動9
警備についている、両側の兵士に軽く頭を下げてから、ハイジは扉を潜る。
そこから長い廊下を抜けて、階段を上がる。
そうして、ようやく辿り着くのは、巨大なテーブル。そこに並べられたエール、ブドウ、林檎、ベーコン、パンの数々。
会食の会場だ。既に、ハイジとフリンジワーク以外の面々は着席している。いや、一人、この場にいない招待客もいる。だがそれは、来ないだろうと最初から分かっていた者だ。マサヨシ。彼の顔はここ数ヶ月見て、いや彼の名すらも数ヶ月聞いていない。
座り、ただ会食が始まるのを待っている面々の顔を見回す。
誰も彼も、ハイジの知っている顔だ。
ジャック、ミサリナ、アルベルト、スカイ。ここに、フリンジワークとハイジを加えたメンバーでの会食になる。小規模で非公式な会食。
だが、その会食が、これからのトリョラの、いや、エリピア大陸の行く末を大きく左右しかねない。その予感に、ハイジは背筋を正しながら、空いている席の一つに座る。
「あとは、フリンジワークか」
退屈そうに言って、乾杯もまだだというのにジャックが林檎を齧る。
黙って、ひたすらに目を閉じて時を待つアルベルト。
その横では、ミサリナが全員分のエールをジョッキに注いでいる。
スカイは、鋭い目でジャックを、アルベルトを、ミサリナを睨みまわしている。
時間だけが経っていく。
だが、誰も不平も不満も口にしない。
ハイジは目を閉じる。
思い出すのは、子どもの頃の自分の夢、そしてそれと比較しての現状。トリョラの城主となってから今までの、長い道のり。
ひょっとしたら、もうすぐ終わるかもしれない。
そう、思っている。
「待たせたか? いや、時間はちょうどのはずだ」
爽やかな声と共に、美丈夫が軽快な足音と共に入ってくる。
傍にメイカブを連れていることから、それがフリンジワークだと気付いてハイジは目を見張る。噂には聞いていたが、これほどの変わりようとは。
「忙しいところ集まってもらってすまない。さあ、さっそく食事を始めよう」
魅力的な笑みを浮かべてフリンジワークはミサリナの元にあったジョッキを自ら全員に配ると、席に座ってジョッキを掲げる。
「乾杯」
そして、会食が始まる。
ボイルドエッグを一口で平らげ、メンバーを鷹揚に見まわしてからフリンジワークは口を開く。
「壮観だ。トリョラの、いやロンボウの未来を担う傑物がこうして一同に会している」
「はん」
鼻で笑うのはジャックで、その他は全員がほぼ無視をして機械的に食物を口に運んでいる。
ハイジすら、目を閉じて座り、自らの思考に没頭している。
「これから、トリョラには苦難の時が続く。しかし、諸君らの協力さえあれば、その時も恐れるに足りないと信じている」
「苦難の時?」
ミサリナがようやく目をフリンジワークに向ける。
「それって、具体的に何のことを仰ってるわけ?」
「戦争だよ、決まっている」
即答するフリンジワーク。
全く何気ない言葉でありながら、その瞬間に会食の場の空気が張り詰める。戦争、その言葉に誰もが反射的に身構える。
「また、戦争が起きると?」
形だけは静かに問うスカイだが、ふつふつと戦争という言葉を軽く口にしたフリンジワークへの敵意が煮えたぎっているのがハイジにも分かる。
「そうとも」
エールを呷り、フリンジワークはその殺気立っているスカイに爽やかに笑いかける。
「無論、戦争は避けるべきだ。できる限り。しかし、鉄火をもって対抗しなければならない時もある。一方的に暴虐を振るわれ、それに耐え続けるわけにもいかない」
「アインラードが、暴虐を振るっていると?」
スカイの声は震える。
「もちろんだ。シュガーで無辜の民を蝕み、そしてそれに抗おうとした兄ファブリックをはじめとする王族を無残にも殺害していった。これで、抵抗をしないことはありえない。そして、以前に矛を交えたばかりのロンボウとアインラードは、簡単に戦争に突入してしまうだろう。悲しいことだが」
「フリンジワーク、私は」
かっと目を見開き、何かを言おうと身を乗り出したスカイに対して、フリンジワークは手で押しとどめながら、さわやかな笑みを崩さずに続ける。
「分かっているよ、スカイ。レッドソフィー教会が世界に対してどんな意味を持っているかは。レッドソフィーは慈愛の教団だ。戦争を否定する。そしてシュガーも。当然だ。そういう存在だからこそ、レッドソフィー教会の存在そのものが世界を安定させているんだ。それに異を唱える気はない。君達はどうぞ、戦争にもシュガーにも熱烈に反対し続けてくれ。そうでなくてはいけない。間違っても君達が戦争やシュガーを容認してはいけない。どんな理由があろうとも。それは教会の権威と信頼を失墜させ、多くの人々を絶望させ、戦争以上に悲惨な出来事を巻き起こすことになる。だろう?」
青白い顔で、目を血走らせて歯を食いしばったまま、そろそろとスカイは再び椅子に座る。何かを我慢しているように。
「そうとも、どんな理由があろうとも、シュガーを容認してはいけない。それは、レッドソフィー教会の敗北であり、正義の敗北だ。だろう、スカイ?」
笑ったまま、平静な口調のままでありながら、どこかフリンジワークの言葉には相手を追い詰めていくような響きがある。
「ええ」
絞り出すようにして、スカイが返事をする。その肩はわずかに震えている。
「だから、スカイをはじめとするレッドソフィー教会が戦争に二の足を踏むのは予想済みだ。こちらも賛同してもらおうとは思わない。ただ、シュガーがどれほどの悪か、そしてその悪をばら撒く行為がどれほど許されないかだけについて賛同してもらえれば、それでいい。他の君達は、どうだ? 戦争について、どう思う?」
「あたしは、基本的に戦争は反対なわけ」
声を上げるのは、ミサリナだ。投げやりな口調でそれを言う。
「理由は、稼げなくなるから。戦争を利用して儲けることが、なあんて言う奴もいるけど、自分の本拠地が戦争に参加するとしないなら、戦争にしない方が絶対に商売ではいいわけ。そういうわけで、あたしは反対。自分本位だけどね」
「なるほど、立場上、そういう意見になるのも納得できる。他は?」
フリンジワークは揺るがない。頷いて、他の面々に話を促す。
「当然、トリョラに住むものとして、戦争には絶対反対だ」
ジャックが口を開くが、その表情、口調、共に覇気がない。どうせこんなことを言っても意味がない、と諦めているのか。
「右に同じだ」
ぼそりと呟いてアルベルトも同意する。
「ふむ、では、シュガーについてはどうかな、シュガーによって治安が悪化している現状、これは放置できないだろう、ジャック?」
「もちろんだ」
「なら、その黒幕がアインラードであり、そこを糾弾することで戦争に突入せざるを得ないとして、その糾弾を行わないつもりか?」
ジャックは黙って、ため息を吐く。
「シュガーを根絶することと、戦争は別です。戦争を回避しながら話を進めることもできるはずです」
アルベルトが抵抗するが、
「シュガー根絶を掲げた王族を暗殺するような連中が支配する国と、戦争を回避しながら話を進める? 現実的な話には思えないな」
「彼らが、それをやったという証拠は……」
「証拠ならある。外には出せないが。それは俺が保証しよう。それで、十分だろう?」
「そんな乱暴な話はないでしょう」
「アルベルト、冷静に考えてくれ。俺が戦争を引き起こすような証拠の偽造をやって、何のメリットがある? 俺だって、戦争を避けられるものなら避けたいんだ。それなのに戦争に向かわざるを得ないほどの、確固たる証拠があるということだ」
とうとう、アルベルトも黙る。
フリンジワークの言うことは根本では間違っていない。戦争を引き起こすことに、得はない。トリョラを得ようと手を回していたフリンジワークにとっては、トリョラが荒廃する最悪の手段とも言える。だから、未だにアルベルトは分かっていない。どうして、ここまでフリンジワークが戦争に突入しようとしているのか。
誰も何も言わず、会食の場に沈黙が続く。
だがその沈黙を嫌う様子もなく、むしろ待ちかねていたようにフリンジワークは悠々とエールを飲み干し、パンを齧ってから、ゆっくりと体ごと、ハイジに向ける。獲物を狙う獣のように瞳が一瞬だけ光る。
「ハイジ。区の長としての、君の意見を是非聞きたいな。さっきから一言も口を利いていない。そもそも、今回の会食は、君が俺の今回の一連の動きについての同意の便りを送ってこなかったことがきっかけなんだ。戴冠式までのスケジュールをぎりぎりに調整してまで、この会食にやってきたんだ。そろそろ、君の意見を言ってもらおう」
一瞬の躊躇いの後、
「分かりました」
息を吸い、ハイジは改めて背筋を伸ばし、まっすぐに美しいエメラルドの瞳でフリンジワークを見据え、
「私は、戦争には反対です」
「ほう」
特に驚いた様子を見せないフリンジワークは、微笑を浮かべて、
「何故かな? 君は貴族であり、騎士だ。国と民のために戦をするための存在と言っても過言ではない。その君が、国と民を害するものとの戦いを否定するのか?」
「そんなつもりはありません。国を、民を害するものとの戦。私はそれを、正しいと信じています。ただ」
そして、初めてハイジが笑みを浮かべ、それを見たフリンジワークが表情を崩す。予想外のものを見たかのように。
その笑みは、間違いなく、ハイジに似つかわしくない弱々しい自嘲の笑みだった。
「私は自分が、信用できないだけです」
「どういう意味だ?」
まだ狼狽を隠せずにフリンジワークは問い質す。
「そのままの、意味です。仰るように、私は正義の戦いのための存在です。国や民のために戦って死ぬのは本望です。いえ、正直に言えば、その機会を待ち望んでいます。その場でしか、私は生きていない」
「だったら――」
「私は無能です。分かっていたけれど、それを人前で吐き出すのにこんな時間がかかってしまった」
その言葉に、フリンジワークをはじめとする全員が唖然とする。まさか、ハイジからそんなセリフが出てくるとは誰も思っていなかったのだろう。
「私が有能であれば、この町がこんなにもなることはなかったはずです。その私が活きる場が、そんなに正しいものだとは思えません」
弱々しい笑みとは裏腹に、その言葉は力強い。
「自分を否定するのか?」
「ずっと、ただの人形、神輿として生きてきました。私が正しいと思った行為は空回りして、その後始末と挽回に多くの部下が走り回った。その繰り返しでした。充実感なんて感じたことがない。その私が、戦争では生きていけた。充実していました。だから、分かるんです。私が充実するということは多くの人が不幸になるということで、私が正しいと信じる道は私以外の人々の多くにとっては間違っている道です」
ほう、と息を吐き、ハイジは少しだけ上を見る。
「やせ我慢するのが貴族の嗜みだと思っていたから、自分が役立たずだと気付いていても弱音を吐けませんでした。けれど、もう、いい。私は戦争を正しいと思うし、待ち望んですらいます。であれば、きっと多くの民にとって、戦争は間違っているし、忌まわしいものなのでしょう」
そのハイジの独白に、他の誰もが息を呑み、硬直している中で、
「いいや」
いつの間にか、フリンジワークの表情には余裕が戻っている。
「この戦争は、正しい。君にとっても、民にとっても。これを見給え」
フリンジワークが取り出したのは、紙数枚からなる資料だった。どうやら人数分あるそれを、ハイジだけではなく、出席者全員にまわしていく。
一番に受け取り、ぱらぱらとめくりながら内容を読んでいたジャックの顔が強張る。それは受け取った順に、全ての出席者に伝播していく。
ジャックが、ミサリナが、アルベルトが、スカイが。そして、最後に手に渡ったハイジが。
その内容を見て、言葉を失い、激情を抑え込むかのように歯を食いしばる。
その紙に列記してあるのは、トリョラで起こった悲惨な事件の数々、その事件内容の説明だった。全てが最近に起きた、それもシュガーが関わって起きた酸鼻を極める事件の数々だ。
売春組織に攫われ、薬漬けにされて狂死した年端もいかない少女の事件。シュガーの取引に際して起きたトラブルで小規模な犯罪組織同士が抗争となり、それに巻き込まれて取引場所の近くで店を出していた家族五人が全員死亡した事件。シュガーを買う金欲しさに無職の若い男二人組が民家に侵入、住んでいた老夫婦が素手で一時間かけて撲殺された事件。シュガー中毒者が妄想や幻聴、幻覚に引き摺られ、理解不能な理由で無関係の妊婦を殺害、胎児を引きずりだした事件。シュガー関連の犯罪を告発しようとした役人の青年が、妻と娘を目の前で生きたまま酸の風呂に放り込まれ、自身は四肢と舌を切断され、医療処置を受けさせられて十日以上生きたのちに餓死させられたという事件。
字面で見るだけで気分が悪くなるような事件の数々が、そこには載っている。
「これを見ても、戦争を避けて、この状況を長引かせるのが正しいと、本当に言えるのか、ハイジ?」
フリンジワークの声は優しい。人を包むような声色。笑顔も慈愛に溢れている。意地を張っている幼子を温かく窘めるように、語りかける。
「それに君は無能ではない。俺が保証する。あの戦争で、トリョラの被害が少なかったのは君の奮闘があってこそだ。戦争は確かに多くの被害を出す。しかし、戦わなければより被害の出る場合もある。あの戦争がそうだし、そして今回もそうだ。その資料を読めば、誰でもそれが分かるだろう?」
ハイジ以外の誰も、青白い顔をして黙りこくっている。忌まわしいその資料を睨み殺すかのように見るものもいれば、目を閉じて静かに深呼吸するものも、天を仰ぐものもいる。
そして、ハイジは呼吸を乱している。浅く荒い呼吸をくり返しながら、無意識に入った力でぐちゃぐちゃに握りつぶされたその資料をゆっくりとテーブルに置く。
「ハイジ、君の力が必要なんだ。平和なトリョラで能力が発揮できなかった。それは事実かもしれない。だが、今、そこに書いてある資料のような事件が多発しているトリョラを救うのに、君以上の人材はいないと俺は信じている」
詰みだ。
フリンジワークは確信する。
多少、読み違えはあった。予想外の反応もあった。それでも、大筋は変わらず、決着の形は予想した通りだ。
トリョラで起こった事件、その中でも特に強烈で悲惨な事件だけを選りすぐってピックアップして作った資料。いくつかはフリンジワーク自身が間接的にだが関わった事件も入っている。ともかく、本物の事件の記録だ。本物の迫力に満ちている。
一般の人間ですら、吐き気を催す事件の数々。真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐに生きてきたハイジがそれを見て衝撃を受けないはずがない。意見が揺れないはずはない。
他の連中も口出しはできない。何故なら、集め方こそ恣意的だが、内容については本当のことだと、トリョラの一面なのだと奴ら自身が誰よりも知っているからだ。だから資料を突きつけられて、下手をすればハイジ以上にショックを受けているかもしれない。自分達が見て見ぬふりをしてきたものを無理矢理に見せつけられて。
これで、ハイジの意見は揺れて、そこにフリンジワークが付け込み、多少強引にでも戦争の同意を取る。
あとは、あのファブリックの遺志を引き継いだ『姫騎士』が戦争に参加すると国民に知らしめればいい。ハイジは、いいシンボルになってくれるだろう。
何も、変わらない。
結局はただの既定路線で、ロンボウもアインラードも地獄へと突っ込み、そうしてようやく、ハンクの生涯をかけて守っていたものが跡形もなく崩れ落ちる。
退屈だ。しかし、これで勝てる。
相反する二つの感想がフリンジワークの胸に去来し、そして。
「俺にもその資料、一部ちょうだいよ」
ありえない声で、彼方へと消え去る。
「まあ、いいや、ミサリナ、ちょっと読ませてくれ」
どこまでも自然に、まるで自分の家のように入ってきたその男は呆然として見上げるミサリナから資料を受け取り、テーブルの周囲を歩き回りながらその資料を読みだす。
誰もが、呆然とその姿を目で追う。
「ふんふん、なるほど、こりゃあ、酷い。確かにシュガーは最低最悪だ。それを取り扱う人間も」
資料をめくりながら言うその男の声に、動揺はない。
中に何が書いてあるのか、予想がついていたのかもしれない。
「けど、それがアインラードだって決めつけは、危険なんじゃない?」
空いている席に辿り着いたその男は資料を片手に椅子に座る。
黒のパンツとジャケット、そして瞳。白いシャツ。病的に青白く乾燥している肌と、随分と白髪の増えたがそれでも黒い髪。白眼の部分は血走っていて、痣のようにくっきりとした隈が目を縁取っている。
「遅れて悪いね、招待されてたっていうのにさ。さ、食事を再開しようよ」
死体のような見た目とは裏腹に、マサヨシは軽快に声を発する。




