ティア
「お前、そういえば名前は?」
彼はまた答えに間を置いた。言いつつ、首をひねる。
「あんまりちゃんとした奴はないよ。坊やって呼ばれてるから」
「竜族なら幼名があるはずだろ?」
「昔は本当になかったから、周りには坊って言われてたんだ。
お母さんは、僕の名前呼んだことなかったし。今のお父さんとお母さんは坊やって呼ぶし、弟は兄上って呼ぶし、周りの竜は必要ならそこの白いのって言えば大体通じるから」
「……お前それ、なんとも思わないのか?」
「何が?」
「何って。悔しいとか、悲しいとか、怒ったりとかさ。テュフォンが可愛がっているって噂は嘘だったのか? お前に何の特徴もないって言い聞かせてるのと一緒なんだ、名前で呼ばないって言うことは」
少年はなぜかひどく怒っているようだった。彼は少しその態度に戸惑いながらゆっくり答える。
「だったら、ぼくは何者でもない、それであってるんだと思うよ。よく言われるもん、周りの竜にもさ。お前には体の色以外、これといった取り柄がない。テュフォンに合うような名前がつけられないって。
でも、生きていられるだけましだし、家族だって言ってるよ。ぼくは生きている、それだけでいいんだって」
「そんな風に言われて何も感じないのか、お前。お前のされていることは生殺しと一緒だ。生きているだけでいいだと、ばかばかしい! そんなことがあるものか――」
彼は憤慨しているらしい少年にあっけにとられながら、そのまましばらく考え、やがて十分な間の後。
「……よくわかんない、いろいろ。でも、おいしいものいっぱい食べさせてもらえるし、いいかなって」
「お前ってやつは……いっそ羨ましい鈍感さだな」
少年はもはや呆れるを通り越して感心しているらしい。
彼はどうしたことか、少年と話していると、まるで弟が乗り移ったかのように、普段よりも饒舌になった。
もっと知りたい。
彼の中に芽生えた好奇心が、彼に次から次へと言葉を紡がせる。
「羨ましいなんて、初めて言われたけど」
「そうか? 考えなしに生きられるなんて最高だ。馬鹿の方がこの世は生きやすいと思うよ」
「君は、頭良さそうだものね。だから大変なの?」
「ふん、その通りだ。賢すぎて気持ち悪いってさ。よく言われるよ」
「わああ……本当にすごいなあ」
彼は素直に感心した。感嘆の相槌に、何度目かのため息が返ってくる。
「ねえ。そういえば、君はいくつ? 僕の方が上だよね。僕、確かこの間200を越えたんだ」
「つい最近初立ちの儀を迎えたばかりだから、私は100くらい。確かに私の方が年下みたいだな」
「えっ、嘘。初立ちの儀?」
「こんなことで嘘ついてどうするんだ。早熟なんだよ、私は」
「……そーじゅく」
「育ちが早いってこと」
「へえ、そっか……」
納得はしたが、思わず彼は振り返って再び彼を観察せざるを得なかった。
初立ちの儀とは、魔人が物心がついたくらいに行われる儀式だ。(弟曰く。そんなことを前に言っていた気がする。)
確かに、彼より華奢で小さな姿かたちや体型からしてそのくらいなのだろうが、喋り方といい態度といい、とてもそうは見えない。
成人した時に行う儀式らしい、元服の方が近いのではないかと思えるくらいだった。
「じゃ、僕の方が結構上なんだ」
「高々100年くらいだろ。些細な差だ。大体お前の方がむしろ、つい最近初立ちしたばっかって顔じゃないか」
「でも、僕の方がお兄さんなんだ。そっか」
いかにもうれしくてたまらない、と言った感じの彼に少年は不機嫌そうな顔になる。
「なんだよ、何が言いたい。いや、それより、私はまだこっちを見ていいと言っていないぞ。ほら、向こうを向け」
「ええ。もういいでしょ?」
「嫌だね。ほら、さっさとしたらどうだ」
彼は釈然としない表情で、今度も指示に大人しく従った。すると彼が向こう側を向いてからすぐに、少年は声を上げた。
「しかしもったいないな。宝の持ちぐされ」
「なんのこと?」
「お前のこと。どうもテュフォン家当主以外、お前の周りの奴らは目が節穴らしいな。古の竜族も落ちぶれたってことかな」
「…………」
「あー、だから。お前、本当は、やればできる奴なんじゃないのかってこと」
彼がわからない、というサインを出すと、いちいち言い換えてくれる少年である。
「まさか」
「あのな。全く以て自覚がないようだから教えてやるが、そもそも私とこうやって普通に話せるってこと自体、お前がただものじゃないってことを表しているんだ。これでもあまり手加減していないんだぞ?」
「手加減って、何が? 君、喋ってるだけだよね?」
「……無意識ってのは恐ろしいものだな。なら、これは? 何とも思わないのか?」
彼が背後の身じろぎした気配を感じた途端に、空気が変わった。
彼は再び、肌がざわりと泡立つ感触を感じた。
不快な感じはしなかったが、少しだけ体が熱くなった気がした。
「すっごく、ざわざわする」
「ざわざわ? それだけか?」
「うん。なんか、ざわざわって、変な気持ち。痒いって言うか……うん、ざわざわ」
答え終わると、妙な感覚は失せた。探るような圧力は消えなかったが。
「解説してやると、常人なら今の空気には耐えられん。大抵失神する。弱い個体なら下手すりゃ即死だろうな」
「ざわざわで?」
「ざわざわで済まないんだよ、普通は。ていうか、なんなんだ、その変な擬態語は」
「……ぎたいご」
「ざわざわのことだよ」
「ざわざわは、えっと、ざわざわって?」
「……もうやめろ。本当に変な奴」
「ええー」
「いいから黙れ」
彼は割とこの言葉を繰り返すのが気に入っていたが、言われたので黙った。
しかし、気になったことがあったのですぐに口を開いた。
「ね、今の、なんだったの?」
「そのうちわかるさ。言葉にはしにくいけれど。ともかく、少なくともお前の打たれ強さが超人並みだってことはわかった。
……そこで首をかしげるな。けなされたら怒れ、褒められたら喜べ。今は喜ぶんだよ、ホラ」
「うーん、じゃあ、褒めてたんだ?」
「にしても、本当に頑丈な奴。それに、鈍いけど愚かではなさそうだ。もったいない、これだけの逸材を飼い殺しで終わらせるつもりか? 何者でもないだって? とんでもない、磨いてないだけだ。すごい原石じゃないか……」
少年は不意に考え込んで、ぶつぶつと低い声で何事か呟いている。
彼は大人しく少年が何か話しかけてくるのを待っていたが、やがて焦れてそちらの方を見た。
と、思いがけず彼が近くに立っていて、正面から顔を覗き込んできた。
今までで一番鳥肌が立ち、彼は全身をがくがくと揺さぶられるような感覚を覚えた。
「決めた。そうしよう」
「え、何が?」
「合格だよ。私はお前が気に入った。何者でもないお前を私が何者かにしてやろう。
――だからお前は、今日からティア。私のティアだ」
ぽかん、と彼は間近に迫った少年を見た。
「ティア? それって、僕の名前ってこと? 君がくれるの?」
「そう。大いなる母竜、ティアマトの加護があるぞ」
「僕、男っぽい名前がいい。ティアマトは女の人だし、その名前、女の子のじゃないの?」
「生意気言うな。どうせ大人になったら立派な名前をもらうんだ。子どものうちは可愛いくらいでちょうどいいんだよ。それに、今のところお前が誇れるのなんて、その可愛い顔くらいだろ? ぴったりだよ」
少年はくすくすと笑う。彼は頬を膨らませた。
「そういえば、そういう君は、一体誰なの? 君の名前、聞いてなかった」
「なんだ、本当に何も聞いてなかったんだな。それに、今の今まで私がだれかわからなかったと?」
「……ごめん」
「別にいいよ。――ううん、むしろ、それがいいんだ」
少年はいたずらっぽく微笑んだ。
思いがけず間近で弾けたその笑顔に、またも彼は目を見張る。
額と額をくっつけるようなところまで、顔を近づけて、少年は歌うように囁いた。
「では名乗ろうか。しかと聞け。父はゼブル、母はエバ。そして我が名は、リリアナ。リリアナ=デビ=サタン」
彼は驚きで目を見開いた。普段は鈍い思考が、このときだけは光のように素早く情報を整理した。
テュフォンのところに引き取られてから少ししたころ、竜たちの間にこんなうわさが飛び交った。
年老いた魔王が、ついに子どもを授かったらしい。
王は彼女を大層溺愛していて、本当に信頼する相手以外には会わせようとしないため、赤子の詳細は分からない。
ただ、謁見を許された者たちの話によると、生まれたのは姫であること、そしてまばゆい金色の髪をしている、と――。
さらに、サタンは何を隠そう魔界を平定した男、今の魔王の父親の名前だ。その子孫たち、つまり王族だけが姓にサタンを名乗ることが許されている。
この少年――いや、この少女は。
「そう、私こそが当代魔王の第一王女にして、その一人娘のリリアナ。
深窓の姫君がこんなのでがっかりしたか? 私は女の子の格好をするのが嫌いなんだ。
そんなことより、これでお前は今日から私のお気に入りだ。もう誰にも白いのなんて適当なあだ名で呼ばせるなよ。お前はティア。――私の子竜!」
心底嬉しそうに言うその顔は、子供らしく無邪気であどけなく、しかしどこかぞっとするような妖艶さをにじませていた。
私の子竜と呼ばれたその瞬間、彼の中にその言葉がすとん、と落ちて浸透した。
そう、この時から、ずっと。
彼は彼女の子竜になった。