プロローグ
灰崎正義。
正義と書いてまさよしと読む。
真夜中、正義は安アパートの灰色の天井をぼうっと眺めながら、考えている。
内容は、毎晩同じ。名前の正義とは似ても似つかない、今の自分の状況についてだ。
コンサルタント。灰崎正義の仕事を一言で表すとそうなる。
元々、就職活動をしている時、どこからも内定が出ず、困っている時に唯一声をかけてきてくれたのが、聞いたことのないコンサルティング会社だった。
コンサルティング、という横文字に何となく憧れ、その時は他に道がなかったこともあって新卒でそこに入社。コンサルタントとなった。
最初、スーツを着て出社する際は、自分はこれからコンサルタントだとどこか誇らしい気持ちになったものだ。
が、入ってすぐに分かったのは、まず会社がブラック、そしてそれ以上にクライアントがブラックなことだった。
要するに、正義の仕事は顧客のトラブルの解決だった。それも、ほぼ確実にクライアントの方に非があるトラブルだ。四方八方に頭を下げてのクレーム処理、あるいは強情なクライアントをなだめすかして何とか相手方との和解の道を探ったり、真っ黒なクライアント同士の間に入らなければならないことさえあった。
そしてクライアントはことあるごとにこちらに嘘をつく。気づかなければ詐欺行為に加担していたようなケースもいくつもあった。半分犯罪組織のようなクライアントばかりだから、正面からそれを糾弾したらこちらにどんな被害があるとも限らない。手練手管で何とか被害を回避しつつ、犯罪に加担することも避け、最終的にコンサルタント料をいただく。
そんな、黒ではないが灰色の仕事ばかりをやってきていた。
毎日毎日、街中を飛び回っていて、十二時をまわらずに家に帰れたことなどない。二週間に一日休みがあればいい方。それでいて給料は手取りで十五万程度。仕事を完了してもクライアントから感謝されることはなく、大体はクライアントにもトラブルの相手側にも「ペテン師」と罵倒される。
このまま、歳を取っていくのだろうか。
嫌だ。別に大金持ちにならなくてもいい。大きな幸せは望まない。ただ、人に嫌われず、平穏な生活さえ遅れればいい。
けど、それも、夢のまた夢だ。
こんな生活をしているうちに、友人とは疎遠となり、家族からも厄介者扱いを受けるようになってきている。
ため息をついて、正義は目を閉じる。
このところ、毎晩こんなことばかり考えている。
「ああ、何だ、これ、夢か?」
真っ白い空間に黒光りする椅子だけが二つ、向かい合っている。
空間は白く、距離感がつかめない。どこまでも広がっているようにも見えるし、ごくごく狭いようにも見える。
夢だとして、これ、どうやったら展開進むんだ?
正義は不思議に思い、とりあえず椅子に座る。
「やあやあやあ」
突然、甲高い声がする。
びくっと体をすくませる正義の向かい、誰も座っていなかった椅子に、突如として少女が現れる。
病的なまでに青白い肌。巻きに巻かれた銀色の髪。真っ赤な瞳。黒と白が入り混じったフリルのドレスという出で立ちだった。レースの手袋、二―ソックスもそれぞれ片方が黒、片方が白となっている。
「すまないねえー、こんなところにお呼び立てして」
可憐な少女ではあるが、青白い肌と赤い目、そして折れるほどに細い体つきからどうにも不吉な印象しか受けない。
「ああ、うん」
「何だ何だ、元気ないねえー」
けたけたと笑う少女。
若干気圧されながらも正義は、
「これ、夢、だよな?」
「夢であって夢じゃないんだねえ。おめでとう、パンパカパーン! 君は選ばれた!」
テンションが高い。
「あの……どなた?」
自分の夢の中の登場人物にこんな質問するなんて妙な感じだな。そう思いながら、正義がおそるおそる問う。
「ううむ、いい質問だ! 私の名前はイズル。君がいるのとは別の世界で、詐欺・嘘・隠しごと・卑怯なふるまいを司る神だ。よろしくしたまえよ」
「最悪な神様だな」
思わず正直な感想を正義が漏らすと、
「随分な言い草だねえ。しかーし、それも一理あるのだ。というより、私のいる世界では大部分の人がそう思っていてねえ、私を信奉する人間などほとんどいないのだよ、困ったことに」
「そりゃあ、そうだろうなあ」
正義としてはそう言うしかない。
そんなものを司る神を信じるのが最大宗派の世界なんて考えたくもない。
「うちの世界で人気があるのは愛を司るレッドソフィーだとか、正義を司るハローとかでね、困ったものだよー、全く。それで、私の力はどんどん落ちてきているんだ、かわいそうだろう?」
「ああ、そう、なのかな?」
当然の気もする、とは正義はさすがに言えない。
「正直、力が落ちたところで大して気にしないんだけど、神の間でちょっと馬鹿にされつつあるのだよ、私は。そこで私は考えた。今の私の力では大したことはできない。大勢を信徒にすることは難しい。ならば、信徒を作り出し、その信徒に世界で影響力を持ってもらえればどうだろうか、と。どうだい、天才的だろう?」
はっはっはっはとイズルという少女は笑う。
「影響力を持つって、具体的には?」
「うん? まあ、活躍してくれればいいんだよ。そうすれば、信徒の数が少なくとも、神の間で馬鹿にされることはないからねえ」
「はあ、なるほど」
「さて、というわけで別の世界から誰かを信徒にして連れて来ようと思ったんだ。私の世界で有望な奴には大体他の神がもう手を付けているからね。そして、灰崎正義君、君が選ばれたわけなのだよー。君には是非、私の信徒として活躍してもらいたい。もちろん私も力を貸そう」
そう言われても、正義としては嬉しくない。
「どうして、俺を選んだんですか?」
「んむ? まずは、異世界に来ることを望むという条件だな。今の私の力では、当人が強く望まない限りは別の世界の人間を召喚するなんて無理だからねえ」
なるほど、確かに自分は今の生活から抜け出したい。その意味で、異世界に行けるものなら、正直物凄い行きたい。
正義は頷く。
「そして、何よりも私と親和性の高い人間だ。君はその点、ピカイチだよ」
「だから、それが嬉しくないんだよな」
正義は声に出す。
詐欺・嘘・隠しごと・卑怯なふるまいを司る神と親和性が高いと言われても人として駄目だと言われているようにしか聞こえない。
「そんなもの、俺よりもいくらでも適任な人間いるでしょ。本物の詐欺師とかさ」
「ちっちっち」
ふるふるとイズルはレースの手袋に包まれた指を振る。
「違うんだなー、全く。私は、悪人が欲しいわけではないんだよ。正しく世界で活躍する人間が信徒として欲しいのだ。言っておくけどね、嘘や人を騙すことがイコール悪いことだと思って欲しくないのだよ。政治の世界だって、正しい行いをするために嘘をついたり隠しごとしたりはあるだろう?」
「じゃあ、この世界の優秀な政治家とかを連れていけばいいじゃん」
「そんな人材が別の世界に行きたがるわけがないだろう? 異世界にほいほい来るのは、君みたいなどうしようもない、おっと失礼!」
「いや、まあ、そうでしょうね」
確かにそうだ。
不愉快ではあるが、正義は納得する。
「さて、それで、どうする? 来てくれるかな?」
そう言われて、一瞬だけ正義は考える。
まず、これはおそらくただの夢だ。そして、夢ではなかったとして。
どうして、今の世界に未練がある?
「行くよ」
「素晴らしい!」
イズルは満面の笑みで椅子の上に立つ。
「それでは、これから君にはこのイズルの信徒として、異世界で大いに活躍してもらうこととしよう。ほら、あれを見給え」
イズルの指をさす方角に、いつの間にか両開きの扉が忽然と出現している。
「あれをくぐれば、君は異世界だ。活躍を期待しているよ」
善は急げだ。もし夢なら、ここでまごまごしているうちに覚めてしまうかもしれない。それは面白くない。
正義は立ち上がると、その扉の前まで歩いていく。
ゆっくりと、勝手に扉が開いていく。
「ところで、俺にはあんたの信徒としてどんな力が与えられるの?」
ふと、それを聞いていなかったことに気づいて正義は問う。
「よくぞ聞いてくれた! とりあえず言葉には問題がないように調節してあげよう」
「ああ、そうか、それがないとどうしようもないものな。他には」
「他には、ない。私は今、力がないからね」
「え」
じゃあ、着の身着のまま異世界に放り出されるのか?
一気に正義は不安になる。
「ちょっと待」
言いかけたところで、扉が完全に開き、その向こうからの強い光に包まれて正義の意識が薄れていく。
最後に、意識が消える寸前に思う。
騙された。
「何だてめぇは」
気がつけば荒野だ。
スウェット姿のまま、正義は荒野に立ち尽くしている。
それはいい。それだけならまだいい。たった一人、荒野に立ち尽くしているなら、まだ驚きはするものの、落ち着く時間もある、が。
「てめぇ、どこのどいつだ?」
呆然と、荒野にいる自分以外の三人組を、正義は見つめる。
狼の頭をした、二足歩行の人間。獣人、とでも言えばいいのか。全身は毛におおわれているし爪も牙もあるが、腰には布を巻いている。それが、三人。
全員、剣やこん棒といった武器を持って、こちらを見ている。向こうからすれば、突然、正義が現れたように見えるのだろう。
「こいつ、ひょっとして城の……」
「落ち着けよ、剣だって持ってねえし、それにこいつの髪と目、見ろよ」
「黒? ああ、ノライの人間じゃねえな。なるほど、俺達と同じ移民ってわけだ。どこのもんだ?」
一人が、狼の顔に笑みを浮かべて、近づいてくる。
ああ、助かった。友好的だ。
安心して正義も笑みを浮かべたところで、
衝撃。
全身から勝手に力が抜けて、その場に倒れる。頭の中で巨大な鐘が鳴っているような音がする。耳鳴り。世界が溶けていく。
こん棒で頭を殴られたのだ、と気づいたのは地面に転がってからだ。
「おい、身代金でもとらないのか?」
「移民だろ、大した金にならねえよ。どのみち、ここで逃がして俺達のことを喋られても困る」
「それより、そろそろ情報では来るんじゃねえか、馬車が」
「今度こそ、大当たりなんだろうな? 最近、ランゴウの奴の要求が厳しいんだ」
「なあ、やっぱり俺達もどっかでかいとこに入った方がいいんじゃねえか? そうしたら、ランゴウも……」
「あがり取る奴がランゴウから別の奴に変わるだけだろ」
回る視界の隅、一人が剣を片手に傍らにしゃがみ込み、剣を振り上げるのが見える。
終わりか、これで? 冗談じゃあない。
正義は口の中を噛んでぼやけている意識を無理矢理に覚醒させる。
修羅場には、これまで何度も遭遇した。そのためか、絶体絶命のこの状況下でも不思議と正義は冷静だ。
落ち着け、情報をかき集めろ、推理しろ、かまをかけろ、とにかく自分の破滅を引き延ばせ。いつだって、やってきたことだ。ペテン師と呼ばれて、嫌がられてきたじゃないか。
交渉の基本その1。
相手がこちらの話を聞く気さえない場合、はったりでもいいからとにかく相手にとって興味のある事柄を話して、まずはこちらの話に耳を傾けさせろ。
後で嘘だったと分かっても構わない。とにかく、話を聞いてもらわなければ何も始まらない。相手に、話を聞くことが少しでも利益になると思わせれば第一関門突破だ。
「おいおい、酷いな」
不自然なくらいに軽く、落ち着いた声で正義は言う。
剣を振り下ろそうとしていた一人が、動きを止める。
「あん?」
「俺は、あんたらに用があって来たんだよ、それなのにこの扱いか?」
「用だと? 何の用だよ」
別の一人が言う。
喋っている間に、正義は三人の姿、状況、そして会話内容から情報を推測、組み合わせ、そして整理している。
こいつらは犯罪者だ。おそらく、山賊、盗賊の類。そして、どうやらこいつらにはこいつらなりのネットワークや上下関係があるらしい。
「俺は使いだよ。うちの頭があんたらに話があるからってさ、それを、酷いな、全く」
「何だと?」
無法者三人は顔を見合わせて、
「誰の使いだ?」
ここで、さっき出てきたランゴウという人名をそのまま使うつもりは正義にはない。
ランゴウとこの三人はそれなりに近いようだから、自分が嘘をついていると即座にバレるというのが一つ。もう一つは、この三人がランゴウにそこまで好感を持っていないようだからだ。
「ええと、くそっ、あんたが思いきり頭叩いたせいで、ああくそ、マジかよ、頭の名前忘れちまった。ええと、ギ、ギ……」
交渉の基本その2。
自分の状況は弁解に利用しろ。相手に落ち度があるのなら、なおさら。
頭を殴られたせいで記憶が混乱している、という状況にしてしまえば、曖昧な言葉の弁解にもなるし、自分が殴ったせいだ、という無意識の負い目があるから相手は深く突っ込んでこれない。
「ギ?」
「あー、いや、ギ、ゲー……」
「グスタフの親分か?」
「ああ、グスタフ、そうだったっけ、グスタフ? ああ、頭痛いな、まったく。そうかも、グスタフ」
三人が顔を見合わせる。
「グスタフの親分の使いかよ。悪かったな、ぶん殴って」
一人が、正義を引き起こす。
「それで、グスタフの親分が一体何のようなんだよ?」
「え、ああ、いや、ちょっと待ってくれ」
首を回し、頭の混乱を覚ます振りをしながら、正義は必死で案を練る。三人の会話を思い出して、出す言葉を紡ぎあげる。まるでいつも仕事をしているみたいだ、と少し馬鹿馬鹿しくなってくる。
「そうだ。あんたら、城の連中に狙われてるらしいね」
交渉の基本その3。
嘘がうまく通った時は、その嘘を疑われる前に相手にとって衝撃的な話を持ちかけて、前提が嘘かどうかから話の焦点を移す。
「ん、ああ、まあ、そりゃそうだが」
「近々、囮を使ってあんたらを捕まえるつもりらしいよ? ひょっとしたら、今回のかも」
「何っ?」
「マジかよ」
無法者三人が騒ぎ始める。
「こうしちゃいられねえな。場所、移るか」
「だな、しばらく大人しくしておこうぜ……なあ、あんた」
「え?」
「で、どうしてグスタフの親分がわざわざ俺達にそれを教えてくれるんだ?」
「ああ、そのことね。あんたらに捕まったてもらったら困るんだよ、お頭は。実は、近々大仕事をするつもりで、あんたたちの力も借りたいみたいなんだよね」
「マジかよ」
今度は、嬉しそうに三人が囁き合う。
「あのグスタフの親分に」
「一緒に仕事ができるのか。こりゃ、大儲けできそうだぜ」
「そういうわけだからさ」
ゆっくりと正義は三人組から距離をとろうとするが、
「ああ、その、あんた」
男の一人に声をかけられ、心臓が縮み上がる。
だが、その男は、金貨を一枚差し出してくる。
「その悪かったな。あんたを間違えて殴っちまったことは、グスタフの親分には内緒に……」
「もちろんだよ」
内心の動揺を覆い隠し、正義はにっこり笑ってその金貨を受け取る。
「ところで、ぶん殴られたせいで方向感覚分からなくなっちまったよ。どっちだっけ?」
あえて固有名詞を出さず、正義は冗談めかして質問する。
「がはは、ちょっと勘弁してくれよ。トリョラは、こっちにまっすぐだ」
「はは、だったな。じゃあ、この一枚で、酒でも飲ませてもらうよ」
金貨を手に持ちにやりと笑って、正義は無法者が指示した方向へとゆっくりと歩き出す。
助かった。
心臓はばくばくと音を立てて、背中には冷や汗をかいている。それを悟られないように、なるべくゆっくりと余裕を持って歩き続ける。