ハイジ3
馬車がついたのは、さっき買うことを検討した店舗からそんなに離れていない、小さなレンガ造りの箱のような建物の前だった。
石畳が続いており、周囲の雰囲気もまだ穏やかだ。どうやらまだ再開発地区内らしい。とはいえ、さっきの場所よりかは騒がしい。よく言えば活気がある。
おそらく、再開発地区の端にあたるのだろうとマサヨシは見当をつける。少し行けば再開発地区を抜けるから、不法移民の連中も来やすい場所じゃあないだろうか。どうせなら、こういう場所に酒場を出せれば繁盛間違いなしだと思うけど。ああ、でも、色々とトラブルに巻き込まれそうだからやっぱりなしか。
そんなことを考えながら、ハイジの後に続いてマサヨシはその建物の中に入る。
外からの印象と変わらず、中に入ってみてもやはりそこは狭い。マサヨシのいた世界の感覚からすれば、一人暮らしのマンションの一室といったところか。
そこにカウンターがあり、その向こう側に中年の男がにこにこと笑いながらお茶を飲んでいる。
「おや、これはハイジ様」
お茶を飲んでいたその中年の男は、先に入ったハイジに気付くと元々下がっていた目尻を更に下げる。
中年のその男は、薄くなっている茶色い髪を撫で付けている。小太りで、目が糸のように細い。服装は麻製のそろいの上下で、サイズに余裕があるらしく少しだぼっとしている。
日曜日のお父さん、というのがマサヨシの第一印象だ。
「どうされましたかな?」
「おくつろぎのところ申し訳ありません、ご主人。実は、現在、トリョラの正式な住民になりたいという希望者の方がいらっしゃいまして、その後、この再開発地区でお店を構える予定です」
「それはそれは」
「そこで、ご相談なのですが、私が保証人になりますので、その方のお店の運転資金の融資の相談に乗っていただけないかと思いまして。もちろん、そのお店も担保とするつもりです。どうでしょう?」
「他ならぬハイジ様のお話ですからね、もちろんいいですよ。それで、後ろにおられるご仁が、その?」
「ええ、そうです」
ここが挨拶をするタイミングだろう。
マサヨシは前に出てハイジの横に並び、
「マサヨシです。よろしくお願いします」
頭を下げる。
ミサリナの時の失敗は繰り返さない。とりあえず、姓は省いて名前だけを伝える。
主人は、細い目を少しだけ見開く。
そうか、髪と瞳の色に驚いているのか。不便なものだな。
マサヨシは怪しいものではないと強調するため、にっこりと笑う。
交渉の基本その……そのいくつだったっけ。
面倒になってマサヨシはカウントをやめる。
ともかく、コミュニケーションの基本は笑顔だ。
「これはこれは、どうも。お店をやりたいとか?」
じっと主人がマサヨシの顔を見てくる。
笑顔は消さないが、深い皺にうずまっている目が光っているように感じる。
なるほど。
マサヨシは感心する。
人は良さそうに見えても、流石は金融屋。人を見定める目は持っているわけか。
「ええ、そうなんです。酒場を。初心者なんですが、ハイジさんに薦められて」
「なるほど、なるほど。それでは、ここでもう、融資を致しましょう」
「えっ!?」
声は、マサヨシのものだけではなくハイジのものも重なっている。
それはそうだろう。まさかこの場でいきなり融資が決まるなんて、想像できるものではない。
マサヨシは混乱する。こんなに、都合のいいことがあっていいのか?
「いえいえ、ハイジ様の紹介してくださるお客様ですから、間違いがあるわけはございません。それに、私は商人である前にノライの国民でありトリョラの住民です。国や町のためになるなら、助力は惜しみません」
「ご主人……!」
感動のあまり、ハイジは胸の前で両手を握り締め、目を潤ませている。
「さて、ではこちらにサインをお願いいたします」
そう言って契約書を差し出される。
マサヨシは文字は読めるが、内容的に問題があるのかどうかは、この世界の慣習を知らないのでいまいち判断できない。
「ああ、すいません、ハイジさん、問題がないか読んでもらえますか?」
「ええ、もちろん。ええと……」
契約書を両手で持ったハイジの目が、見開かれる。
「1万ゴールド!?」
「え?」
「これ、融資金額です」
「嘘でしょ」
慌ててマサヨシが横から覗き込むと、確かに融資金額が1万ゴールドとなっている。
いくらなんでも、多すぎる。3000ゴールドの店を持っている、いや、持つ予定があるだけの人間に、1万ゴールド?
「気持ちですよ。気持ち」
主人はにっこりと笑う。
「ご心配なく。利子の方は形みたいなものですから、そこまでご負担にはならないはずです」
「確かに、この年利ならそこまで負担にもならないはずです」
契約書を読みながら、ハイジが同意する。
「いや、その、何て言っていいか……」
混乱しながらも、とにかくマサヨシは契約書にサインする。
こうもうまく話が進むというのは、どうなのだろう。ひょっとしてあの神、イズルの加護なのだろうか。だが、あいつは詐欺、嘘、隠し事の神だったはず。特にこういう加護をくれるとも思えない。
半分夢を見ているような気分でマサヨシがいるうちに、契約が終わり、主人からカウンター越しにずっしりと重い小さな革の鞄を手渡される。中を見れば、そこにはぎっしりと金貨が詰まっている。
「確かに、1万ゴールド融資させていただきましたから」
「ええ、ありがとうございます」
主人に笑顔を向けられ、マサヨシもかろうじて笑顔を返す。
「本当にありがとうございます。これで、また一歩、すばらしい町へと近づきます」
マサヨシよりもむしろ、感動して感謝しているのはハイジの方だ。
「いえいえ。それでは、マサヨシ様。お店が繁盛するようにお祈りさせていただきます。また、何かありましたらご相談に乗らせていただきます。お仕事のことでも、それ以外のことでも」
カウンターを出た主人と一緒に、マサヨシとハイジは店を出る。
「それでは、またお越しください、ハイジ様、マサヨシ様」
店の外まで出てきた主人に見送られながら、マサヨシとハイジは馬車に乗り込む。
「色々と、ありがとうございました」
未だに何が何だか分かっていないが、ともかくマサヨシは礼を言う。
そうして最後に、
「本当にありがとうございました。これからも、よろしくお願いいたします、ランゴウ」
ハイジがそんな別れの挨拶をして、馬車が走り出す。
ランゴウ。ランゴウ。ランゴウ。
馬車の中、汗をびっしりとかいたマサヨシの脳内では、その名前がずっと回っている。
「今更緊張しているのですか? もう、終わりましたよ、マサヨシ」
少し笑いながらハイジが声をかけてくるが、うまく反応できない。
「あ」
何とか搾り出した声は、震えている。
「あの、人、ランゴウって言うんですか?」
「ええ、そうです。トリョラのランゴウと言ったら有名な金融業者です。それが何か?」
ごくり、とマサヨシは唾を飲み込む。
「いや、色々親切にしてもらったから、お礼しないといけないなと思って」
「そうですね。今まで何度かランゴウの融資には立ち会ったことがありますが、こんな気前のいい融資は見たことがありませんよ」
無邪気に喜ぶハイジから目を逸らして、馬車の外の建物が流れていくのを見ながら、マサヨシは思考に没頭する。
ランゴウ。ランゴウ。ランゴウ。
くそ、汗が止まらない。間違い、偶然の一致であって欲しいが、期待薄だ。この異様な融資、これが裏付けてしまっている。
冷静に考えよう。
マサヨシは自分に言い聞かせる。
ランゴウ。これは、あの無法者三人組が出していた人名だ。アガリを取る、と言っていた。おそらく、あの三人が実行犯、そして黒幕がランゴウという人間なのだろう、とはあの時点で分かっていた。
黒幕は何をするのか。武器の提供? いや、銃器などを使っていたのならともかく、奴らが持っていたのは鈍器や刃物。毎回毎回『仕事』の都度、そのランゴウとやらが調達する必要はない。
ならば、情報だ。金を持った人間が、どんなルートを通るのか、その情報をあの三人組に提供する代わりに利益の数割を吸い上げる。あるいは、城の警備隊のようなものがどんなルートを通って警備するのか、その情報を提供する。
金貸しのランゴウ。商売をする人間は彼に金を借りるのだろう。ということは、金の流れについての情報を持っている。そして、トリョラの城主であるハイジ・ゴールドムーンから信用されているようだ。つまり、城についての情報をある程度入手するコネを持っている。
ぴったりじゃあないか。単なる同姓同名と考えるのは、都合がよすぎる。
ため息をついてマサヨシが頭を抱えると、ハイジが心配そうな目線を送ってくる。それに気付きはするが、今のマサヨシには反応する余裕がない。
交渉の基本。
都合の悪いことから目を逸らさない。自分にとって都合の悪いことを把握した上で、計画を立て、その計画に基づいて交渉を行う。都合のいい夢物語を信じてはいけない。
あの男、ランゴウが人のいい金貸しの面を被った強盗団と繋がりのある悪人だとしよう。
マサヨシは仮定する。
その前提で考える。まず、あの三人組は自分のことをランゴウに伝えているか。
おそらく、イエスだ。
自分からの情報、嘘だが、とにかくそれのせいで『仕事』をしばらく休むことにしたら、それを黒幕に伝えないわけがない。
その情報を伝えに来た相手、グスタフの使いと名乗った人間と自分が同一人物だとランゴウは気付いているのだろうか。
これも、おそらく、イエスだ。
黒い瞳と黒い髪。これが相当に珍しい、というよりこの辺りの人間は見たことがないというのは既に分かっている。あの三人組がランゴウにグスタフからの使いについて伝える時に、その特徴を伝えないわけがない。
では、それを前提として、さっきの邂逅はどんな意味を持つのか?
ランゴウの立場からすれば、自らの手下に伝えられた特徴を持つ男が、城主と共に現れた。商売を始めるから、融資をしてくれと。どう考える?
脅迫だ。
黒髪黒目の男が、金を強請り取りに来た。お前の正体を知っている。城主を連れてきたぞ。金をよこせ。そう言っている。
そう考えるしかないだろう、ランゴウにとっては。
さて、更にここで二つのパターンが考えられる。
グスタフの使いというのが嘘だとランゴウが既に知っているパターンと、知らないパターン。ランゴウがグスタフとコネがあり、使いを名乗った男のことを確認していてもおかしくはない。
嘘だと知っている場合。自分は大物の名前を出してランゴウを強請っているだけの身の程知らずの小物だ。ランゴウからすれば、叩き潰せばいい。何時? ハイジと別れた瞬間だ。通り魔にでも殺されたことにしてしまえばいい。
まだ嘘だと確認が取れていない場合。もし本当にグスタフの使いの場合、殺せば面倒なことになるかもしれない。ただし、グスタフという犯罪者の手下が、同じ犯罪者であるランゴウを強請るというのは非常に不自然だ。だから、確証はなくとも非常に疑わしいはず。つまり、グスタフに確認が取れ次第、殺される。
遅いか、早いかだ。殺される。生かしておく理由がない。
自分でも気付かないうちに、マサヨシは爪を噛む。
どうする、手を打たないといけない。自分一人ではどうしようもない。
馬車が、やがてゆっくりと宿屋の前に止まる。
「とりあえず、今日はこの宿屋に泊まってください。明日には正式な契約を終わらせて、あの店の二階があなたの寝泊りする場所になります。ここの宿代は、城が持ちます」
「至れり尽くせりですね」
弱々しく笑いながら、マサヨシは何とかそう言うが、頭では全く別のことを考えている。
一人で、どうにかできるか?
できない、おそらく。誰かに協力してもらうしかない。
一緒に馬車に乗っている少女、ハイジは城主だ。権力という意味では、トリョラ内最大と言ってもいい。
問題は、頼りにならないことだ。
彼女はランゴウを信頼している。ランゴウも百戦錬磨の策略家だろう。ハイジが太刀打ちできるとは思えない。丸め込まれて、いつの間にかマサヨシが不慮の事故で死んでいる。そんなこともありうる。
むしろ、逆にこちらが嵌められて罪人としてハイジに捕まえられるケースさえありうる。ハイジを利用する方法は脛に傷のある向こうとしても危険だから避けたいだろうが、こちらが利用するとなると逆手に取られる可能性はある。
ハイジに協力を頼んでも、彼女がランゴウの側につかないとは限らない。簡単に騙せそうだ。
ハイジに相談することは、最善ではない。
そう判断して、マサヨシは馬車から降りる。
「明日、正式な店の権利書を持って来ますから、ゆっくり休んでください。明日から忙しくなりますよ、マサヨシ」
どこまでも親切な少女はそう言って馬車で去っていく。
しばらく、マサヨシは宿屋の前で立ち尽す。金貨の入った鞄を手にしたまま。
これから、どうしよう。