幼き献身 前編
ティアに組みついたナイトメアはぼろきれをまとった細身の少女だった。
見た目からはとても想像できないような重たい一撃を振り下ろし、鎌状に変形させた両腕のままティアに組みついて離れない。
本能的な警報が頭の中で鳴り響き、身体中がより一層警戒する。
「おおくころすのは、よくありません」
思わぬ相手の怪力に顔をしかめたまま防御を続けるティアに向かって、ぽつりと少女がささやくように喋った。その唇はほとんど動かず、か細く抑揚のない声は注意していないとすぐ聞き落としてしまいそうになる。
「ひとは、じんがいに、きびしい。だから、おおく、ころしすぎては、いけません。しんそさまは、そう、おっしゃいます」
少女の舌捌きはどこかつたない。幼子が覚えたての言葉を一生懸命繰っている、そんな風にも聞こえる。
ティアは相手をにらんだ。少女は整った無表情のまま伏せるように視線を下ろしていたが、それがゆっくりと上がってきて、やがて虹色の不気味な瞳が輝く。
「でも、ごめんなさい。ななは、パパのものだから。パパが、そうしたいって、いうのなら。ぎゃくさつします、ごめんなさい」
ティアは突き飛ばすようにして組みつきを振り払った。
高く飛んだ少女は何度か壁と床に手足を突いて飛び跳ね、その勢いを生かしたままリリエンタールの方に向かおうとする。
詠唱の邪魔をさせないため、ティアはぐんと身を伸ばして彼女の足首を掴んだ。
力任せに引っ張ろうとすると少女の身体がぐにゃりと歪み、変形する。
半透明の触腕が黒龍の首に音を立てて巻き付き、カントラシアの枷の内部に侵入してそのまま絞め上げ始める。
ティアは動きを止め、片手は少女型のナイトメアの一部をつかみつつ、もう片方の手で首元を庇った。
「どいて。ななは、ななは。パパのところにいく――いく、いく、ぜったいいく。パパがよんでるんだから」
無機質な声が同じ調子で言葉を繰り返すと得体のしれない気持ち悪さが増す。触腕に込められている力も尋常ではない。夢魔はなよなよしたイメージがあったが、こんなパワータイプの戦い方もできるのか。
そういえば、リリエンタールの詠唱がいつの間にか聞こえなくなっている。まさか、と動かしにくい身体を無理矢理わずか回転させ、視線をさまよわせる。
見つけた赤薔薇騎士は倒れているわけではなく、紡いでいる包囲陣もまだ消えていない。顔がこちらを向いていないので表情は確認できないが、素早い動きで空中に呪印を切っている様からして、無音詠唱に切り替えたのか。
ならばこの方針のまま、自分はこの新手を受け止め、邪魔をさせてはならないと心得る。
「何をしている」
硬直状態の中、一人悠々と見物に興じるエデルが声を上げた。先ほどまでのからかうような調子のものとも、不機嫌そうだった時のものとも全く異なる。
自分がかけられてもいないのに、背筋がぶわっと逆立ったのをティアは感じた。
少女に話しかけるエデルの言葉は一つ一つが冷たい刃のようで、鋭く相手を斬りつける。
「知っているな。僕は勝手な事をする奴が大嫌いだ。言葉なんてどこで覚えてきた」
ティアを倒そうとしている少女の眼がぐらりと揺れ、虹色が忙しなく発光した。
およそ感情と言うものがない印象に見えていたが、この動揺はわかりやすい。
「ごめんなさい、パパ……でも、ななは、パパとおはなしがしたくて――」
無機質な声がどこか甘えているような調子を帯びる。至近距離で少女を見ているティアは、ぞくぞくと腹の底から何かがせりあがってきそうになる感覚を堪えていた。
だがエデルはその言葉を聞いた瞬間、明らかにさらに機嫌を損ねたらしい。喋る言葉は荒くなり、封じ込めの術を強化しているリリエンタールの緊張が強まった気配がする。
「うるさいな、何度言わせれば済む。お前は僕の言う事を聞いてさえいればいいんだ、余計な事をするな。それになんだその単語は、いっちょまえに名乗りのつもりか、え? 僕がお前に名前をやらないのは必要ないからだが? くれないなら自分で名乗るってか?」
「パパ、ちがうの……ななは、ななは、パパ――」
ティアは注意がそれた隙に一瞬だけ首から手を離し、捉えたままの相手を薙ぎ払う。肉が引き裂かれる音とともに辺りに青い血しぶきが散り、少女の顔が強張る。
「じゃま、しないでよ、いじわる」
しかし何と言うすさまじい執念だろう。
胴体を半分ほど切り裂かれても、ティアの首の拘束を離さず、一瞬後には先ほどより更に強い力を増そうとすらしている。慌ててもう一度首を防御しなければいけなくなった。
「やれ、愚図。僕を愛しているなら、忠誠を誓うと言うなら、示してみろ」
囚われの男がそう命じた瞬間、少女の目の色が変わった。
切り裂かれて散った肉片たちがうごめいたかと思うと、次の瞬間びちびちと音を立てながらティアに飛びかかってくる。
片手は首の対抗で、もう片手は触腕の中に飲み込まれ身動きが取れない。
腕と首だけでなく、脚、胴、頭にすら這う肉切れと無数の触手たちは、絞め落とすどころかもはや圧殺せんばかりの力でもって押し潰してこようとする。ぎしぎしとあちこちが嫌な音を立てた。
同時に、まだ人型を保っている頭部がぐっと接近して、ティアの顔をのぞき込む。あっと思う間もなく目が合い、まばたきすら不可能になってしまう。
ぶわっと、ティアの額から汗がふき出た。
違う。何かが違う。
――いや。
違わない?
視界がブラックアウトし、すべての光景が消えうせる。
瞬きすれば、そこは自分だけがぽつんと浮かぶ暗闇世界だ。視覚も聴覚も嗅覚も触覚ももちろん味覚も、不気味な程に消えうせた無刺激世界。
かと思えば次の瞬間に、異臭漂う旧区画で、脂汗を浮かべながら怪力勝負をしている。
幻覚攻撃だ、わかっている。
わかってはいるが、処理が追い付かないといったところか。
締め付けられる肉体を支える精神の中に、するりとねじ込んできた侵入者は、整っているがどこか人間じみていない、まるで人形のような少女の形を取り、暗闇の中に浮かぶティアに相対する。あちらが唇を開けば、耳の奥の奥、深い部分に直接ねじこまれるような不快な感覚とともにメッセージが伝達される。
「ななは、パパがすきなの」
まるで電撃でも浴びたかのような衝撃だった。
ティアは認識した時、悟った。なぜ明らかに危ういエデルの時よりもさらに、この個体に対して忌避反応を示したのかを。彼の深い部分がナイトメアの本心からの言葉に勝手に呼応する。
(ぼくは、リリアナの事が好きだよ)
エデルは、違う。そうはっきり言い切れる。つまりそう拒絶し、壁を作って防御するのが容易だ。
だがこの名無しのナイトメアは、違わない。同じだ。同じなのだ。
するとこうして、精神世界で浸食されてしまい、相手に余裕を与えてしまうことになる。
エデルは互いに壁を作ったまま攻撃してきていた。このナイトメアの精神攻撃はその逆だ。自分をさらけ出すことで、相手の壁も崩し、ぐしゃぐしゃにしてこようとする!
「パパのいうことなら、なんでもききます」
(リリアナの言う事なら、何でも聞くよ)
「パパののぞむことなら、なんでもする」
(リリアナの望むことなら、何だって叶えてあげるよ)
「ななはね、パパのためにうまれてきたの。ななにはね、パパしかいないの。ななはね、パパがいればいいの。ななにはね、パパがいたらいいの」
(ぼくはリリアナのために生まれてきたんだ。他には何もいらない――)
現実世界と暗闇世界が交互にやってくる。その間ずっと少女はティアに囁きかけ、ティアの心は無意識に応えてしまう。少女の呟きはティアが日ごろ無意識にでも抑えつけている欲求そのものだ。
ああ。痛いほど、わかる。その気持ちが。
これ以上聞いてはいけない。これ以上見てはいけない。主導権があちらに渡ってしまっている。わかっている。わかってはいるが、心の叫びをどうしようもない。誰でもない自分自身が、ティアを内側から責め立てる。
少女はこてんと首を傾げた。
「あなたも、ななといっしょ?」
(――ちがう、おれは)
ぐにゃん、と現実世界が歪む。しまったと思うが、足から引きずり込まれるような衝撃とともに黒の中に呑まれていく。誰かが笑っている。少女か? いや、少女はあの無機質で感情のない目で見つめている?
「あのね。ななは、もともと、そういういきものです。ナイトメアのこは、おやにぜったいふくじゅう。だけどね、なな、しってるよ。わかいりゅうぞくは、たじょうなのでしょう?」
闇。何も見えない闇のはずなのに、瞼の裏に虹色が走り、半月型の赤い口がぱくぱくと動いている。
少女はゆっくりと、とどめの言葉を紡いだ。
「あなたは――あなたも。ひとでなし、ですか」
……何かが決壊したような、感覚。暗闇の中から一斉に押し寄せたものにティアは巻き込まれ、沈んでいく。数多の誰かの囁き声。どこか聞き覚えのある――。
(白い竜だ)
(白いのは駄目だ)
(おかしいから)
(あっちへ行け、できそこない!)
水、いや、言葉の、記憶の波の中にどんどん沈んでいく。気が付けば身体は縮み、鱗は白い。違う、本物の白竜はもっと、と反論しようとした喉にまで快いとは言えない思い出の奔流は押し込み、言葉を、思考を奪っていこうとする。
(あいつはおかしい)
(何かが違う)
(脱皮して立派になったと思ったのに)
(兄上の変態)
(おかしいんだよ)
(竜として)
閉じ込めていた言葉が、今まで流していた言葉たちが、刃となって降り注ぐ。
(帰れ、ここは竜族の居場所じゃない!)
(まさか我々子羊が皆喜び勇んでお前を迎えているとでも?)
(――ヒトじゃないんだ。どれほど真似をしても)
手だ。いくつもの手が、指さす形を作ってみすぼらしい子竜を取り囲み、あっちへ行けとどこでもない方角を指さす。
(違う! 俺は、ぼくは――)
知っている。自分がどこに行っても、歓迎されない事を。生まれた時なんかまさにそうだった。
(父上様だって――結局あれは、罪滅ぼしだった。俺を通して、俺じゃない存在に償った)
脱皮して、立派になって、けれどその時彼らが望んだのは、こうあるべき竜。
(大人になって、いじめられなくなった。なんて素晴らしい竜だろう、皆言う。だけどもう少し知り合うと、がっかりする。俺が――立派な竜なのに、全然普通じゃないから)
小さな子竜は飲み込まれていきそうになる。
世界の無邪気な悪意に。普通のヒトの呟きに。
(そのまま、おちて)
囁き声はどこかで聞いた抑揚のない少女のものに似ている気がする。もはやそれを判別する思考も――。
突如、光が差した。眩しさに目を瞬いている子竜の前に、誰かが立ちはだかる。ぽかんと座り込みへたり込んでいる彼に向かって笑ったようだった。
「何しているの、お馬鹿さん」
まばゆい人物は逆光で見えない。その声を聴いた瞬間、世界が戻ってくる感覚がした。ときめきが止まらない。子竜はたまらず歓喜の声を上げたのだと思う。
「私はそれでいいって言ったのよ。私がそれがいいって言ったのよ。この私の言う事が聞けないってわけ? 生意気ね」
彼女が喋る度に耳が戻ってくる。彼女のかぐわしい香りで嗅覚が戻ってくる。彼女が撫でるたびに身体の輪郭が戻ってくる。不気味で不穏な幻の世界が、彼女の色、彼女の音、彼女の匂い、彼女の形で塗り替えられていく。
「ティア、ティア。何ものでもないお前に、誰が名前を与えたの? 私の、私だけの子竜。お前の価値はそれ以上でもそれ以下でもない、そうでしょう?」
甘やかな愛の言葉にうっとりと聞き惚れる子竜は瞼を上げた。ちょうど昔、自分の運命を受けたその時のように。
けれど愛しいヒトはなんと残酷な事にか、彼の目を覆ってしまったようなのだ。柔らかな感触が目の周りにあり、そのせいで相変わらず闇が晴れない。不満な声を漏らすと、彼女は遠くて近い場所で軽やかに笑う。
「まだよ。まだ私を見ては駄目。お前はいつか私のすべてを知って、手に入れるでしょう。それは私たちの望み、私たちの悲願。だけどね、今はまだ、その時じゃない」
彼女のすべてを無条件で受け入れる狂信者はようやく気が付いた。違和感――そう、喋り方が違っているのか。それに普段の彼女なら、こんな風な言葉選びでもない気がする。
ひょっとして、幻覚世界の続いているだけ、なのだろうか。
(そうだとしても――)
子竜は女神の視線を感じながら、ゆっくりと拳を握る。
「だから何をすればいいのか……わかるわね?」
(知ってるよ。君のためなら、俺は)
蕩けるような微笑みを浮かべたまま、彼はそれを真下に突き出した。
何度も、何度も、殴り続ける。
何度目だろう、確かな手ごたえを感じた彼は、突き下ろした手でその先を掴んだ。
暗闇が散り、彼は見覚えのある情景が戻ってくる。ティアは肩で息をしながら少女型のナイトメアと組み合ったまま、きょとんとした少女の痩せた胸元に手を突き入れている。握りしめたものの感触をしっかり感じ、捩じりながら引き抜く。
ようやく、幻術を破られた上に現実世界では急所を探り当てられて奪われたのだと理解したらしいナイトメアが何か声を上げようとして、ごぼっと口から出血した。




