破滅の始まり
真っ白い、清潔な部屋。美しく繊細な意匠のこらされた家具の数々。それらの家具は全て曲線的だ。危険だからという理由で角という角は失われている。破片が危険だからという理由で鏡やガラスもなく、自分の姿を確認するには水鏡しかない。侍女が持ってくる身を清めるための水桶にいつも映るのは、美しい純白のドレスに身を包んだ、痩せ細った少女だ。
何もできない日々。だけど、本当は違う。
死のうと思えば、死ねる。舌を噛むのでも、ベッドのシーツを使ってロープを作り、それで首を吊ってもいい。
何もできないのは、自分に勇気がないからだ。
ハイジは、そう思っている。
凶器にならないように、毎回の食事は木製の食器に入って、同じく木製の匙と共に出される。毎回趣向を凝らした料理が出される。
かつては、食を断つことで反抗しようとしたこともあったが、今ではその気力もない。ただ、家畜のように出された食事を口にする。
その日は、久しぶりに来客があった。
「やあ、元気そうだな」
思っても見ないことを口にして笑う、恰幅のいい男。もうかなりの高齢だというのに、年々その精気は増しているようすら見える。
ノライの大狸と呼ばれていた男。ノライがロンボウに吸収された後、全く世間に姿を見せなくなった大貴族。名門、ゴールドムーン家を支配する、ハイジの祖父。
カーター・ゴールドムーンがそこにいる。
「御爺様」
「結婚生活は順調かね? もう新婚というには時間が経ってしまったが、まだ夫婦仲がいいなら何よりだ。今でも、思い出せる。ハイジ、お前とフリンジワーク王との婚約が発表された時のお祭り騒ぎを。真の意味でのノライとロンボウの統一。その象徴だった」
「あなたにとっては、自らの権力の象徴でしょう?」
「皮肉もうまくなったのお。王妃に相応しい」
たるんだ頬を震わせてカーターは笑い、
「そろそろ大人になれ、ハイジ。療養中という言い訳も、影武者で誤魔化すのもそろそろ限界だ。ある意味でフリンジワークよりも国民に人気のあるお前が、隠れてばかりでは国も元気にならん。フリンジワークに協力してやれ」
「彼は、国民の意見さえまとまれば、アインラードを敵として戦争に突き進むつもりです」
随分と鋭くなった、しかしまだ澄んで美しいエメラルドの瞳をカーターに、自らの祖父に向けてハイジは噛み付くように言う。
「ロンボウの宰相として、御爺様はそれでいいのですか?」
「無論だ」
鷹揚に老人は笑う。
「あの男の野心は凄まじい。エリピアを統一するかもしれない。だとしたらすばらしいことだ。我がゴールドムーン家はエリピア統一国家の名門となる」
「分かっていません。あの男にあるのは、野心じゃあない」
呟くハイジを無視して、
「そんなことより早く子を産め。夜には大分激しく抵抗するらしいじゃないか。フリンジワークが二ヶ月に一度出来ればいい方だとぼやいていたぞ。そんなことでは側室に先を越される」
「あなたは、最低です」
「ほっほっほ、そうだのお。それでいい。貴族なんて、自分の家の力を強めることだけ考えていればよい。そのためにいくら汚い手を使ってもな。何度も言うが、大人になれ。そろそろ、貴族の建前や騎士の御伽噺から卒業しろ」
「分かりました、ようやく」
「ん?」
「何故、あなたとハンクが、あの『料理人』が親しかったのか」
「ほう」
「凡欲の権化のようなあなたは、酷く扱い易い。フリンジワークが重宝している理由も、それです」
「だろうの」
悪びれることなくカーターは頷き、
「だが、それでも、勝ったのはわしだ。ハンクよりもわしは長く生きて、フリンジワークがどう思おうと権力を手に入れ、お前と違って監禁されることもなく自由を謳歌する」
「そんな生き方、何も残りませんよ」
「残る? わしが死んだ後に何か残って、どういう意味がある?」
不思議そうに首を傾げるカーターに、ハイジは鳥肌が立つ。
この男は、権力のためになるなら孫娘を売る自分の祖父は、ただの凡欲の権化ではない。本当に、凡欲しか持たない。それ以外の何も興味のない生き物なのだ。精神的な満足だとか、慈愛や尊敬といったものを、おそらくは生まれつき、持っていない。普通の祖父だと思っていた。家のことを大切に思っている典型的な貴族だと。だが、違った。
「帰ってください」
虫と会話しているかのような徒労感を覚えて、ハイジは力なく言う。
「また来る。できれば、それまでに大人になって、旦那に協力してやれい」
好々爺のように笑いながら、カーターは真っ白い、箱のような部屋を出て行く。
ハイジは脱力してベッドに座ったまま、しばらく動かない。
白銀。その一号店。
かつての賑わいは、そこにはない。薄暗い店内の客はまばらで、誰もが声を潜めて話している。ぼそぼそ、ひそひそと。時折混じる忍び笑いは、誰が聞いても印象のいいものではない。
その一角、店内の中でも一番闇の深い席に、一人の狐の獣人が座っている。
獰猛な面構え。服の上からでも分かる、鍛え上げた肉体。
汚職、賄賂、薬、女、そして暴力が蔓延るトリョラで、正当な報酬と引き換えに治安を維持する唯一の存在。
ジャック警備会社の長、ジャック。
その向かいにいるのは、少年、いや青年か。まだ若いが、瞳は冷たい沼のように暗い。顔には、刀傷がある。
トリョラの暴力装置。やり過ぎた組織を潰す必要悪である、表向きは市民団体として登録されている犯罪組織、トリョラ青年自警団。その団長、アルベルトだ。
「それで?」
しわがれた声で、ジャックは問う。
「別荘に移されてはいない。今も、王城の中にいるのは確かだ」
口以外微動だにせず、アルベルトが言う。
「いい知らせかあ、それは?」
口を曲げるようにしてジャックは苦笑する。
「いい面も悪い面もある。いい面は、居場所が特定できていること。悪い面は、それが知る限りロンボウで最も警備が厳重である場所だということだ」
「ミサリナは?」
「相変わらず、稼いでいるよ。作戦決行に際しては、それを全部吐き出すつもりもあるらしい」
「あの守銭奴が、珍しい」
「自棄になっているだけだ。全てを終わらせる戦争が始まろうとしている。誰もが、それを肌で感じている」
「はん」
ぐい、とグラスに入った酒を傾けると、ジャックの苦笑が深くなる。
「あの人が、大博打と大芝居までして稼げたのは、この程度の時間か」
「とにかく、意見は一致しているはずだ。奴は力を蓄えた。もう、無理矢理に戦争を起こそうとすれば誰も止められない。止められるとすれば」
「ハイジ。それがあいつのアキレス腱だな。取り込んでしまったから、逆に弱点になっている。ハイジを救出して、彼女がアインラードを敵国と看做すことに賛成していたというのがフリンジワークの嘘だと明らかになったら、そして彼女の口から戦争の否定を国民に伝えられれば、戦争は止まる」
「スカイも同意見だ。レッドソフィー教会は、ロンボウ側もアインラード側も必死に火消しに動いているらしいが、どうも内部に獅子身中の虫がいて芳しくないらしい。スカイは怒り狂っていた」
「くくく」
いかにも想像できて、ジャックは苦笑ではなく楽しげな笑みを漏らす。
「フリンジワークの飼い犬はそこらじゅうにいる。難しいだろうな、やはり」
笑いながら、ジャックは酒を流し込む。
アルベルトは、ようやく口以外を動かす。立ち上がり、ジャックに背を向ける。
「どちらにしろ、やるしかない。時間もない。フリンジワークには読まれているだろうし、打てる手は少ない。いざとなれば、俺の金も兵も全て投げ打つが、所詮犯罪組織だ。構成員は金と恐怖で転びやすい。そう期待しないでくれ。やはり、メインはジャック、あなたの警備会社になる」
背を向けたままのアルベルトの言葉に、ジャックは空になったグラスを置いて、天井を仰ぐと大きく息を吐く。
「町の荒くれの長が、国の長と戦わなきゃいけないのか。冗談がきついな。仕込みも遅々として進まない。このままじゃあ、作戦の成功率なんて概算で出しただけで気分が悪くなる代物だ」
「確かに」
そうして、顔だけ振り返ったアルベルトは奇妙に静かな声で問う。
「ジャック、だったらやめて逃げればいい。どうして、全てを賭して戦争を止めようと思っているんだ? 正義感か?」
「それはお前も同じだ」
そうジャックが返すと、アルベルトは言葉に詰まり、視線を逸らす。
「気付いてるだろ、アルベルト。あの会食の日、全部あの人に背負われたあの日から」
天井に向けたままのジャックの目は、しかし天井ではなくもっとどこか遠くを見ている。
「呪いにかかったも同然なんだよ。どうしようもなくて、俺もお前も四苦八苦している」
フリンジワークの目には、世界が輝いて見える。
「ようやくこの日が来た」
無精髭、乱れた髪。
王となってからのフリンジワークは、まだ堕落した生活に戻ってしまっている。だがその目に満ちる意志の強さは、王の座を奪い取ったあの日から変わることはない。
私室の机の上に飛び乗って、その上に腰掛けるフリンジワークは、珍しくはつらつとしている。
「その連中は、何だ?」
表情なく、その傍に立つメイカブが言う。
ついさっき、フリンジワークは金と手紙を数人の男に渡すように部下に指示を出していた。それを横で見ていたメイカブには、その男達の正体が気になるのは当然だろう。
「奴らはただの仲介屋だ。奴らを介して、裏の世界ではそれなりに名の知れた連中を雇う。火薬としてな」
「火薬?」
「ようやく準備が出来た。これから、俺は火をつける。ロンボウとアインラードに。その火は燃え広がり、情け容赦のない戦争へと続く。だが、火消し共がいる」
「確かに。ジャックを筆頭とした、『ペテン師』の息のかかった連中だな」
「ふん、行方不明の奴の息が本当にかかっているのかはともかくとして、だ。反乱分子には違いない。小火で終わってもらっても困る」
「なるほど」
明らかに、呆れた表情を隠そうともせずにメイカブは言う。
「だから火薬か」
「そう、爆発を起こし、火消し共を消し飛ばし、火を広げる。燃やし尽くす」
恍惚とするフリンジワークに、メイカブは顔をしかめて、
「何が何でも、全てを犠牲にしても、戦争をしたいらしい」
「何を今更。メイカブ、見ておけ、この世界を俺が塗り替えてやる」
「興味はないね。俺はただ」
腰に差した剣の柄を、メイカブがぎりと力を入れて握る。
「仕事をするだけだ」
「お前はそれでいい」
フリンジワークは机から飛び降りると、大股に歩いて部屋を出て行く。
「さあ、始まるぞ。色々と火消し共が企んでいたようだが、こういうことは機先を制さなければな。はは、行くぞ、メイカブ」
フリンジワークの声は、叫びにも近くなる。
「地獄だ、地獄が始まるぞ」