで城主からの命令に従っている。


 そんな彼にとって、今回の話は千載一遇のチャンスだった。

 それなりに繁栄するトリョラ。その内部には無数の犯罪組織が巣食っている。その犯罪組織が全て、同時に抗争を起こし混乱のるつぼとなる。

 多くの兵士は、寝耳に水だっただろう。しかし、城主、そして彼のような隊長レベルには、事前に話がきていた。


 そして、特別に極秘の任務を与えられた。

 部下を動員して、トリョラの混乱が外に伝わらないように包囲すること。決して、自発的には抗争の鎮圧に乗り出さないこと。スカイを保護という名目で拘束し、ロンボウ正規軍に引き渡すこと。ジャック、ミサリナについては、隙あらば抗争に巻き込まれたように見せかけて始末すること。そして、アルベルトは犯罪組織の長として、大義名分を持って真正面から始末すること。

 これらは全て、ロンボウの王室の筋からの依頼だと聞いている。

 ここでしっかりと仕事をこなせば、返り咲くことが出来る。

 そう思って意気揚々と仕事に取り掛かったのはいいもの、結局何もできず、ただ無為にトリョラを包囲するだけで時間が経っていった。

 焦って部下に当たっている間に、ようやくアルベルト発見の報が届いた。

 絶対に逃がすな。

 そう言って部下達に発破をかけ、似合わないことだが自分も前線に出た。絶対に、アルベルトの始末はしたい。これにはなるべく見つからないように、とか、抗争に巻き込まれたと見せかけて、とか余計な条件がない以上、非常に楽だからだ。

 アルベルトは犯罪組織の長だ。真正面から、兵力で押し潰してしまえばいい。

 だが、そのアルベルトを見失い、夜からの捜索のはずが夜が明け、守備隊長の焦りは強くなる一方だ。


「まだ見つからないのか、徹底的に、徹底的に探し出すんだ。いいか、一人だ、男を一人見つけるだけなんだ」


 部下に怒鳴り散らして、彼は大きく深呼吸する。

 こんなところで躓いていられない。自分は役に立つのだと見せ付けなければ。こんな、腐敗と悪徳のこびり付いた町にずっといるのは嫌だ。ロンボウの王城に勤めてやるんだ。


「隊長」


 走り寄ってくる部下、副隊長を務めている男の姿にようやく見つかったかと頬を緩めるが、


「この近くで、警備会社と犯罪組織の間で激しい戦闘が起こっています。どうされますか?」


 どうされますか、だと?

 隊長の頭には血が昇る。

 犯罪組織を潰すことはするな。それはロンボウからの命令でもある。だというのに、何を言っているのか。もっとも、それを部下達は知らないわけだが。


「下らん報告はするな。アルベルトを探し出すことだけを考えろ。いいか、ともかく、今は奴らの小競り合いに介入する時じゃあないんだ。何度も言わせるな。俺達の仕事は、これがトリョラの外に広がらないようにすることだ。そして今は、アルベルトを捕らえるか殺すことがお前らの仕事だ」


「しかし、本来はトリョラの治安維持は我々の仕事です。それを民間の警備会社が今、代わりにやってくれているようなものなのですよ。しかも、代表から正式にこちらに協力要請が届けられました」


 必死の顔で嘆願する部下。

 おそらく、目の前で民が暴虐の嵐の中で死んでいくのを、ただ黙ってみていくことが我慢ならないのだろうと彼は考える。

 真面目なことだ。


「可能な限り協力すると伝えろ。可能な限り、な。今は全ての力を別の仕事に集中しているから割くのが可能な兵力はゼロだ」


 吐き捨ててから、


「待て。代表からの正式な要請だと? ジャックか? しばらく姿をくらましていたとか聞いたが」


「それが戻ってきたようです。今も、その激しい戦闘の起こっている地域で指揮を取っているらしいと」


 あるいは、激しい戦闘が起こっているのはそれが原因か?

 ジャックを殺そうという力が働いているのか。

 そう考え、一瞬獲物をジャックに変えようかとも思ったが、冷静になれば部下達を使って抗争に巻き込まれたようにしてジャックを殺すことは不可能であるし、そもそも戦闘が起こっている中にわざわざ突っ込んで殺しにくいジャックを殺すよりも、今既に追い詰めているアルベルトを殺した方がいいに決まっている。


「分かった。とにかく、その戦闘には巻き込まれないように部下共に伝えろ。いいか、絶対にだ。戦闘が拡大するようなら、そこから兵を退かせろ。そして、アルベルトを絶対に逃がすな。この二点だけお前達は守っていればいい。それだけを考えておけ」


 ある意味で、犯罪組織は自分の陣営、目的を同じくする仲間なのだ。そこと争ったという話が雇い主の耳に入ったら、無能扱いされてしまう。


 明らかに納得していない目つきで部下はその命令を伝えに去っていく。


 守備隊長は鼻を鳴らすと、さんさんと降り注ぐ太陽を忌まわしげに睨む。

 時間経過の象徴のようなその朝日を。

 寝不足だ。さっさとアルベルトを殺したら、とりあえず寝たい。寝て、それでも標的で生き残っている連中がいたなら、それをどう料理するかを考えようじゃあないか。


 そう思いながら待つこと数時間。

 駆けてくる副隊長の姿に、待ちに待った朗報かと期待するのも一瞬、その部下の顔が強張っていることに気付く。

 だが強張った顔の中にも、高揚、そして明らかに守備隊長を見下す色が見える。

 何だ、一体?

 寝不足で頭がぼうっとしていることもあって、悪夢に足を踏み入れたような、得体の知れない不吉な予感が全身をゆっくりと包んでくる。


「どうした?」


「はい」


 前まで来ると副隊長は膝をつく。

 だがその動作にもどこか、慇懃無礼な印象がある。


「隊長の命令を果たすことは、不可能になりました」


「どういう意味だ? 俺は、戦闘には巻き込まれるな。アルベルトを逃がすな。それだけ命令したんだ。それができないだと?」


「はい」


 淡々と、断片的に答える部下に焦燥と悪寒に支配された彼は怒鳴る。


「ふざけるな、どういうことだ。こんな、こんな簡単な命令が……おい、命令に従わなかった奴は誰だ。そいつを連れて来い。こんな、ありえない、厳罰を」


「命令は確かに全人員に伝えました。そして部下達は完全にその命令に従いました」


 口の端に泡をためて言いかける守備隊長を、はっきりと侮蔑を隠さなくなった目で見上げて、副隊長は言う。


「何?」


「隊長のご命令どおり、戦闘が起こっている範囲が広がってきたため、部下達はそこから退きました。問題は、その隙を突くようにしてアルベルトが逃亡したことです」


「まさか、それで逃がしたのか? この、無能共が」


「いえ、満身創痍になりながらもアルベルトは包囲を抜け出しましたが、ダメージが大きい。すぐに追いついて、拘束しました」 


「なんだ、だったら」


 安堵に顔を緩ませる暇もなく、


「先ほど申したように、アルベルトは警備会社と犯罪組織の戦闘が広がったためにできた包囲網の穴から逃亡しようとしました。そして、奴はそのまま、その戦闘の中心に向かうようにして逃げていきました」


「おい、まさか」


「追ってアルベルトを拘束できた場所は、警備会社と犯罪組織が今正に戦闘をしているその真っ只中です。部下数人が、殺し合いのされている場所の中心で、怪我をしているアルベルトを確保したまま取り残されているのです。もう、他の部下を抑えるのも限界です。仲間が絶体絶命なんです」


「ふざけるな。アルベルトを殺してそいつらが逃げ出せばいいだけのことだろうが」


「戦闘は激しく、彼らだけでは逃げるに逃げられない状況です。それに、警備会社の背後には避難民も多数います。トリョラの守備隊が、正規の兵が、民を見捨てて戦闘地域から逃げ出す姿を見せていいのですか? この混乱が終わった後、どう申し開きするおつもりです?」


 返す言葉を思いつかず、歯を食いしばり顔を真っ赤にして隊長はただ唸る。


「隊長、ご命令を。ひとまず、戦闘地域に取り残された彼らの救出を命令してください。そして、その際に犯罪勢力と交戦しても構わないと。このままでは、部下が命令なしに暴走します」


 立ち上がった副隊長が、ずいと前に出てくる。こちらを見下す、侮蔑しきった目をしたまま。

 これ以降は黙っておけよ、無能が。状況が状況だ。事故に見せかけて殺してやってもいいんだ。

 言外にそんな言葉を目と腰の剣に添えてある手で語る部下に、彼は気圧されて一歩、二歩、後ろに下がるしかない。





 目の前で、部下の頭に矢が突き刺さるのを見る。

 きょとん、とした顔をして、部下はそのままゆっくりと横に倒れていく。他の部下は誰もそれに構わない。構っていられない。気を抜けば、次は自分の番なのだから。


 だから、それに気をとられて、慌てて抱き起こすのはジャックだけだ。

 ジャックだけは、もう自分の命がどうなってもいいと思っている。いや、自分でははっきりとしてはいないが、きっと死にたいとすら思っているのだ。


「おい、しっかりしろ」


 矢や怒声の飛び交う戦場で、物陰に隠れることもせず、痙攣を繰り返す部下を抱き起こすが、反応はない。

 それでも声をかけ、体を揺らしながら物陰へと引きずると、痙攣する部下の目がぎょろりとジャックを向く。


「ジャック、さん」


 か細い声で部下が言う。


「ああ」


「何で、こんなことに」


 震える声でそう言う部下の手を、黙ってジャックは握る。


 どうして?

 それは、俺が生きているからだよ。

 そう答えてやりたいという衝動を、必死で押さえ込む。


「後ろ、俺の妹が、いるんです。守って」


「ああ。任せろ」


 俺が首を差し出せば、すぐに安全になる。

 だというのに、それを黙って任せろなどという自分に心底嫌気が差して、ジャックは自分の内頬を噛み切る。


「おい、とにかく救護室まで行くぞ。立てるか?」


 声をかけたところで、ジャックは既に部下の痙攣がとまり、瞳孔が開いていることに気付く。握っていた手は、急速に冷たく、硬くなっていく。

 呆然と、動けずにジャックはただ、そこにいる。


「おいっ」


 乱戦の中を、突進して無理矢理に割り込むようにしながらジャックの元へと周囲の戦士よりもひとまわりは大きな人影がよってくる。


「ああ、何をしている? 死体の手なんぞ握って」


 ぐい、と襟首を掴まれて無理矢理引き起こされ、そこでジャックはようやく我に返る。


 人影は鎧で完全武装し、どこか生き生きとしてさえ見えるドラッヘだった。


「お前、頭領がこんな前線に出るんじゃない。それとも、あれか?」


 顔を近づけ、耳元で、


「自分が危険な目に遭うことで罪滅ぼしでもするつもりか? ただの自己満足だぞ、そりゃ」


「そんなつもりは。けど、指揮はドラッヘさんがしてくれるんです。俺はもう、前線で皆と一緒に戦うくらいしかないでしょうに」


「いくら俺が指揮を執っていても、まとめているのはお前だ。お前が死ねば、警備兵達は総崩れになるぞ」


「はっ」


 その言葉が無性に面白く、ジャックは笑ってしまう。


「そうなりゃ、総崩れになったって構いませんな。なにせ、俺が死んだ時点で、この抗争も終わるんですから」


「それは確実じゃあない。それよりも、だ」


 唐突に、にやりとドラッヘは獰猛な笑みを浮かべてみせる。


「勝ちの目が見えてきたぞ」


「え?」


「報告があった。今、前線の一部で敵とトリョラの正規軍が戦っている。その火を煽って拡大させるように、部下には指示を出した。防戦一方だったが、トリョラの兵士達が加勢してくれるなら話は別だ」


「どうして……」


 ジャックは首を捻る。

 確かに要請はした、が、それが通るとは考えもしていなかったというのに。


「さあな。俺達が予想しないくらいの無能が敵にいたんじゃあないのか。とにかくジャック、お前は下がって避難民達に状況を伝えろ。信頼しているお前からなら、彼らは完全に信じる」


「何のために?」


「トリョラ正規軍が助けてくれている。当然、喜ぶだろ。喜ぶし、こういういい知らせは広がるのが早い。さっさと既成事実にしてしまおう。正規軍がまた知らぬ存ぜぬをきめこむ前にな」


 確かに、ドラッヘの言うことに間違いはない。

 ジャックは頭の中で指示を吟味して、そう思う。そう思うが、同時に、それが酷く危険な気がしてくる。何故ならば、そもそも、この抗争自体が大いに間違っているからだ。間違った状況下で、間違いのないことをする。いやな予感ばかりする。

 だが、動かなくては何も変わらない。

 最後に、動かなくなった部下を見る。

 どうせ、すぐにそこにいく。悪いな。

 心の中でそう語りかけ、ジャックは前線とは反対方向、守るべき民のいる方向へと走り出す。

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