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プロローグ

 地響きのような、ドラゴンの吼える声に怯えて起きる。

 何年もここで暮らしていても、あの音、というよりも振動には未だに慣れない。マサヨシはよろよろと寝袋から出ると、床の木の板を軋ませながら机に向かう。

 もうぼろぼろになってきた日記帳。特に書くことがないから、毎日日付だけ書いている。それが重要だ。それだけが、マサヨシに時間の感覚を辛うじて保たせてくれる。

 精霊暦856年、3月21日。

 日付を書くと、マサヨシは息を吐く。隙間だらけのあばら家には、外の冷気が染みこんでくるから、息は白い。

 そして、またマサヨシの一日が始まる。





 忘却地帯では、一年を通じて寒い。体感からして、秋と冬しかない地帯だ。

 寒空の下を、マサヨシは巨大な水桶を担いで近くの川まで歩く。

 使っているあばら家も水桶も、マサヨシが到着した時には既に打ち捨てられたようにそこに残っていたものだ。おそらく何かの事情でフォレス大陸にも戻れなかったエルフが大昔に使っていたのだろう、とはザイードの弁だ。

 ともかく、毎朝水を汲みに行くのは日々の日課だ。飲料水はもちろん、服を洗濯しなければならないし、食器も洗う。寝袋だって一週間に一度は洗って天日干しする。


 あばら家から川までのエリアには薄荷のような強い匂いがする木々が群生していて、竜はこの匂いがするエリアには踏み込んでこないらしい。少なくとも、マサヨシが来てからはドラゴンはこのエリアに踏み込んできてはいない。


 葉の少ない木々がまばらに生えていて、川があり、あばら家、あとは乾いた地面と石。

 それが、マサヨシの知る忘却地帯だ。本当はもっと色々あるのだろうが、それを見るほど出歩いてはいない。竜に出会って殺されるだけだからだ。


 水桶を下ろして水を汲む前に、流れではっきりとしない、水面に映る顔を確認する。

 気になったら剃るようにしているから、無精髭はそれほどでもない。顔色は最悪の時からはそれなりに改善した。隈は相変わらず酷い。そして、顔中に傷がある。引っかき傷。深いものは、熱湯で消毒した針と糸で自分で縫って治療している。

 顔はまだましなほうだ。全身、特に腕にはいくつも古傷や縫合跡がついている。


「おはよう」


 水面の自分に向けて挨拶をする。それ以外に声を出す機会はない。毎日、こうやって自分の声がまだ出ることをマサヨシは確認している。





 一ヶ月に一度、幼体のドラゴンに結わいつけられて木箱が届く。

 その中にはビスケットや干した肉と魚、チーズといった日持ちのする食料と少量の医薬品、酒、それから外の大まかな、本当に大まかな情勢を綴った手紙が入っている。

 その食料を少しずつ食べて、一月を過ごす。今日も、干し肉と外に生えている木のうち、食べることが出来る葉を一緒に煮込んだスープ、それにビスケットを浸しながら食べる。

 酒は飲まない。主に消毒用だ。トリョラにいた頃にはシュガーと酒に溺れたが、今ではシュガーも酒も一切やっていない。シュガーにいたっては、そもそも忘却地帯に全く存在しないし、持ち込んでもいない。

 だから、体調は整いつつある。もっとも、失って戻ってこない部分が多いが。


 ふやけたビスケットを口に運びながら、数日前に届いた木箱の手紙を読み返す。この手紙だけが外との接点だ。何度も、何度も読み返す。

 今回の手紙は、特に、マサヨシは何度も読み返している。穴が開くほどに。


 食事を終えると、それ用の布で手を拭き、あばら家の隅に立てかけている剣を握る。

 夜まで、身体能力が落ちないように、それから、体が冷えないように剣を使って鍛錬をする。これも毎日のことだ。

 ハイジ、ジャックとの鍛錬を思い出す。

 ただ、剣を振る。

 全てを忘れるために。





 ぜえぜえと喉を鳴らしながら剣を置く。全身は汗に塗れている。

 あばら家の近く、水桶から小さい桶で水を汲み、浴びる。

 火照った体が、芯から冷える。頭の奥が凍りつくような感覚。マサヨシはそれをする都度、自分が生まれ変わったように感じる。


「はあ」


 吐く息は白い。


 水を拭って、熱いコーヒーでも入れるか。

 そう思い、マサヨシが布を手にした時、それは起きる。


 またか。

 ぞわりとした感覚に、マサヨシは舌打ちをしようとしたが舌が震えてうまくできない。唐突に喉が猛烈に渇く。

 布を掴んでいる手、その布に触れている部分が、ぞわぞわと蠢いているような感触。震えるもう片方の手で、その布をのける。


 分かっていたことだが、息を呑む。

 布の下、隠されていたマサヨシの手の皮膚の部分、無数の細く長い虫が、蠢いている。

 痒い。

 また、これか。最近はおさまってきたと思っていたのに。

 そう冷静に考える一方で、制御できない恐怖と焦燥に襲われる。

 痒い。痒い。痒い。

 虫は皮膚の下を這いずり、腕に、肩に、そこから胸に、腹に、脚に、首に、顔に広がっていく。

 がりがりと、無意識のうちにかきむしっている。置いてある剣を拾って皮膚を切り開きたくなる衝動を、理性で必死に抑える。もう御免だ。

 ばりばりと、虫はいつの間にか凶暴な爬虫類へと変わり、体を内部から食い出す。このままでは死んでしまう。

 怖い。怖い。

 死にたくない。死んだら平穏が手に入るなんて、大嘘だ。恐怖しかない。消えたくない。消えてしまう。

 

「なのに殺したのか?」


 血塗れの少年の死体、少女の死体、老人の死体、青年の死体、女性の死体、崩れ落ちそうな焼死体、原形をとどめていない腐った死体、五体がばらばらの惨殺体。

 彼らが語りかけてくる。

 父の声のようにも、クーンのようにも聞こえる。

 怖い。怖い。怖くて仕方がない。彼らが恐ろしい。


「お前も死ね」


 ハイジのような、スカイのような声。

 呪詛の声が恐ろしい。死にたくない。平穏なんて手に入っていなかった。恐怖の塊が、そこにある。体の内部で膨らんで破裂しそうだ。切り開いて取り出さないと。

 駄目だ。

 剣に伸びる手を必死で押さえる。


「死なないつもりか」


 声は自分の声。

 無数の死体は消えて、マサヨシ自身の死体が語りかけてきている。周囲の風景は赤黒くぐずぐずに崩れていて。その中をマサヨシは悲鳴を上げて転げ回る。


「死んだって許されないのに」


 どうしたらいいんだ。


「どうもできない。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ」


 吐き気。目眩。

 頭を抱えて蹲る。

 制御できない、本能的な恐怖。恐ろしい夢を見た時のような。震えが止まらない。また、吐く。

 あれさえ、あの粉さえあれば、楽になるのに。

 何を差し出しても、誰も殺してでも、欲しい。なのに、ない。どこにもない。ないから、殺される。

 マサヨシは暴れまわる。





 そうして、どれだけ時間が経ったのか。

 マサヨシはふらふらと立ち上がる。

 周囲はマサヨシが転げまわったせいで荒れている。マサヨシの吐しゃ物も吐き散らかされている。

 全身には、傷。引っかき傷もあれば、腕には自らで噛み千切りそうな強さでできた噛み傷まである。

 顔をしかめ、マサヨシはあばら家の中へと入る。まずはアルコールで消毒。それから、医薬品を使って手当て。もう、慣れたものだ。

 酒とシュガーの禁断症状による発作的な強烈な幻覚、幻聴はピークの時には三日間ずっと継続していた。今は、二日か三日に一度、一時間程度起こるだけだ。

 大丈夫、俺は耐えていける。

 マサヨシは自分に言い聞かす。

 嘘をつけ。

 頭の中で誰かが言う。





「元気そうだ」


 傷を治療したマサヨシのあばら家に、ふらりと訪ねてくる男がいる。

 あまりにも自然に訪ねてきたから、驚くべきことなのにマサヨシは驚くタイミングを逸して、ただぽかんとその姿を見上げながら、自分の腕の傷を縫う。


「ああ、うん」


 間抜けな返答をする。

 懐かしい姿。まるで記憶の中と変わっていない。

 ザイードだ。


「どうして、ここに」


「手紙は、読んでいるんだろう?」


「うん、ありがとう」


「そろそろ、戻りたいんじゃないか?」


 その言葉を頭で理解するよりも先に、マサヨシの口が勝手に渇いた笑い声を出す。


「今更、俺が出て行ってどうなるっていうの?」


「決着をつけようとは思わないのか?」


「その」


 もう日常となっている幻覚を思い出し、身震いしながら、


「決着つけたってさ、俺は救われないよ、別に」


「当たり前だろう」


 ザイードは呆れ顔をして、


「救われる救われないの話はしていない。要は、君は決着をつけたいのかどうかだ」


 頭の芯が痺れるような感覚。

 久々の会話だからか、それとも他に理由があるのか、マサヨシは言葉の意味がよく理解できない。いや、本当に理解できないのか?


「でも、俺は役に立たない」


 口は勝手に言葉を紡ぐ。


「何故だ?」


「権力もなけりゃ、金もない。力がないよ」


「人脈、それから名がある。きっと能力も。それから、金だが」


 どさり、とザイードが投げてよこしたのは、強烈な重さの革袋。中身は、見るまでもない。


「これって」


「君をここに連れてくるまでにかかった額、これまで君に送ってきた品々の代金、それからその運送代、全部差し引いても、あの時もらった額の八割以上は残っている。正直、返す機会を待っていたんだ」


「律儀すぎる。そんなだから、エルフは利用されるんだ」


「エルフの中でも、僕は特別に誠実なんだ。それで」


 まるで大したことのない、食事にでも誘うかのような口調で手を出しだしてくる。握れと言わんばかりに。


「トリョラに戻るか?」


 何故か、マサヨシの返事は決まっている。

 手を握る。

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