逃走
悪趣味な金細工がじゃらじゃらとついた服を着込んだ中年の男が、どたどたを足音を鳴らして階段を駆け上がって来る音を聞く。見ないでもはっきり分かる。足音と金細工の鳴る音。真っ赤に染まった顔の色まで手に取るように分かる。
ヒーチはドラッヘと顔を見合わせて、そして同時にしかめる。
ドアが開け放たれる。
予想通り、金細工だらけの服の男が部屋に飛び込んでくる。薄暗い、窓もない、物置を改造した部屋。元々、大して広くはない部屋に、更に二段ベッドを運び込んであるために更に狭くなっている。
その狭いスペースに置いた小さな簡易机を挟んで話していたヒーチとドラッヘは、うんざりしたのを隠そうともせずにほぼ同時に男に顔を向ける。
「どうした?」
声をかけるのはヒーチだ。
「どうした、じゃあないっ。どういうことだ、この金はっ」
怒鳴る男が差し出したのは、ヒーチが昨日男に提出した台帳だ。男の指は開かれたページの、ある支出金の部分に置かれている。
「この、訳の分からない金はなんだ。私に無断でこんな金を使うなど――」
「俺達を匿ってくれたことは感謝している」
ヒーチの声は、平坦だ。それなのに、叫ぶ男の声を止める。
「見返りに、あんたには情報をくれてやった。それから、金の稼ぎ方も。俺があんたの金を動かして、そして増やす。報告は事後でいい。最初から、そういう約束だったはずだ」
「だっ、だが、それでもこの額は――」
「この額って、あんた、そもそもその金は全部ヒーチが稼いだもんだろうに」
横のドラッヘが呆れ声を出す。
「うるさいっ、と、ともかく、この金は何だ?」
「知り合いに流した金だ」
「と、いうことはつまり、これが、何倍にもなって返ってくるのか?」
一気に男の顔が弛緩するが、
「いいや、返ってくるアテはないな」
「ふざけるなっ」
また激昂する。
「勘違いするな。その金は、打倒シャロンのためのものだ」
「な、に」
ぴたり、と男の怒りに震えていた体が止まる。
「本末転倒だ。金稼ぎが共通の目的じゃあないはずだ。俺達はそもそも、シャロンを、いや、アインラードを腐らせて誤った戦争へと突き進もうとしてるタカ派の連中を倒すという崇高な目的のために協力している、同志だろう?」
そうヒーチが言うと、横で男に顔を隠すようにそむけて、ドラッヘが必死で笑いを噛み殺す。
「とにかく」
肩を震わせているドラッヘをちらりと横目で見て、
「無駄に使ったわけじゃあない。使った分の金くらい、おまけをつけてすぐに稼いでやるからそう心配するな」
ヒーチがそう説明すると、まだぶつぶつと文句を言いながらではあるが、男は部屋を出て行く。
「はあー」
男が消えてから、ドラッヘはようやく顔を前に向け、滲んでいた涙を拭う。
「あんな芝居臭いことを言えるんだな」
「笑いたくなる気持ちは分かるが、表情くらい殺せ」
ヒーチは首をぱきりと鳴らす。
「しっかし、使用人雇う金にも困っていた貧乏貴族が、金を持たせてやったらああも増長するかね」
「増長したんじゃあない。元々あいつはああいう人間なだけだ。余裕が出ると、人は本性が透ける」
「そんな奴に頼らなきゃいけない身の上が悲しいがねえ」
ため息混じりのドラッヘの言葉に、ヒーチはドラッヘの肩を叩く。
「灯台下暗しだ。牢獄から逃げ出した俺達がまさかそのすぐ近くの、けちな貴族くずれの屋敷にいるとは思わないだろう。安全の代償にあいつと付き合うんだと割り切れ」
「ま、そりゃわかってるがな」
そこでドラッヘは声を潜め、
「実際、どうなんだ? 動きはあるのか?」
「ある、が、暢気なものだ。遅すぎる。何も変わっていない。あの男の属する、アインラードの貴族共の穏健派閥は、国をゆっくりと反戦に持っていこうとしている。シャロンを筆頭とする好戦派とは対照的にな。だったら、単純にスピードで負けるだけだ。シャロンはともかく、フリンジワークはやるとなれば後先考えずにやる。間に合わない」
「だったら」
「だから向こう側に情報と金を流したんだ。アインラード側から火種を消すのは難しい。駒がない。金を作って手駒を集めようかと思っていたが、間に合いそうもない」
「それに、金で作った駒は、金で裏切る、か」
「そういうことだ。全く、金と権力と才能を持った狂人が、なりふり構わず全てを破壊しようとすると、中々対抗手段がないな。こういうのは苦手だ」
珍しく弱音を吐くヒーチを見て、ドラッヘは眉をひそめる。
「なあ、ヒーチ」
「うん?」
「随分前に、ほら、お前の言っていた、息子の話なんだがよ」
「どうした、関係ない話を突然」
「お前、ちょっと参ってないか?」
「参る?」
全く意味が分からず、ヒーチはぽかんと口を開ける。
「どういう意味だ?」
「いや、だから息子が――」
そこまでドラッヘが喋ったところで、何かが破壊される音、怒声、それから悲鳴が会話を中断させる。
瞬時に身を屈めたヒーチとドラッヘは、アイコンタクトすらせずに身を低くしたまま部屋を飛び出す。
物陰から物陰に走りながら、階段まで辿り着いた二人は、体を隠しながら下の階を覗き込む。
玄関のドアは壊され、そこから袋を被って顔を隠した男達が何人も突入しつつある。ふと見れば、全身をなますのように切り刻まれ、全ての金細工をむしりとられた男の死体が転がっている。
「バレたのか?」
ドラッヘが囁くと、ヒーチは男達から目を離さず、首を僅かに振って、
「そうは思えない。これは、それよりもっと悪い」
「あん?」
「多分、無法者共を使って、戦争の邪魔になる穏健派の連中を全員片端から襲わせているんだ」
「おい、ってことは」
「もう始める気だ、戦争を。おそらくフリンジワーク。この国まで直接的にこんな手を打つか。シャロンは文句を言わない。奴も戦争をしたいんだからな。これに乗じて戦争を開始するだけだ」
「どうする?」
「とりあえずか? 当然、逃げる」
男達を見下ろし隙なく観察しつつ、ヒーチは喋る。
男達は全員剣や棍棒で武装している。錬度はそれほどではないにしても、数と凶暴さは二人相手には充分過ぎる。
ヒーチはこちら側の武装を確認する。
ドラッヘの腰には剣。
ヒーチは手製の煙幕弾と、ナイフを数本。そんなものだ。
逃げるべきだろう。
「どっちから?」
「向こうの部屋の窓から、飛び降りてだ」
「なるほど」
「できると思うか?」
唐突に割り込む声。
階下を注視していた二人の視界外から、その声がする。
ゆっくり振り向いた二人の視線の先には、いつの間にかすぐ後ろに立つ、ひょろ長い鉄爪をつけた男。油気のない髪を長く伸ばし、目も鼻も唇も、全てが細い。
その男の声で階下の男達もヒーチとドラッヘの存在に気付いたらしく、全員が怒鳴り声を上げ、階段を駆け上がってくる。
「そうか、『八つ裂き』ニコか」
ヒーチは呟く。
それなりに名の知れた殺し屋の名を。
その鉄爪で標的を切り刻むことを得意とするこの殺し屋は、相手をいたぶる嗜好がある一方で、一流の剣士三人を同時に相手にして一方的に皆殺しにできる実力を持つことでも有名だ。
名を呼ばれても答えず、ニコはそのまま鉄爪を振り下ろしてくる。
飛び避けたヒーチとドラッヘだったが、その間に男達がどんどんと二階へと上がってくる。
「ドラッヘ、窓に行け」
ヒーチはドラッヘの背中を、男達やニコとは逆側に突き飛ばす。
「何?」
よろけながらドラッヘは振り返る。
「どこもこの調子なら、国中が混乱しているはずだ。お前なら、国境を抜けられる。ロンボウの『白銀』に行け。兵隊はいる。熟練の指揮官は必要なはずだ」
「お前はっ?」
「俺は」
答えている最中に、ニコが鉄の爪を突き出してヒーチ目掛けて突進してくる。
大きくのけぞってそれをかわし、ヒーチは蹴りを入れる。
だがその蹴りは鉄爪に受け止められ、その隙に男の一人がヒーチの背中目掛けて棍棒を振り下ろす。
「なんとでもなる。行けっ」
その猛烈な勢いの棍棒の一撃を振り返り左腕で受けながら、ヒーチは叫ぶ。べきりと何かが折れる音がする。
それに構わず、ヒーチは残る右手で懐から取り出したそれを、地面に投げつける。
次の瞬間、破裂音と共に周辺が煙に包まれる。
躊躇したのは一瞬で、煙から辛うじて覗くヒーチと視線を合わせてから、ドラッヘは脱兎の如く逃げ出す。
「逃げたぞ、追えっ」
煙幕の中、数人の男がそれを追おうとするが、そのうちの数人の背中にヒーチから投げられたナイフが突き刺さり、転げ回る。男達は混乱する。
「残った奴だ」
「先に殺せっ」
煙幕の中、そういった声を聞きながら、ヒーチは冷静にナイフを構える。
だが、そのナイフは。
「見つけた」
いつの間にか目と鼻の先まで接近してきたニコの鉄爪に、跳ね飛ばされる。