白銀1
まだ夜になる前、他の客や従業員の大勢いる宿屋のロビーのソファーでうとうととして、その後は一晩中部屋で周囲を警戒する。
それがマサヨシがとった行動だった。
何か異変があれば、大声を出して他の宿泊客や従業員を呼んでしまえばいい。また、起きていることを外にも知らせるためにランプは一晩中つけておく。これで窓からずっと光が漏れる。襲撃の抑止効果はあるはずだ。
恐怖のために、どちらにしろ夜は眠れない。
そして、周囲に気を配りながら、マサヨシは計画を立てる。
「方針はシンプルに、計画は複雑に」
呟く。
顧客の一人がよく言っていた言葉だった。その顧客は腹黒かったが、事業の腕は確かで、学ぶところも多かった。
「シンプルな計画を実行したら失敗する。そんなにシンプルで成功するなら、誰でもそれをして成功しているはずだからな」
その顧客はよく言っていた。
染み付いたタバコの煙の臭いがするソファー、薄汚れた応接室、塗りの剥げかかった木目調の机。その顧客と話していた光景が蘇る。
「方針はシンプルでいい。どっちの方向に進むかはずばっと決めておかなきゃ駄目だ。それで、その方向に進むための計画は、複雑に慎重に積み重ねる。他の奴が真似できないほどに。いいか、方針を複雑にして決めるのに時間をかけるのは無駄だ。時間をかけて複雑にするのは計画だ。分かったな?」
ヤニで汚れた黄色い歯をむき出しにして、顧客は笑ったものだった。
今、マサヨシはその言葉を思い出している。
夜が明けて外に人の気配がする頃、マサヨシの中で方針は決まっている。
常に人を傍に置くことだ。大勢の人が常に周囲にいるのなら、向こうも手を出せない。常に、周囲に人がいる状態にすること。一人で部屋に閉じこもって誰にも会わないようにすることは逆に危険だと判断した。そもそも、それでは数日持たない。酒場の経営も不可能だから、生活のための資金すら危うい。
だから、大勢の人間のいる場所に常に身を置く。そうして自分に危害を加えることを躊躇させて、その隙に次の対策を練る。
できるだけ早くだ。
方針は決まった。
そして、昼にはハイジが尋ねてくる。
「いいんですか、城主が直々にこんな細かいことまで携わって」
金貨と引き換えに権利書を受け取りながらマサヨシが言うと、
「トリョラにとって重要なことです。それに」
そこで、ハイジはふっと目を逸らして、寂しそうな顔をする。
「こんなこと、もうできないかもしれませんから」
意味ありげだが、それを気にしている余裕は、マサヨシにはない。
「じゃあ、さっそく、開店に向けて動きたいんですけど、もしよかったら、少し付き合ってもらいませんか?」
駄目元で提案したマサヨシだったが、
「もちろん。店の立ち上げに関わるのは初めてです。わくわくしますね」
笑顔でハイジに言われて、逆に戸惑う。
ともかく、これでハイジが一緒にいる間の安全は確保されたと考えていいだろう。城主を巻き込んで殺しを行うのはリスクが高すぎる。
今日のうちに、やるべきことを済ませよう。
マサヨシとハイジは宿屋を出ると、まずは再開発地区を回ることになる。
それ以外のトリョラの店舗は、基本的には違法な商店だ。ハイジもいるのにそこで買い揃えるわけにはいかない。
正直、予算はあるので改装も考えたが、一刻も早く開店することを優先してそのままでいくことにマサヨシは決める。だから、必要最低限のものをまずは揃える。
ペンや帳簿といった消耗品、調理器具、調味料。三つ、四つの店を回り、それぞれの店で今度酒場を開くことを伝える。腰を低く、是非来てくださいとマサヨシは頭を下げ続ける。
幸い、全員がハイジの顔を知っており、城主の連れということでマサヨシのことを一目置いてくれているようだ。見たことのない目と髪に驚きながらも、全員が友人を誘って店に来てくれると言ってくれる。
「食品が欲しいんですよね」
「料理を出すんですか?」
「ええ、まあ」
マサヨシは元の世界で自炊していない。
とはいえ、ちょっとした料理くらいならする自信がある。料理を全く出さない酒場というのも想像しにくかった。
塩、胡椒、油、それから醤油によく似た調味料があることは宿屋で出てきた軽食から分かっていた。料理のまねごとはできるはずだ。
「面白そうですね、あなたの故郷の……あ、すいません」
目を輝かせて何かを喋ろうとしたハイジが、急に意気消沈する。
「いや、いいですよ。故郷の記憶はありませんけど」
ハイジが何に気を遣ったのか察したマサヨシは笑う。
「故郷の料理のまねごとなら、できそうな気がします。ぼんやりと覚えてますから」
実際、それをするしかないのだとマサヨシは考える。
元の世界で何となく作り方を知っている料理を、こちらの世界の材料で可能な限り再現する。それがマサヨシにとっての料理になるはずだ。
「トリョラで食品を扱っている一番大きな店はこちらにあります」
ハイジの案内で町を歩いている時に、突如として目の前を狼の頭をした男が横切る。
一気にマサヨシの血が凍り、全身が棒のようになる。
振り返り、そのマサヨシを見たハイジが行過ぎていく狼の頭の男と見比べ、
「狼人族の方を見るのは初めてですか? 獣人系の方は確かに少ないですが、そんなに驚かれるとは思いませんでした」
「ああ、いや、猫とかの人は見たことあるけど、狼は始めてみたもんで」
ばくばくと音を立てる心臓を落ち着かせながら、マサヨシは何とか言いつくろう。
落ち着け。
自分に言い聞かせる。
ハイジの言う通り、ワーウルフ自体は一定数いるはずだ。全部が全部、無法者に見えてしまうのは寿命が縮むだけだ。
大きな食料品店で、大量に食品を買い込む。お礼と店の紹介をして、荷車を貸してもらって店に運ぶ。
「これで、後は酒を買えば準備完了ですね」
荷車を曳きながら、マサヨシはハイジに話しかける。
「そうですね。ついでに、そのまま私がマサヨシのお客さん第一号になってもいいですか?」
「ああ、もちろん」
ハイジが長く一緒にいてくれればそれに越したことはない。
その限り、安全だ。
「肝心の酒はどこで買えばいいですかね?」
「そうですね、お酒は、とりあえず王都からの輸入品を専門に扱っているお店があるので、そこから買うしかないと思います」
「ああ、そうなんですか?」
「ええ、造酒には国からの免許が必要です。その免許を持っている大きな造酒所は、全て王都にありますから」
一旦荷車の中身を店の中に置いてから、そのまま荷車を曳いて今度はその輸入品店を目指す。どうせ大量の酒を運ぶことになるから、荷車を返すのはそれが終わってからでいい。
「法を犯して、個人的に酒造したり、お酒を売ったりしている人でトリョラは溢れています。再開発地区以外では」
マサヨシの横を歩きながら、ハイジが言う。
「けど、それは、正しいことではない。そうでしょう?」
「そりゃあ、そうでしょうね」
「一時的にはお金を得ることができても、先には繋がらない。そのはずです」
ハイジの言葉は、自分に言い聞かせるようなものになっている。
「住民達と敵対しないようにと、以前までの城主はそれを黙認していました。再開発地区を設定し、トリョラを何とかしようとしながらも、です。私は違う。正しい仕事による富が、彼らを正しく導き、トリョラを正しい町にする」
喋り続けるハイジを横目で見ながら、マサヨシは一周回って彼女のことを好きになりつつある自分に気付く。
狂信者だ。自分は決してそうはなれない。何かを一途に信じることなんて、できない。うらやましい。
「ハイジさんは、神様って信じているんですか?」
「もちろん。私は、正義と公正の神、ハローの信徒です」
「ぴったりですね」
「本当ですか?」
「もちろん」
本心からマサヨシが答えると、ハイジは嬉しそうに笑う。
交渉の基本。
本心からの言葉で相手が喜んでくれるなら、本心を口に出すべきだ。心からの言葉を言える機会は、そう多くはない。
酒を店内に運び込み、ランプを灯し、窓を開けて空気を取り込む。
食材と調味料を配置して、酒を棚に積み、椅子を並べる。
「ふう」
店内を見回し、マサヨシは満足して息を吐く。
大分、酒場らしくなってきた。
「ああ、そうだ、看板」
木の板を買ってきているのをマサヨシは思い出す。
これに店名を書いて、看板代わりにしようとしていたのだ。
「お店の名前、もう決めてあるんですか?」
楽しげに椅子に座ってこちらを見ているハイジに、マサヨシは首を傾げる。
「記憶もないのに、いい名前なんて浮かびませんよ。どうです、代わりに決めてくれませんか?」
「えっ!?」
驚いたハイジはきょろきょろと店内を見回してから、
「いいんですか、私で」
「もちろん」
「それじゃあ、その」
はにかんでから、
「白銀、というのはどうですか?」
「白銀」
マサヨシはハイジの白銀の鎧を見る。
「ええ、白銀はハローの色ですから」
「なるほど、じゃあ、それで」
「え、ほ、本当にいいんですか?」
「いい名前じゃあないですか。正義と公正の神様の色だなんて」
自分には全く合いそうにはないけれど、と内心でマサヨシは付け加える。
「嬉しいです」
「いや、まあ」
微笑んだハイジを見ていると少し気まずくなって、横を向いてマサヨシは頬をかく。
「それじゃあ、料理を始めましょうか」
「ええ、楽しみに待っておきます」
作る料理は決めていた。
肉じゃがだ。幸い、たまねぎもジャガイモも肉も(羊肉だが)手に入ったし、調味料もそれらしいものがある。作れないことはないだろう。
うろ覚えの工程ながら、それでもマサヨシは三十分ほどで肉じゃがを作ることができる。
「どうぞ」
一応自分で味見をして、食べられないことはないことを確認してから、ハイジに出してみる。
「それでは、いただきます」
ハイジが木のさじでそれをすくって口に運ぶのを、どうしてか緊張しながらマサヨシは見つめる。
「……妙ですね」
一口食べたハイジが、そう言う。
「ああ、味が変?」
「ああ、いえ、初めて食べたような、懐かしいような、味です。変なことを言っていますね、私」
「いや」
思わずマサヨシは微笑む。
「きっと、それは、俺の故郷のお袋の味って奴なんでしょう。記憶はないですけど」
「うまそうな匂いがするな。もうやってるのか?」
と、開けっ放しの扉から、数人男が顔を出す。肌の色も目の色もばらばらの男達。虎の頭の男もいる。
「ああ、やってますよ」
マサヨシは慌ててその男達の前まで飛び出すと、笑顔を作る。
「ようこそ、白銀へ」