表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

世界で一番だれよりも

 懐かしいCMだったので油断した。もう随分と見なくなっていたから、てっきり終了したものと安心していた。マンションの遠景と助けを呼ぶ女性の声が流れる。あ、マズいな。そう思った時には手遅れだった。僕の後ろで鈴が短い叫び声を上げ、そのまま浴室へと足音を響かせて消えた。僕は後を追う。

「出ておいでよ」

 僕の声に反応は無い。扉を開けると、浴槽の縁に腰を下ろした鈴がまっすぐ僕を見ていた。怯えたようでもあり、睨むようでもあった。隣に腰掛けようとしたら尻を平手で打たれた。隣は諦めて、浴室と廊下の仕切り部分に腰掛けた。

「わざとだろ。忘れてたのに」

「違うよ。僕だって忘れてたんだ。偶然だよ」

 鈴の視線が外れる。僕の体を流れ落ちていき、鈴の足元で止まった。頬は薄く染まっている。瞳は潤んでいる。彼女のしゅんとした様子が見ていられなくなって、口を開いた。

「鈴だけじゃないって。そういう人」

 慰めたつもりだったが通じなかった。鈴は素早く立ち上がって右足を胸元まで抱え込み、膝のスナップを使って素早く蹴りを放った。足の先端が鼻先で止まる。僕は驚いて後ろにひっくり返った。鈴は「ぼけ」とだけ呟くと戸を閉めて再び篭城してしまった。開けようとしてもロックが掛けられている。扉越しに辛抱強く励ましたり謝ったりしたが効果は無いようだった。暫くすると、扉が半分だけ開いてぽいぽいと鈴のシャツやジーンズやパンツやブラが放り出されてきた。続いてシャワーの水音が聞こえてくる。僕は諦めて冷蔵庫から缶ビールを取り出し、足拭きマットの上に座り込み戸に背を預けてちびちび始めた。しばらくそうしていたら、シャワーが止まった。滴の垂れる音だけが聞こえてくる。

「ねえ」

「うわっ、お前まだいたのか。おどかすな」

 反響した声が聞こえた。扉が小突かれて、僕の背に衝撃が伝わる。入浴中の鈴は安心しきっていて、時々よく分からない鼻歌を歌っていたりもする。こういう時に急に声を掛けたりすると怒る。

「ごめんごめん」

「あたしの服、せんたっき入れといたよな」

「もちろん」

 廊下に脱ぎ散らかされた衣類を拾い上げながら言った。下着はまとめて洗濯機に投げ込んだが外れた。まだ温かかった。

「ねえ、鈴。分かってると思うけど、鈴は明日も仕事なんだから、あんまり長湯しないでよ」

「そうか。おやすみ」

 会話が途切れる。でもシャワーは止まったままで、浴室からは水滴の音が微かに聞こえるだけだった。僕はさっきと同じ場所に座り込む。缶を一気に傾けて半分まで飲み込んだ。炊飯器の液晶画面には十一時と表示されていた。

「どうした? 溜息なんかついて、失恋か?」

「似たようなものだよ。遠距離恋愛なんだ。扉一枚隔てた所にいる困った子でさ。ゴキブリでも放り込めば出てくるんだろうけど」

「そうか。それは困ったちゃんだな」

 蛇口を捻る音が聞こえたかと思うと、僕の腰辺りに液体が掛かった。扉下方の隙間から勢い良くお湯が流れ出してきた。

「ちょっと、鈴!」

「ゴキブリは関係ないだろ! アホか!」

 お湯は水に変わり、足拭きマットの吸水能力を凌ぐ勢いで流れ出している。フローリングの廊下を流れて広がっていく。

 もう随分前の出来事だけど、ゴキブリを冷蔵庫下に追い詰めた鈴が、床との隙間に殺虫剤を噴射したら、いぶり出された数匹に飛び掛かられたことがあった。足を這い上ったり顔に飛び付いたりと散々だった。鈴はパニックになって電話機に飛び付き、何故か110番通報して「大変だ! すぐ来てくれ!」と叫んだ。その騒動の数ヶ月後に例のCMが流れ始め、それを見た鈴は絶句してしばらく動かなくなった。

 鈴はそのことを未だに気にしているらしい。どうしたものかと思ったが、とにかく対話を試みることにした。水はリビングに向かっている。手近の布巾を掻き集めながら説得を始める。

「鈴、悪かったよ。もうしない。もうからかわないし、鈴がいる時はテレビも点けない。モラルがどうなんて、鈴のことを知らない奴に言わせたりしない。君のことをもっと大事にするよ」

 本心だった。僕にはそういう人の気持ちが想像出来て、批判する気にはなれなかった。車窓から見た富士山に心引かれてそのまま登ってしまい救助されたり、鈴みたいにお馬鹿な通報をして怒られるのも、あっていいんじゃないかと思う。味方になって笑い飛ばしてあげたいと思う。そういう人が落ち込んでしまうのは見たくなかった。人生なんてこんなもんさと、間接的に認めてしまっているような気がして嫌だった。

 水が止まった。扉が半分開いて鈴が顔を出す。笑っている。悪事を企てる少年のような、夢と希望で一杯の、僕の大好きな笑顔だった。

「それは困るな。水曜の七時からは所さんを見たいんだが」

 僕は噴き出した。声に出して笑う。髪から水が滴っているが、今更だろう。鈴は満足そうに浴室に引っ込み、またシャワーを浴び始めた。背に隠した鈴のブラジャーは妙にふかふかしていて水をよく吸った。軽くほろって洗濯機に落とした。

 僕は歯を磨いてベッドの隣に座布団を並べて横になった。固くて、少しかび臭い。開けたままの窓からはコオロギの鳴く音が聞こえてくる。風はないが、それほど暑くはない。盆過ぎの八月は夏と秋が混在していた。僕は目を閉じる。虫の鳴声と、二階の住人の物音と、隣の部屋のテレビの音と、鈴の立てる水音が重なって耳に届く。眠くなってきた。体中から力が抜け出て座布団に染みていくようだった。何処からか、よく分からない鼻歌が聞こえてくる。誰かが僕のために子守唄を歌ってくれているのかも知れない。


         *


 これにするよー、と小毬さん。

 翌日はよく晴れて、中古車売り場はアスファルトの照り返しで暑かった。僕は長袖を着てきたことを後悔した。しばらく前に鈴が買ってきた綿のパーカーで、今日まで一度も着たことがなかった。今朝は涼しかったのだけど、午前中でも日が照り出すとまるで変わる。

 僕達は鈴の運転でここまでやって来た。国道を一本逸れた所にある中古屋で、この地域では一番大きい。本当は三人で来る予定だったが、鈴がバイトのシフト交代を頼まれてしまっていたせいで、結局小毬さんを拾って送り届けただけになった。

 声のする方を見ると、小毬さんの傍らにブルーのセダンがあった。どれどれと近付く。少々大きいかなとも思ったけど、鈴から小毬さんの意思を尊重するようにと念を押されているので言わなかった。しかし、どうも様子がおかしかった。

「これにするの?」

「うん。これにするよ。丸いライトがチャーミング。綺麗な青色で素敵だね」

 小毬さんはにこにこ顔で僕に車の感想を並べ立てる。興奮しているようだ。初めての車選びとはそんなものなのかも知れない。鈴の場合は違ったけど。値札を見ると、車検なし四十万円とあった。

「スバルブルーって言うんですよ。いやぁ、これに目を付けるなんて。こう言っては何ですけど、この手の車を選ばれる女性はまずいらっしゃらないので」

 中古車ディーラーは小毬さんの横で車の説明を始める。エンジンがどうだの、車体構成がどうだのと、僕には分からない世界の話を続けた。小毬さんは時々、へーとかすごいなーなんて適当な相槌を打っていた。絶対分かっていないだろうなと思った。ディーラーは話し続ける。

「しかし失礼ですが、オートマ車以外の運転は……あぁ、お祖父様の車で、なるほど、それなら平気ですね。慣れたので普通車にステップアップをしようという訳ですね。え? あぁ、それは何とご立派な。うちの娘にも見習わせたいものです。若い人はそういうのを面倒臭がる人が多いですからね」

「小毬さん、この車、よく見てみなよ」

 ディーラーの長話を遮って小毬さんを傍に呼び寄せた。

「うん? どうかしたの?」

「ホイールが金ピカだよ。凄く派手だよ。それにトランクの上、羽が付いてるよ」

「あっ、本当だ! すごい、飛んじゃいそうだね」

「まぁ、飛ぶかは分からないけどね。これはきっと、えっと、小毬さんが乗るような車じゃないんじゃないかな。大体これ、マニュアルじゃないか。もっと他に良いのがあるよ。そう、向こうに可愛い軽自動車があったよ。あれなんか……」

 小毬さんはうーんと唸るだけで青い車から視線を外さない。屈んで金色ホイールを覗き込む。指先で表面をなぞる。見ると、ミニスカートから白い腿が露出していた。僕は目を逸らし、車内を覗き込む。車体色と同じブルーの座席があった。価格の割には中も外も綺麗だと思った。

「私も一通り見たけど、普通車ではこれが一番安いんだよ」

 小毬さんは車の感想を更に続ける。良い部分だけを列挙する。これなら高速道路も楽そうだねとか、四角いライトは好きじゃないとか、終いには惚れたが最後なんて言って笑った。悩んでいる振りをして、実は心は決まっているらしかった。

 僕にはどうして小毬さんがこんなスポーツカーに興味を示すのか謎だった。高速道路を快適に走行したい為だと本人は言うが、それだけの理由とは思えない。何が原因なのかとあれこれ考えていくと、最後にはやはり鈴の姿が浮かぶ。やれやれ、と思う。どうもそういったムーブメントがあるように思えてならなかった。多分小毬さんの頭の中では、青いスポーツカーに乗って登場する自分の姿が何度も繰り返されている筈だ。その時に示されるだろう皆の反応と、それに対する応答もイメージされているのかも知れない。えへへー、買っちゃったー、とか。

 知らぬまに頬が緩んでいた。そういうのって嫌いじゃない。

「でも、車検切れてるんだよ。あれって結構するんだよね? 走行距離もだいぶいってるし、それに燃費とか保険も考えたら」

「あ、そうだ! ゆいちゃんから中古車選びのチェックリストを作ってもらったんだった! これだけは必ず確認しなきゃいけないんだって」

 小毬さんはポケットから封筒を取り出し、中から折りたたまれた便箋を出した。

「へぇ。どんなのだろうな。でもあの人のことだからきっと……」

「あのー、すみません。この車って、カーセックスの時に頭をぶつけたりはしませんか……って、あれ?」


         *


「あの時のディーラーの顔を見せてあげたかったよ」

 鈴の肩が上下するのが分かった。視線はサイドガラスの向こうの山並みに向けられているが、笑いを堪えているようだった。車は急カーブに差し掛かったが、脇見運転の鈴は五速のまま入ったので、減速すると車体の下の方から振動が伝わってきた。

 最近では日が短くなり、もう太陽が沈み始めている。夕日は綺麗なオレンジ色をしていて、がらがらの田んぼ道を通り過ぎていくと、明日なんて来ないんじゃないかと思えてくる。お金のこととか、仕事のこととか、何も気にならなくなってしまう。ずっとずっとこの道を夕日を浴びながら走っていき、鈴と色々なことを話す。今日起こった話が終わったら、昨日の話をしてもいいし、リトルバスターズのみんなの話になってもいい。僕達が出会う以前の話でもいい。そんな錯覚に陥る。

 いつの間にか降った通り雨で路面は濡れていて、サイドミラーの縁に溜まった水が踊るように揺れていた。風が吹くと、稲穂が順番に揺れるので通り道が見えるようだった。道は雑木林の中へと続き、辺り一面が蜩の声に包まれていた。荒れた路面に散らばる石ころをタイヤが踏んで、車内に音を響かせる。やがて道は県道にぶつかり、鈴はトラックを一台やり過ごしてから進入した。

「結局買うのか?」

 しばらくして鈴が言った。僕は車窓に気を取られていて、何のことか気付くのに遅れた。

「どうかな。維持費が高いらしいから、多分無理じゃないかな。本人は気に入ってたみたいだけどね。まったく、みんなして誰かさんに似てきちゃったみたいだね」

「恭介か?」

「まあね。楽しいことをしようなんて、単純そうに見えて、案外難しいんだよ」

 鈴が横目で僕を見た。不穏な空気を感じてこれ以上話題を掘り下げるのを止めた。また昨日みたいに騒がれては堪らない。

「でも、気持ちはすごく分かる。僕も同感だよ。大人になった今だからこそ、そういう気持ちって必要なんだと思う」

 ふん、と鈴は鼻を鳴らして前に向き直る。両手でハンドルの下の方を摘んで、真っ直ぐに続く道を巡航する。

 マツダ・ボンゴの座席は高く、見晴らしが良い。車体が箱型で見切りが良く、ミラーも大きいから運転がし易いそうだ。鈴は恭介のコネクションを使って、走行距離十万超えの元社用車を格安で買ってきた。僕が気付いた時には、全てが終了した後だった。僕の免許はAT限定だったから、送迎は鈴の仕事になった。座席を一番手前まで引いて、長いシフトレバーを器用に動かしながら、鈴は三列シートのワンボックスを上手に操る。

 胸が躍った、と鈴は言った。僕達の高校二年生の修学旅行、忘れることも出来ないが、何故かよく思い出せない出来事を経て遂に叶ったバスターズでの修学旅行。それに僕達を乗せていったのも、確かこんな形の車だった。鈴が暇潰しに寄ったツタヤで中古車情報誌を立ち読みしていて、紙面に同形状の車を見つけた時、夏の思い出が一気に押し寄せて来て、もう楽しいことしか思い付かないくらい夢中になってしまったそうだ。それからはあっという間だった。僕のアパートの駐車場に停まるボンゴを見せられた時は、ださい、とか、マニュアルじゃ僕乗れないじゃない、なんて思った。ダッシュボードの上を縫い包みで埋め尽くせとは言わないけど、もっと女の子らしい車があるんじゃないかと思った。せめて自家用自動車に乗って欲しかった。だが傍らで例の悪戯っ子の微笑を浮かべる鈴に気付いたら、もう何も言えなくなってしまった。僕はせめてもの抵抗として、バスターズの男連中を集めて、成型色のままの灰色バンパーを車体色に合わせて白く塗装した。真っ白になったボンゴは少しだけ引き締まって見えた。そして何処となく頬を膨らませたリスに似ていた。

「まぁ、鈴の所為でもあると思うけどね」

「うん? あたしが小毬ちゃんに何かしたのか?」

「左手が格好良いんだって」

「左手って何のことだ」

「あっ、見えたよ。セブンの先、赤い看板」

「あれか。よっ」

 鈴の動きに合わせて腕時計のベルトが鳴った。駐車場は狭かったが、鈴は空いたスペースを上手く利用して車体を切り返し、バックで停めた。

「これで出る時に楽だろ」

 店内に入ると、時間が早いせいか客の姿は疎らだった。厨房から店長らしき年配の男性がいらっしゃいませーと声を響かせる。がらがらだな、と後ろで鈴が呟く。続いて若い女の店員が現われ、長い廊下を先導して僕達を二人掛けの小さなテーブル席に案内した。向かい合わせで座る。鈴はボンゴのキーを見せつけるようにテーブル中央に置くと、お通しを断ってからメニューを片手に何点か注文した。

「個室、写真で見るより広かったな。あれならみんな入れるだろ」

 店員が去った後、鈴は指先でキーを弄りながら言った。キーホルダーのリングに人差し指を入れ、テーブルの上で回転させている。「筑波山」と印字された金色のプレートが照明を受けて光る。指を離すと、回転しながら木面を滑り僕の前で止まった。

「うん。次回はここで良いと思うよ。前みたいに豆腐ばっかり出されることもないだろうし」

「あれはすごかったな。思い出しただけで体が大豆臭くなる」

「豆腐じゃないのは杏仁豆腐ぐらいだったよね」

「ま、なかなか楽しめたけどな」

 鈴は頬杖をついた格好で何処か遠くに目をやっていた。僕がじっと見ていても気が付かないようで、ちょっと大人びた表情をしていた。と思ったのも束の間で、唇の端が持ち上がった。僕に見られているとも知らずにやにやしていて、きっと大豆臭くなっているんだろう。幸せな空想に浸って間抜け面を晒していた鈴は、二本の瓶を運んできた店員の声にひどく驚かされていた。

「どーぞどーぞ。安い給料でいつもご苦労様です」

「鈴こそ、休日出勤お疲れ様」

 そしてぐいっと一杯。ジョッキと違って、小さなグラスは直ぐ空になる。ペースが分からなくなるから注意しなくちゃいけないのだけど、鈴は腕を真っ直ぐ突き出してお代わりを要求してくる。言われるがままに注ぐ。さっきより泡が多くなった。

「今日は飲むね」

「たまには酔っ払いたい。それに、今日は理樹と二人きりだから安心だ」

「なにそれ。僕だって男なんだけどな」

 冗談で言ってみる。鈴の反応が見たかった。だけど全く意に介さない様子で、むしろお前が気を付けろなんて言われて、僕は少しどきりとする。

 しばらくして料理が揃った。鈴の頼んだものは軟骨揚げとシーザーサラダと一口餃子だった。もう少し何か注文したかったけど、財布の中身の事を思い出して止めた。中古屋からのタクシー代を払ってしまったからあまり余裕が無かった。グラスの残りを一息に飲み干すと、それまでサラダのコーンだけを探して食べるのに夢中になっていた鈴がさっと瓶を掴み突きつけてくる。否応なしに注がれる。鈴の中瓶より一回り小振りな僕の瓶は直ぐ空になった。鈴はすかさず店員を呼んでお代わりを頼む。鈴のグラスが再び空になった頃に新しい瓶がやって来た。全てが計算し尽されているかのようだった。突きつけられた瓶の首にグラスの縁を触れさせ、しばし待つ。僕のグラスが一杯になると、今度は鈴のグラスにビールを注いだ。

「小毬ちゃんのインプレッサだが……」

「インプレッサ? ああ、あの青いのね。どうして鈴が知ってるのさ」

「実は休憩中に小毬ちゃんに電話を掛けたんだ。理樹だけでは頼りないからな。シフトが狂わなきゃあたしが立ち会ったんだが」

「ガールズネットワークは凄いね」

「色々調べてみたんだ。小毬ちゃんの言うように、気に入ったのに乗るのが正解だとは思う。いくら馬力が凄くたって、踏み込まなければスピードは出ない。葉留佳のエスエスみたいに天国までワープしそうになったりはしない。車とバイクじゃ重さが違うからな。だから、決して乗れないわけじゃないんだ。その点は心配要らないと思う」

 鈴の頬は赤く染まっていた。酒が回りつつあるようだった。僕はノンアルコールビールを一口含んで、続きを待った。

「けどな、やっぱり最初はもっと無難な車がいいかも知れないな。安く買えても、後から故障してお金を取られたら勿体無いし、なにより事故が恐い。あたしは小毬ちゃんに、格好いいとか悪いとか、そんな理由で恐い目に遭って欲しくない」

 鈴の声のトーンが下がる。僕は明るい方に会話の舵を切る。

「鈴は優しいね。そういう所、好きだよ」

「茶化すな。大事なことなんだ」

 テーブルの下で脛を蹴られた。あまり痛くなかったけど。これでは酔っているのは僕の方みたいだ。蹴られついでに冗談を続けてみる。

「でも、鈴は優しいよ。特に小毬さんに対してはね。二人の仲むつまじい関係を見てると、何だか妬けてくるよ」

 鈴の目を見る。二つの瞳の奥を覗き込む。勝ち負けの無い睨めっこが続く。やがて鈴は視線を落として、グラスに残ったビール飲み干し、空になったグラスを僕の鼻先に差し出した。注ぐと、中瓶は空になった。店員を呼ぶ。

「お前、酔ってるのか? いやに口説いてくるな」

「言う時は言うよ」

「ゴキブリが出たくらいでお巡りさんを呼ぶような女でもか? 何の相談も無しに、彼氏が法律的に運転できない車を買ってくる女でもか?」

「昨日も言ったけどさ、鈴はそれでいいんだよ。それに法の壁なんて、きちんとした手続きを踏めば超えられるよ」

 鈴が僕を見る。さっきと逆で、鈴が僕の目の奥にまで視線を這わせる。僕の目の中に忘れ物でもしてきたみたいに、執拗にじっと見る。何故だか緊張した。

「その目は嫌らしい雄の目だ。彼女に酒を盛って何かしようと企んでいる。全く酷いやつだな、理樹は」

 店員が来たのでお代わりを頼む。今度は若い男の店員だった。まだ学生なのかも知れない。おいくつですかと鈴が唐突に質問すると、彼は内緒ですと答えて笑った。その笑いを遮るようにポテトフライを追加注文した。

「かっこよかったな」

「え?」

 驚いて鈴を見ると、鈴も驚いた顔になって僕を見た。

「すまん、悪かった。そんなに怒るな。冗談だ」

「いやいや、別に怒ってなんかいないよ」

 慌てて否定する。一瞬すごい顔してたぞ、と鈴が言う。酔っているのは本当に僕の方かも知れない。しかし何に酔っているのだろう。素面の酒場というのは妙なもので、僕一人を残してみんなが飲んで騒いで酔っ払っていく。それに追い付こうとしているのだろうか。無意識に気を引こうとしているのだろうか。

「したいのか?」

 鈴が言う。言い終わると直ぐにテーブルに額を付けて動かなくなった。ポニーテールが机上に垂れる。耳が赤く染まっているのが見えた。死にたいのか、の聞き間違いかとも思ったけど、違うらしかった。どう答えるべきか迷っていると、鈴がそのままの格好でくぐもった声を出した。

「理樹、お前に良いことを教えてやる」

「なにさ」

 鈴が顔を上げる。頭を振って髪を直す。眠たそうな顔だった。頬は赤い。酔っているのだろう。

「例えるなら、そうだな。理樹のジョッキにはビールがなみなみ注いであるんだ。よく冷えてて、すごくうまそうだ。理樹はあたしに早く乾杯しようって言ってくるんだ。だけどな、あたしのジョッキはなんとキャベジンで一杯なんだ。一度飲んだことがあるが、あれは酷い。逆に吐くぞ、あれは。……理樹が乾杯したがってるから、あたしも応えてやりたい。でもあたしはそんな不味いの飲みたくないし、そもそもどうしてあたしだけそんなものを飲まなければならないのか納得ができない。だからいつも二の足を踏んでしまうし、時々断る。分かるか、理樹?」

 言い終わると、鈴は再び額をテーブルに付けた。僕は鈴の頭を見つめる。例の若い男性店員がやって来て二本目の中瓶を置いていった。

 しばらくそのままでいた。鈴は動かないし喋らない。僕も何も言わないでいた。中瓶の表面は水滴で一杯になっていた。何も起こらない空間に時間だけが過ぎていく。僕は鈴が起きるのを待っていた。

 寝てしまったのかと思った時、鈴が顔をあげた。赤い顔をして目は潤んでいる。視線は空中を漂っている。嫌な事を思い出してしまった、と独り言みたいに呟く。どんなことかと尋ねた。

「あのな、理樹。あのな。あたしな、前にな……」

 まるで何か合図でもあったみたいに、あっという間に鈴の両目が涙で一杯になった。今まで聞いた事もない声、微かに聞こえるだけの嗚咽が、音の隙間を縫って耳に届いた。溢れた滴が頬を伝ってテーブルに落ちた。鈴は何度もしゃくりあげる。ぎゅっと閉じられた瞼から、涙は次々と湧き出て滴り落ちていく。水溜りが出来上がる。目の前に僕がいるのを忘れてしまったかのように、鈴は一人で泣きじゃくっていた。心臓が止まるかと思った。冷たい両腕に鷲掴みにされたような嫌な感じがした。

「猫を轢いたんだ。アイルトンみたいな茶トラだった」

 鈴が僕を見る。今日一日で向けられた視線の中で最も悲しいものだった。鈴が猫を轢いた。それは全く的外れな、現実味の無い話だった。

「急に飛び出してきて、避けられなかった」

 途絶え途絶え状況が語られる。声は小さく、時々店員の声に遮られる。聞こえなくても僕は頷く。彼女の告白の聞き役に徹する。空のグラスに中瓶を傾け、ビールで満たす。濡れた瓶の水滴が僕の指先に伝わり、滴る。

「そっか」

 何処かで見たような光景だった。助けるべきだと思った。今までだってそうしてきた筈だ。鈴は時々おかしな事をするが、僕にはその理由が分かる。僕達はみんなそうだった。そうしなければならない何かが僕達の中にあって、常にある方向へ引っ張って連れて行こうとする。楽しい方へ、明るい方へと、僕達を強く引いて現実に立ち向かわせる。

 今日一日のことを思い出す。鈴がどんな気持ちで今日を過ごしたのかを考える。鈴はいつの間にこんなに優しい人になったのだろう。嬉しくもあり、寂しくもあった。僕達は年を取って、どんどん年を取って変わっていくのだ。

 挫けそうなことはあっても、何とか上手く折り合いを付けて生きていくしかない。けれど今回ばかりは、鈴にはそれが出来ない。仕方無いと思うことが出来ない。鈴は猫を轢いた自分が許せないから、僕が何とかするしかない。そうする以外になかった。僕が鈴を悲しませるものを遠ざけ、恐いものを見えない所に隠してしまう。お姫様が悪い夢を見ないように子守唄を聞かせる。僕達はそうやって生きていくのだ。

「鈴、それはね」

 ふと思考が止まる。言葉の続きが掻き消される。僕が言おうとした一言、差し伸べようとした手の行く先に気付いた瞬間、僕は何も言えなくなった。心拍数が上がり、額に汗が滲んだ。鈴を見ると、不安げに僕を見返している。鼻を啜り、涙を拭いながら、僕の言葉を待っているようだった。深呼吸する。

 猫の姿を想像する。アイルトンみたいな茶トラだと鈴は言った。鈴の足に纏わり付くのが好きで、やたらすばしっこかった奴だ。猫がアスファルトに打ち倒され、黒く見える血を周辺に滲ませている様子を想像する。通り過ぎる運転手に、死んだ生き物の姿を晒し続ける猫を思った。

 それでも、と僕は思う。

 口の中が乾いていた。鼓動が早くなっていた。身体がその一言を拒絶していた。僕の中の忘れられない想いが、それを許そうとしなかった。それでも僕は口を開いた。

「それは事故だよ。仕方無いんだよ」

 僕は鈴を悲しませたくはなかった。他の何よりも、彼女を好きという気持ちの方が上回るから、僕は手を差し伸べる。

「献杯しよう。けんぱい。死んだ人のためにお酒を飲むことだよ」

 自酌でグラスを満たす。一杯になったグラスをそっと上げる。鈴も倣う。ささやかな献杯は、居酒屋の空気の中に散らばって消えた。

 グラスを傾ける。ビールもどきが僕の喉を流れ落ちていく。飲み終わって一息つく。鈴も飲んだ。半分だけ飲んで、僕よりも長く、そしてとても悲しそうな顔で溜息をついた。白く細い指で濡れた目尻を拭う。手の甲でも拭う。拭い終わると僕を見てほんのちょっと頬を緩めた。ぎこちない笑顔ではあったが、今はそれで充分だと思った。

「なんだか、前よりもお前のことが好きになった気がする」

 言い終わると鈴は席を立った。ふらつく足取りで、トイレの方に歩いていく。しばらく戻らないだろうなと思った。入れ違いに店員がやって来て、ポテトフライを置いていった。僕は紙ナプキンで鈴の涙を拭った。小さな手では間に合わなかったものを片付け、鈴が戻ってくるのを待った。


         *


 外は寒いくらいで、月は雲に隠れていて見えなかった。鈴は助手席によじ上り、僕は運転席に腰掛ける。妙に傾斜したハンドルが僕の前にあった。営業マンが弁当を食べる時にテーブル代わりになるように、なんて鈴は言っていたけど本当だろうか。握ってみると、少し軟らかい。視点は高く、フロントガラスが近い。限定解除の教習で乗った車とは感覚がだいぶ違った。エンジンを掛ける。

「当てるんじゃないぞ。あたしの大事な愛車なんだからな」

「分かってるよ。あれ、なんかこれ、固いな……」

「因みに二速からでも動くぞ。あと早くライト点けろ」

 ヘッドライトが前を照らす。ボンゴは体を震わせながら発進した。鈴の時よりもよく揺れた。ウインカーの点滅が暗がりに色を添える。通りに車はなく、僕にいつでも来いと手招きしているかのようだった。アクセルを踏み、クラッチを当てる。エンジンが止まった。

 何が楽しいのか、鈴は僕の隣でけらけら笑ってばかりいた。僕の動作一つ一つに反応して笑っている。明らかに酔っ払っていた。その様子があんまり可愛かったから、信号待ちで唇の一つでも奪ってやろうと思ったけど、信号は青く輝くばかりで、なかなか車を停めてはくれなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ