もう一組の親子
右手で顎に掌底。当然のように防がれる。
それも想定内だ。
次の瞬間、獣が爪でひっかくかのように右の指が敵の目を打つ。掌底をしながら、手首を使ってそのまま指で目潰しを行う。顎への掌底と目潰しをほぼ同時に行うことにこの技の骨子がある。
「う」
一時的に視力を失い、両手で防御しながな後ろに下がる男の、その両腕の間を通すようにして前蹴りを繰り出す。
爪先が喉の骨を砕き、一瞬で男は絶命する。
どう、と倒れる男からは既に目を離し、残る一人に向き直り身構えてから、ようやくヒーチは大きく、長く息を吐く。
「ようやく、これで残り一人か」
襲い掛かってきた三人の殺し屋達。
さっさと終わらそうと思っていたが、その三人の誰もが一流以上の腕で、防ぎながら逃げ回るのが精一杯だった。各個撃破を狙いながら路地から路地へと逃げ続け、隙を見つけては一撃入れて。
生け捕りにする余裕などあるわけもなく、一人殺し、二人殺し。
今、ようやく残り一人まで減らした頃には、日は完全に沈んでいる。体力も尽きて、くたくただ。
まずいな。
素直にヒーチはそう判断する。
もう、生け捕りのことなど頭から追い出している。最後に残った一人は、腕利きの揃った三人の中でも、明らかに実力が飛びぬけていた一人だ。
万全の状態で一対一でも、勝てるかどうかは運次第というのが、ヒーチの見立てだ。
それなのに、ヒーチは既に大きな手傷こそないものの満身創痍。気力体力共に限界まで削られている。
どうしようもない危機。
だというのに、荒い息を吐きながらも、ヒーチは自分の口の両端が自然に吊り上がっていくのを感じる。
間の前に立つ男は、目深に被ったフードを取ることすらなく、息を乱してもいない。
ただ静かに、好きなく身構えている。
「驚いた、な」
その男の声の調子からは嘘は感じられない。
本当に驚愕している。ヒーチにはそれが分かる。
「『クラッカー』も『三つ目』も、一流の殺し屋、だ。これがこうも、あっさりと殺される、とは。それに、さっきの、技」
男は首を捻る。
「ひょっとして、貴様、『見世物』の」
男の言葉の途中で、ヒーチは鞭のように足をしならせて逆袈裟に切り上げるように顔を蹴りつける。
男は軽くのけぞるようにしてその蹴りをかわす。
紙一重でかわされた攻撃は男のフードをめくり、顔を露にする。
「何?」
攻撃がかわされたことよりも、その顔を見たことでヒーチは混乱する。
だが、混乱は一瞬。正確に言えば、混乱を表に出すのは一瞬。
混乱を悟られれば、好機と相手に攻め込まれる。すぐに表情を消す、が。
「貴様」
混乱しているのは、どうやら男の方も同じだ。
自分の顔を見て一瞬混乱を露にしたヒーチ、その反応を見て男は混乱している。
距離をとり、互いの顔を睨み合いながら、二人の体は固まる。
男の顔は、狼のものだった。
狼の獣人。灰色の毛並みはつやつやと輝き、体格はヒーチよりもふたまわりは大きい。その毛の下にはみっしりと鍛え上げられた筋肉が詰め込まれていることが分かる。両手には、それのみで凶器になるほどに研ぎ澄まされた鋭い爪。
「別系統の、タイロンの弟子かとも思った、が、今の反応」
狼は喋り、目を爛々と輝かせて笑い出す。
「ふ、ふふ。そういうこと、か? 信じら、れん、まさか。な。死んだと思って、いた」
「こっちのセリフだ。死んだという話を聞いていたが」
「ずいぶん、見た目が、変わった。老ける、なら、ともかく、若くなっている、とは。そもそも、獣人の血が、混じっていた、はずなのに」
「そっちは何も変わっていない」
「そうでも、ない。少し、身体能力は、落ちた。老い、には、勝てない。が、技の方は、冴えを増している。試す、か?」
「嫌だって言ったら、やめるのか?」
喋りながら、ヒーチはずっと呼吸を深く、大きくしていく。
精神と息を整える。
「できん、な。これも、仕事、だ。ここで、死ね」
「やってみるといい、親父殿」
大きく息を吐き、ヒーチは重心を下げる。
対して狼の獣人、かつて師であるタイロンに返り討ちにされたはずの殺し屋、オオガミは肉食獣の飛び掛る寸前にも似た、極端な前傾姿勢。
「ああ」
そこで、ふとヒーチは無防備に上に目をやる。路地から見える狭い狭い夜空。
「三日月、いや、二十七日の月か」
細い弧の月が、狭い夜空から見上げることが出来る。
ヒーチは陶然と顔を上に向ける。
「夜空は、こっちの方が綺麗だな。地上の明かりが少ない」
あからさまに隙を見せるヒーチに、オオガミは飛び掛らない。
「肝は、太く、なった、か。ガキ。俺を、前に、よく、そう、隙を、作る」
「はん」
言いながら、僅かずつ体力が回復していくのをヒーチはじっと計っている。
敢えて隙を見せて、逆に相手に警戒させておいて、その間に休む。相手が実力者でなければできない回復方法だ。
「嬉しい、ぞ。父として、な」
「馬鹿馬鹿しい、と笑うところだろうが、少し、分かる」
「何?」
「確かに、息子が成長するのを見るのは、嬉しいし楽しいもんだな」
「息子が、できたの、か?」
「ああ、まあ」
言葉の途中で、瞬時にオオガミは距離を詰める。それと同時に突き出される貫手。鋭い爪も相まって、その貫手は刃物の一撃と同義だ。
「俺に似ず、できが悪いがな」
それを掌で横にずらすようにして捌いてから、ヒーチは膝でオオガミの腹を蹴りつける。感触はまるで鉄だ。後ろに吹き飛ぶだけで、オオガミはそのままダメージもないように足から地面に降り立つ。
「なに、息子は、自分、より、無能に、見えるもの、だ」
「言葉に棘があるな」
ヒーチは構えなおし、軽口を叩きながら、笑い、そして一つ確信する。
どうやら、まともにやったら殺し合いではこの男には絶対に勝てないようだ。さっきの一秒にも満たないやり取りで、それが分かる。久しぶりに会えば、衰えるどころかより鋭く研ぎ澄まされている。
気付かないうちに刃物でされたかのようにヒーチの頬は切られている。そこから溢れる血を人差し指で拭う。
もう少しだけ、死なずに、見てみたいものがある、が。
「あまりわがままを言っても駄目か。誰だってそうだろうからな」
呟き、
「ほら」
血を拭った指を、でこぴんでもするように弾く。
血の雫がオオガミの目に向かって飛び、
「ふん」
僅かに横に首を傾げるだけでそれをかわすオオガミに、
「いくぞ親父」
ヒーチは笑顔のままで距離を詰め、蹴りを繰り出す。
店内から傭兵達のほとんどが一気にいなくなり、急激に静かになる。
打ち合わせが終わり、傭兵達とジャックは店を出て行った。ドラッヘも出ていこうとしたが、「ちょっと待ってくれ。話しておきたいことがある」とマサヨシに引き留められている。
今、店内でマサヨシの周囲にいるのは、ミサリナ、スカイ、そしてドラッヘだ。
「おい、ジャックについていかなくていいのか?」
ジャックが消えた店のドアを見て、苛立たしげにドラッヘは体を揺らす。
「そりゃ、してもらわないと困るよ。困るんだけど、ちょっと話があってさ。アインラードの話が」
空気を読んでか、ミサリナとスカイは黙ってマサヨシとドラッヘのやり取りを見守る。
「お前、あっちからどうにかするつもりか?」
呆れた顔のドラッヘに、
「そういうわけじゃないんだけど」
とマサヨシは肩をすくめる。
「方針は決めて、落としどころも決めたんだけどさ、あとはどうやってそこまで持っていくかって話で、ルートはいくつか考えないといけないじゃない」
「数あるルートのうち、アインラードの方から攻めるルートもあると?」
「だから、それを知りたくて、情報ないかなって。ヒーチと一緒にアインラード中枢で養ってもらってたんでしょ?」
「まあな」
「戦争は相手がいないとできない。フリンジワークの馬鹿がいくら張り切っても、アインラード側が徹底して戦争を回避すればフリンジワークとしては困ったことになると思うし俺達が気張る必要もないと思うんだけどさ、どう?」
「分かっていて訊いてるだろ? シャロンとかいうあの姫、ありゃあイカレてるな。戦争がしたくして仕方がないんだ」
「あいつはよく知ってる。あいつなら、そうだろうね。俺に一度負けたから、余計に勝ち戦に拘ってるんだね、きっと。戦争しなきゃ、勝ち戦もない。戦争せずにいて勝利するなんて発想、あいつにはないしそもそもあいつにとってそれは勝利じゃないんだ」
マサヨシはため息をつく。
戦場で出会った時の、あの赤尽くめの美しい姫の姿を思い出す。その後、フリンジワークによって久しぶりに顔を合わせることになった時の、あの静かな目に秘めていた狂気も。
「よく知ってるな」
「殺しかけ殺されかけた仲だからね」
「向こう、どうもお前にも拘っている気がするな。生きていることが伝わったら、それこそ遠路はるばる殺しに来るかもな」
容易に想像できて、マサヨシは顔をしかめる。
「まあ、そうなったらそうなったで。で、そのシャロンに支持者がいるってこと?」
「力はあるみたいだな。それから、支持者というよりも、有力者の一人で同類がいるぞ」
「同類?」
それじゃあ、ますますアインラード側を動かすのは難しいな、と頭の片隅で考えながらマサヨシは訊く。
「ハヤブサとかいう将軍だ」
「ああ」
ぱん、と思わずマサヨシは両手を叩き合わせる。
「あれだ、タイロンに殺されかけた奴。タイロンにちょっと聞いた覚えがある」
そうか、なるほど。
元々、エリートの兵士の一人だったらしいと聞いていた。それが、タイロンに負けてシャロンの同類になるか。
さもありなんだ。
マサヨシは納得して、思い出す。
かつてのクライアントの中には、いわゆる事件屋がいた。
何か揉め事があると首を突っ込み、法の裏と表から利益を掠め取る連中だ。その事件屋の集団は、表向きは真っ当な会社の看板を立てており、その会社のコンサルタントという名目でマサヨシ達もグレーな仕事を何度か手伝わされていた。
「やったぞ」
その会社の幹部の一人が、ある日電話が終わった途端に自慢げにマサヨシに語りかけてきたことがあった。
「何がです?」
「型に嵌めてやった」
そう言って彼が挙げたのは、誰でも知るような大企業の名前だった。
「え、あそこを、ですか?」
「こりゃあ、太いぞ」
いつもの凶悪な顔を珍しく綻ばせる幹部に、
「さすがですね。あそこの法務部はかなりすごいって話、俺でも聞きますよ」
お世辞というわけでもなく、マサヨシが言うと、
「ああ、はん、簡単だよ」
よほど機嫌がいいのか、その幹部は珍しくマサヨシに椅子に座るように促すと、お茶を飲んでから講釈を始めた。
「あのな、あそこの部長は俺ぁよく知ってんだ、昔何度かやり合ってるからな。あいつは大したもんだよ、ただ、元々超エリートなんだ」
「はあ」
「だから完璧主義者なんだよ。完璧主義者相手はな、やり易いぞお」
にやにや笑う幹部に、
「どうやればいいんですか?」
「別に上回る必要はない。まずは、乱してやるんだ。完璧じゃない状態になると、それを完璧にしようとやっきになるんだ、あいつらは。神経質だからな。そのやっきになっているのを利用して、取り戻しようのない傷をつけてやる。二度と完璧になれないように。そうなったら、もう」
両手で何かをぐしゃぐしゃにするゼスチャーをして、幹部は椅子の背もたれに体重を預ける。
「終わりだ。完璧にならないから、代償行為でよ。俺達からすると訳分からない他のところに拘りだす。もう、型に嵌め放題だよ」
「そんなもんですか」
マサヨシは本気で感心した。
「ああ、ただ、気をつけろよ」
「え?」
「よく分からない拘りとか執着ってのは、ある程度なら弱点だが、突き詰めるとな、そりゃ要するに狂気だ。お前、狂人とやり合いたいか?」
ヤクザだって狂人相手は避けるぜ、と幹部は肩を揺らして笑った。
その幹部は、その一年後に刺されて死んだ。狂人にやられた訳ではなく、ただ単に金銭トラブルの末に殺された。
結局、狂気よりも、ありふれたものの方が恐ろしいし力を持っているのだな、とマサヨシはその知らせを受けて妙に感銘を受けたものだった。